• ベストアンサー

擬態語、擬声語について

すっと消えるの「すっと」のように、一回だけ言葉を述べる場合と、どんどん行ったの「どんどん」のように2回繰り返す場合がありますが、どんな意味の差があるのでしょうか。 具体的に行為などが複数の場合に2回繰り返すことがあるのは分かるのですが、それだけではないような感覚もあります。 また、小鳥がピーピーと鳴く。の「と」が省かれる場合がありますが、一回だけの場合は、省かれませんよね。これはどんな意識があるからなのでしょうか。二回繰り返すことにより、その意味合いがはっきりするので、文法的な役割をはっきりさせる意味合いのある助詞を取っても、誤解を招く可能性がないからでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.5

お礼を言われるほどのものではありませんがNo.4のお礼の欄から返事の必要なことを記します。 (1) 辞書によると「燦燦」、「滔滔」、「皓皓」、「淡々」、「静か」が形容動詞で「今夜は静かだ」との表現が成立するのですから 太陽の光は燦燦だ、大河の流れは滔滔だ、月の光は浩浩だ、彼の態度は淡々だ、なども耳慣れないだけで用法としては認めるのでしょうか。訂正されてしまいそうな気がしますけど。では、どうするべきかとなると何の主張もありません。認める立場と認めない立場に別れそうです。 「燦燦たり」に違和感がなく「燦燦だ」に違和感があるのは漢語から和語への移植中だから(ほぼ移植完了?)なのではないでしょうか。文語体のときは末尾に来られるが口語体では末尾には置けない(置かないほうがよい)、といった議論がありそうに思います。「燦」の字を目で見たきは意味があって形容語だと認識できますが「さん」と耳で聞いたときは漢字のもつ意味が消えていて「さんさん」は副詞化してしまうのではないでしょうか。 と、ここまで書いて自分の主張が纏まりました。『「燦燦」が辞書のいうように形容動詞の語幹であるなら「燦燦だ。」と末尾に置くのも認めるべきだし、末尾には置けないというなら「さんさん」と平仮名で書き、副詞に分類すべきだ。』・・・これが私の最新の主張です。 (2)「全ての品詞があったほうが便利」というのは粗雑な表現で、お説のような不合理が生じることは理解できます。「あった方が便利な品詞は創られる傾向にある(初期には誤用だと非難される)」程度の表現に変えます。 完全な人造語であるエスペラント語は自然発生的言語(日、英、仏・・・)に比して、より多くの単語にちょっとした語尾の違いを加え全ての品詞を用意してあるのではないかと想像しています。全ての品詞とは言い過ぎにしても少なくとも、そういう傾向があるだろうと予想しています。書店で立ち読みした限りでは、当たらずといえども遠からず位には思えますが言語痴の私には即断できません。誤解が起きない範囲で、より多くの単語に全ての品詞があったほうが合理的なため、この方向へ言葉は乱れていく(進歩していく)と思います。 類似の話で「ぜんぜん」のように後ろに打ち消しが来るときにしか使えないなどという単語の使い方は、どんなに誤用だと嘆いても乱れていくのが当然だと思います。乱れる方が合理的です。 (3)No.4の(2)の解釈1の「きらきら(な)星」は連体詞「きらきらな」を発明し、連体詞「きらきらな」+「星」=「きらきら(な)星」という解釈もあるかもしれませんが、長すぎるのを気にしていたのと形容動詞化と考えた方が広く網を被せられるので敢えて触れませんでした。 (4)念のため申し添えますが私自身はNo.3の3 「独りで学べる日本語文法」東中川・東雲著 凡人社 P.75、P.76の記述にあっさり納得してしまっていて、これに至る背景を勝手に推理しているに過ぎず、この書に反論している訳ではありません。 以上でNo.4までに関連した話は終わりです。(5)は初登場の新しい話です。 (5)巻末の付録の形容動詞の部の文章と岩波書店の編集部の口頭とによると、広辞苑では全ての形容動詞を形容動詞としては見ず、体言+助動詞として見ているとのことでした。形容動詞の存在を認めないのではなく認めた上で、体言+助動詞として捉えているというニュアンスでした。(以下は岩波の返事ではありません)よって、広辞苑では「燦燦」、「滔滔」、「皓皓」、「淡々」は全て体言です。副詞でもないし形容動詞の語幹でもありません。これはこれで、とてもすっきりした考え方だと思います。きらきら、つるつる、などはすべて副詞でなく状態の様子を表現している体言になるので、きらきら星も、つるつる素麺も単なる複合語であって誤用ではないし、今考えている助詞の省略というややこしい議論の一部は封殺されます。(3)の形容動詞化だの連体詞化だのといった議論もなくなります。ただし、これは(4)の文法書の記述とは両立しません。(4)では副詞だと言い(5)では体言だと言っているのですから。つまり専門家の世界でも一刀両断では片付けられない領域のようです。 (6)No.4の最終行 >>納得されるまで締めないでおかれると小生の参考になって有り難いです。 どうぞ、この一行は無視して下さい。興味があるからといって、よそ様の権利を横取りする訳にはいきません。当然ながら、ご自分の総合判断でお決め下さいませ。

