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家のつく名前

徳川家将軍継承者だけに許された字なのでしょうか? 他の大名家には、見当たらないと思うんですが。 (江戸時代)

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回答No.1

 代々家がついているのは下記の高取藩の植村家くらいでしょう。大名になる前から家康から代々家を付けることを許されたそうです。それ以外では初期に家康から1代限りで与えられたもので島津家久、最上家親などがいます。  時の主君や天皇、将軍の諱を避けるのが常識でした。だから「家」のほか天皇の「仁」も避けました。大名家であれば藩士は藩主の字を避けました。  家だけでなく家~の下の字も同様です。さらには音が同じなのを避けることもありました。ただしこれは上からの命令ではなく、下が自主的にすることで、しなかったからといって咎められることもありません。下が迷ったら、老中や側用人におうかがいをたてることもあります。  例として尾張光友、尾張綱誠は光義、綱義でしたが、5代将軍綱吉のときに「よし」が同じという理由で改名しています。また久松松平家の松山藩、今治藩、桑名藩は代々「定」をつけてましたが、13代家定のときは松山藩のみ「定」をやめましたが、今治藩、桑名藩は変えませんでした。あくまで自発的なのもので、先祖代々付けているという正当な理由があれば無理に避ける必要もなかったのです。  余談ですが、大名家では時の将軍だけでなく過去の将軍の字も避ける 傾向にあったので江戸後期になると付ける字に苦労してやたら難しい字の諱が出てきます。 http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kinki/takatori.html http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1697235

その他の回答 (2)

  • koon1600
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回答No.3

No.2さんの疑問と、ちょっと補足。 利家は幕府成立前に死んだので、初代は息子の利長です。 ついでに言うと彼と家康では利家のほうが4歳程年上です。 前田家は豊臣政権化では徳川の次の格式を持っておりまして、ナンバー3の位置にありました。 秀吉の死後は反徳川の筆頭でしたが、1599年の利家の死後、徳川に降伏して所領を安堵されます。その後1600年に関ヶ原で東軍が勝利して、幕府成立への運びとなります。 家の格式の順番は徳川政権になってもあまり変わっていません。実際には豊臣政権化からの引継ぎに近く(実際にはこれがもとになっており、それに室町幕府がつけた格式をあわせたものが江戸幕府の各家の格式となります)、最初西よりでも、降伏した家は外様であろうとも格式が高い状態で残っています。これは、今川や喜連川といった、没落名門を高家として復活させていることからも格式が過去のものに近いことが伺えます。 こういった格式が徳川の時代になってもずっと存続していたのです。 なお、前田家は徳川幕府諸侯格式一覧表によると諸侯の一、つまり徳川の次となっています。なので御三家ら一門衆の次の格式、となるのです。 豊臣政権では、豊臣、徳川、前田の順番で格式が高いので、豊臣滅亡後、徳川が1、前田が2になったのは、順当であるとともに、徳川政権での格式が豊臣政権の実質的引継ぎであることがよくわかる例でしょう。 なお、家の付いている家というのは、戦国時代でもあまり数はありません。 九州の龍造寺なんかは代々つけていたのですが、幕府初期に鍋島に譲ってしまっています。 もともと「家」という字を代々つけている家が少なかったのと、幕府に遠慮したのが、家という字が付いていない要因かと。 以下余談ですが、前田家は利、上杉家は景、織田家は信、松平は本来的には康、などとなっています。が、これらはつけている家があまりない文字ですね。 多いのは、義、政、重、親などでしょうか・・・義なんかは、足利がつけていたため多用されています。源氏系に多いですね。

  • chaff
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回答No.2

初代加賀藩主は「前田利家」ですね。 でもまあ、この人は死ぬまで家康と張り合った人なのだそうで将軍家もオイソレとは難癖も付けにくかったのかもしれません。(失際、何回か取り潰しの危機にあっていたようですが) ところで、なぜか前田家は御三家と同じように代々将軍の名前から一字を貰う事が多いようです。一応外様のはずですが、なんか由来があるんでしょうかね?

参考URL:
http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/kagahan/rekishi/zu.html

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