taked4700
質問者

お礼

ありがとうございます。 楽しくご回答を読ませていただきました。 非常に論理的に考えられていて、その論理展開が見事ですね。 僕自身は、何か、もっと素朴な日常性のある議論を期待していたのですが、それは、元々無理な期待だったのでしょうね。

その他の回答 (4)

回答No.4

重ねて申し添えます。これは回答や助言ではありません。鬱陶しければ読まないで下さい。 こうして素人なりに検討していれば、いずれ見兼ねた専門知識の所有者が交通整理をしてくれると信じているが故の投稿です。もっとも実はそれが早々のNo.1の回答だったりもするわけですが。(つまり、この投稿は全く小生の都合によるものです。) 多分、専門家も一直線でNo.3に到達したのではなく質問者と同じ作業をしたのだと推測します。どう括っても例外が多く煩雑に過ぎ美しい法則にならなかったために便宜的にというか、苦肉の策というか(横着というか、疑問封じというか)No.3に落ち着いたのだと思います。よってここではNo.3に至る背景を探って見ます。No.3の「ズルサの賢さ」に納得がいくかも知れません。 下記の考察では擬態(声、音)語でない「互い」+「に」+「助け合う」、「互いに」+「助け合う」などは考察していません。 (1) 擬態(声、音)語が反復語で、かつ体言の状態が変化するときの体言の最終の状態を示すときの助詞は省けない。「に」には、この機能があるから助詞「に」は省けない。     例 床をぴかぴかに磨く。体がくたくたに疲れる。頭がふらふらになる。     解釈1 のんびりと、なのか素早く、なのかなど磨く過程は述べず、最終の状態がぴかぴかだ、と述べている。助詞「に」は省けない。     解釈2 「擬態(声、音)語+助詞」として見ず「ぴかぴかだ」という形容動詞の連用形「ぴかぴかに」だから「に」を省けない、という解釈もあるのではないか。小生自身は、こちらを採りたい。そのほうがいろいろなケースを統一して説明できる。ただし、そんな形容動詞はないとの非難を覚悟せねばならないし、またこの解釈は少数派でしょう。補遺の(2)に関連。 (2) 擬態(声、音)語が反復語でかつ(1)以外のとき、助詞は省ける。 例 店内をふらふら(と)歩く。稲妻がぴかぴか(と)光る。   歩き方が「ふらふら」なのであって店内がふらふらなのではない。よって(1)に該当しない。助詞「と」は省ける。 (3)反復語でない擬態(声、音)語につく助詞は省けない。 例 すっと消える。カチンと鳴る。ぐさっと刺さる。 補遺 既出の反例、疑問、問題点など (1)「燦燦と降り注ぐ」について    手元の辞書では「燦燦」と降り注ぐ、「滔滔」と流れる、「皓皓」と輝く、「淡々」と話した、などは形容動詞としています。で、あれば連用形の語尾「と」、「に」は省けないのが当然で、「擬態(声、音)語+助詞」 の範疇に入らないので考察から外しました。 (2) 「きらきら星」について これは誤用だとの指摘が予想されますが、誤用か否かは別次元の話として、ここでは誤用でないとしたときの考え方を述べておきます。 解釈1 「きらきら((と)光る)星」→「きらきら(な)星」、「きらきら(の)星」→「きらきら星」でしょう。 よって、「きらきら」が名詞化していて複合語「きらきら星」は最早「副詞+助詞」の範疇では語れなくなっている。 本来、副詞しか存在しない「きらきら」から形容動詞「きらきらだ」、名詞「きらきら」を発明してしまったと考える。 ひとつの単語に全ての品詞があった方が便利だから無意識のうちに新しい単語がつくられてしまう。どれだけ耳慣れているかによって、誤用であるか否か論が分かれる。合理的な方向に国語が変化して(乱れて)行く、ひとつの例。 解釈2 擬態(声、音)語が形容している用言が明らかなときは助詞のみならず用言をも省ける。 「ほかほか((と)暖かい)懐炉」、「にこにこ((と)笑った)顔」・・・。     解釈2より解釈1の方が優れている?。 小生自身は理性では「きらきら星」は誤用だと思いますが、言語感覚としは、ほぼ違和感がなくなってしまっています。 (3) 「水がさらさら(と)流れる。」、「その石はどっしり(と)重い。」、「その説明は、彼の行動にぴったり(と)当てはまる。」について     紛らわしくはあっても、さらさらと水、どっしりと石、ぴったりと説明、は不自然ですから動詞を形容していると見てよいのではないでしょうか。 上記に類する考察の末にNo.3へ至ったのではないかと推察します。 反論があり、かつ素人を相手にするのも疲れないとおっしゃるのであれば、またどうぞ。 納得されるまで締めないでおかれると小生の参考になって有り難いです。

taked4700
質問者

お礼

ありがとうございます。 >重ねて申し添えます。これは回答や助言ではありません。鬱陶しければ読まないで下さい。 こうして素人なりに検討していれば、いずれ見兼ねた専門知識の所有者が交通整理をしてくれると信じているが故の投稿です。 とのことだったので、お礼を申し上げるのをずっと差し控えていました。 でも、あまりに長い間何もせずにいるのもよくないと思い、今の時点でお礼を申し上げるしだいです。 燦燦とか滔々は、形容動詞なのですね。擬態語とは違うと言うことで、そうか、と言う感じです。漢字があるということは、それだけ古くからある表現なのでしょうね。中国でも使われていて、その点が、いわゆる純日本製の擬態語とは違うのかと感じます。 実を言うと、自分の疑問の最初のきっかけは、中国語で、語を重ねて表現するものがあるとどこかで聞きかじったことでした。 >本来、副詞しか存在しない「きらきら」から形容動詞「きらきらだ」、名詞「きらきら」を発明してしまったと考える。 >ひとつの単語に全ての品詞があった方が便利だから無意識のうちに新しい単語がつくられてしまう。どれだけ耳慣れているかによって、誤用であるか否か論が分かれる。合理的な方向に国語が変化して(乱れて)行く、ひとつの例。 ある単語から派生して他の品詞が作られるのは、いろいろ観察される現象ですよね。 ただ、全ての品詞があったほうが便利とまでは言い切れないと感じます。あくまで、現実を表現する道具として言語はあるので、全ての品詞をあらゆる語が備えてしまうと、ある意味、あまりに言語表現が自由になりすぎ、却って混乱するのではないでしょうか。 ただ、「きらきら」については、おっしゃっているように、「副詞しか存在しない「きらきら」から形容動詞「きらきらだ」、名詞「きらきら」を発明してしまった」とされるは、非常に納得します。 また、ご回答していただけるのを楽しみにしています。

回答No.3

「燦燦と注ぐ」はNo.2に対する、もっともな反例だと思います。町内の図書館にただ一冊あった文法書を拾い読みしたところ呼吸が止まりました。No.2を撤回します。 1 自分に関心のあった質問文の後半だけにしか触れません。 2 質問文のニァンスから副詞全体ではなく主として擬態(声、音)語絡みについてのみ考えます。 3 「独りで学べる日本語文法」東中川・東雲著 凡人社 P.75、P.76の記述から小生の文責によってまとめました。 これまでに登場した例を中心に片付けていくことにします。 Aグループ カチカチ(と)鳴る。ふらふら(と)歩く。さらさら(と)流れる。ぴったり(と)当てはまる。 「カチカチ鳴る」としたときは「カチカチ」が副詞で、「カチカチと鳴る」としたときは「カチカチと」が副詞だそうです。文章でそう書いてある。よって「と」は助詞でないのですね。 Bグループ ふらふらになる。ふらふら(と)する。ぴかぴかに磨く。ぴかぴか(と)光る。 「ふらふらに」が副詞。「に」は助詞でない。文章として、そうは書いてないが「ふらふらに」に下線があって、この書籍全体の記述法からいって小生の見解では、そうとしか読み取れませんでした。 これはNo.2の(1)、(2)と無縁ではなさそうですね。 Cグループ すっと消える。カチンと鳴る。ぐさっと刺さる。 すっと、カチンと、ぐさっと、が副詞。根拠はBグループと同じく、これらに下線。 以上で擬態(声、音)語関係は終わりでした。 Dグループ うっかり忘れる。ぼんやり歩く。ぴったり当てはまる。燦燦と注ぐ。滔滔と流れる。 「燦燦と注ぐ」をここに入れたのは小生の判断です。その理由は書籍がここに「淡々と話した」を入れていたからです。 つまり「淡々」、「燦燦」、「滔滔」などは様態を表してはいるが擬態語ではないという判断のようです。 「ぼんやり歩く」などは「ぼんやり(と)歩く」とした方がよい気がしますが、深い意味があるのかないのか、そうはなっていませんでした。 さて、このように、ここでの「に」、「と」は、助詞でなく副詞の末尾であるぞよ、と専門家に言われてしまうと「助詞が省ける場合と省けない場合」という観点からの疑問や議論は成立しなくなってしまいますね。何だか狐に抓まれたような気分ですが止むを得ません。 補遺 被修飾語の機械的判定法について 1 「水がさらさら(と)流れる」について 結果として、「さらさらな状態の水」になったのではなく「流れる動作の有様」がチョロチョロでもなし、ジャージャーでもなし「さらさら」なのだから、さらさらは動詞を形容している。 機械的判定法(自己流ながら判定法として100発100中?。というより誰でもやっている?) 「さらさらと流れる」は日本語として完全だが「さらさらと水」は不完全。よって「さらさら」は「流れる」を修飾している。 2 「星がきらきら(と)光る」について 「きらきらと光る」は完全だが「きらきらと星」は不完全。よって「きらきら」は「光る」を修飾。 3 「その石はどっしり(と)重い」について 「どっしりと重い」は完全だが、「どっしりとその石」は不完全。よってどっしりは重いを修飾。 4 「その説明は、彼の行動にぴったり(と)当てはまる。」について 「ぴったりと当てはまる」は完全。「ぴったりとその説明」は不完全。よって「ぴったり」は動詞を修飾。 何だか尻切れトンボの役立たずで釈然としません。すみませんでした。

taked4700
質問者

お礼

ありがとうございました。いろいろ調べていただき、感謝します。 >ここでの「に」、「と」は、助詞でなく副詞の末尾であるぞよ、と専門家に言われてしまうと「助詞が省ける場合と省けない場合」という観点からの疑問や議論は成立しなくなってしまいますね。 確かに、驚きです。 ただ、現実的には、「彼は、トントン(と)戸をたたいた。」のように、「と」などが省ける場合があり、それをどう考えるかは、まだ問題として残っているように思うのですが。 尻切れトンボと言うことはまったくありません。非常にきれいな論理展開で、いつも楽しんでご回答を読ませていただきました。 重ねてありがとうございました。

回答No.2

回答ではなく便乗です(この横からの口出しをも吸収した回答を後の人が寄せてくれるものと期待して)。 以下、断定していても私はそう思うというだけの話です。悪しからず。 (1)助詞の省略が不可能なのは擬態(声)語が見かけの文法とは別に実質上、体言を修飾しているとき。言い換えると体言の状態が変化しているときの体言の最終の状態を形容する場合は助詞を省けない。文法上は動詞を修飾しているように見えても実質は体言を修飾している。 (2)助詞の省略が可能なのは擬態(声)語が実質上も用言を修飾しているとき。言い換えると体言の状態が変化しているときの変化の仕方(途中経過)を形容する場合は助詞を省ける。 (3)(正)コチコチに固まる・・コチコチなのはコンクリートという体言。   (誤)コチコチ固まる・・・・固まるという動作がコチコチなのではない。省略不可   (正)コチコチと鳴る   (正)コチコチ鳴る・・・・・鳴るという動詞、用言を形容。省略可 (正)ふらふらになる・・・・ふらふらなのは頭という体言。 (誤)ふらふらなる・・・・・なるという動作がふらふらなのではない。省略不可 (正)ふらふらと歩く (正)ふらふら歩く・・・・・歩くという動詞を修飾。省略可 (4)擬態(声)語であるなしに関わらず、また動作が反復するしないに関わらず単語として熟成していて、かつ前記(2)に該当すれば助詞の省略は可、単語として熟成していなければ助詞の省略は不可。    熟成している単語・・・・どんどん、ピーピー、ポンポン、ピチピチ、うっかり、ぼんやり・・・。    熟成していない単語・・・すっ、ぱっ、ピー・・・。    (正)ぼんやりと過ごす。(正)ぼんやり過ごす。(正)すっと消える。(誤)すっ消える。 (5)門外漢の特権で大胆に言ってしまうと、辞書の「に」や「と」の欄には擬態(声)語にこれらの助詞が接続する場合の考察が欠落している。   少なくとも欠落している辞書も流布している、改定する際は考慮すべきだ、と思います。 (6)自動詞、他動詞の観点からは説明がつかないとのことですので、この視点での検討は一切していません。 ここまでに登場した疑問だけを解決するべく、こじつけた感があります。国語の多方面からの検討をする能力はありません。この投稿では説明できない事例の指摘があれば、有り難いです。 「おしえて」が互助組織で3回質問する間に一回位は何かしらに回答しないといけないのかなぁ、という苦し紛れの投稿です。よって過分な気遣いは無用です。

taked4700
質問者

お礼

ありがとうございます。 面白いお考えですね。「体言の状態が変化しているときの体言の最終の状態を形容する場合は助詞を省けない。」 自分も今ちょっと考えてみましたが、いろいろな例をかなりうまく説明ができますね。 でも、いくつか、疑問と思えるものを思いつきました。 「水がさらさら(と)流れる。」はどうでしょう。「流れる」という用言を修飾しているようにも、また、「水」という体言の状態を説明しているようにも思えます。 「星がきらきら(と)光る。」はどうですか。「きらきら星」とも言いますから、体言修飾と見れないこともないような感じがあります。 「その石はどっしり(と)重い。」はどうでしょう。これも「どっしりした石」と言えます。 「その説明は、彼の行動にぴったり(と)当てはまる。」は、「ぴったりの説明」と言えます。 「太陽の光が燦燦と降り注ぐ。」では、「さんさんと」と言うように「と」を省略できません。でも、多分、「さんさん」は「降り注ぐ」を修飾しているように思えます。 実を言うと、自分は、擬声語は「と」、「に」を省略できるのかなと感じていました。擬声語は擬態語と比べて、副詞の要素が強く、それだけ独立した感覚があるような感じがしたからなのですが、やはり、それでは説明できないことが結構あるようで、だめですね。 >辞書の「に」や「と」の欄には擬態(声)語にこれらの助詞が接続する場合の考察が欠落している。 このことについては、まったく気がついていません。と言うか、自分は参照できるような国語辞典を持っていません。 しかし、確かに、用言修飾のときは、「と」、「に」を省略できると言う考え方は非常に説明できる範囲が広いですね。英語でも、前置詞を日本語の助詞と見ると、同じようなことがある程度言えて、大変刺激的なお考えだなと感じています。 重ねてありがとうございました。

  • shiremono
  • ベストアンサー率70% (187/267)
回答No.1

(1) 反復型の擬態語・擬声語の意味 核になる意味は、やはり音や動きの繰り返しではないでしょうか。そこから連続性や状態、属性、強調まであらわしているのだと思います。 反復型の擬態語・擬声語には反復しなくても使えるものが多いのでそれらを比較してみると、反復しない場合は一回かぎりの出来事をあらわす意味になる傾向があるようです。 (2) 「と」 の省略 反復型の擬態語・擬声語で 「と」 を省く意識としては、やはり反復自体に副詞をつくる意味あいがこめられているということではないかと思います。 「と」 が省かれるのは、「ぼんやり」、 「うっかり」 のように、4音節に撥音か促音をふくんで 「り」 でおわる型の擬態語・擬声語 (という呼称に語弊があれば、広義のオノマトペ) にもあてはまります。 「と」 は、ふつう格助詞にまとめられているようですが (広辞苑、大辞林など)、状態 (および程度や頻度) をあらわす副詞をつくる接尾語とする辞書もあります(新明解3版)。多くの古語辞典では、格助詞ではなく副詞の一部とみなしているようです。 擬態語・擬声語で結果をあらわす場合には 「徹夜してふらふらになる」 のように 「に」 をつけることが多いのですが、この場合は 「に」 を省略することができません。興味深いところではあります。この 「に」 も格助詞に分類されていて、もうひとつ釈然としません(「ぴかぴか」 は体言に準ずるのでしょうか? 新明解には、擬態語・擬声語+ 「に」 の用例が載っていません)。 わからないことだらけの回答で、質問者さんのお考えにとくに何か変更したりつけ加えたわけですらなくて、たいへん恐縮です。 参考 『オノマトピア』 (筧壽雄・田守育啓編著 勁草書房 1993年)

taked4700
質問者

お礼

ありがとうございます。とても感謝します。 自分は、ほとんど国文法を勉強したことがなく、活用とか、格助詞とかの言葉も、あまりイメージがつかめません。 「ぼんやり」、 「うっかり」 のように、4音節に撥音か促音をふくんで 「り」 でおわるものについては、まったく考えていませんでした。 最近は、副詞について、いろいろ疑問に思うことが多く、質問させていただいた次第です。 考えていて、一つ引っかかることが出てきました。それは、自動詞と他動詞の問題です。純粋に自動詞、他動詞として考え、目的語が省略されているから自動詞扱いになるとかでない見方で考えるのですが、「カチカチに固まる」は言えて、「カチカチ固まる」は言えません。「ポンポン投げる」と「ポンポンと投げる」は両方ともOKです。つまり、目的語の存在が、たとえ省略されていても、擬態語、擬声語の意味合いを明確に示し、「と」とか「に」の省略を可能にすると思ったのですが、どうでしょうか。 でも、だめですね。「魚がピチピチ跳ねる」のように自動詞でも「と」を使わない例がかなりありそうです。 やっぱり、わからないというのが、素直なところです。

関連するQ&A