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"cut up a soft coconut into small squares" のイメージが湧きません

『パパラギ』という本の中で、サモアの若き酋長が西欧人を見て、彼らの時間に対する感覚を痛烈に批判しています。 西欧人が一日を時間、分、秒と細かく分けるという部分を、 (1)ある訳本によれば、 1. 彼[西欧人]は柔らかいヤシの実をナタでみじんに切るのとまったく同じように、彼は一日を切り刻む。 と書いています。 (2)一方、この部分は英訳本では 2. He cuts up his day divide as one would cut up a soft coconut into small squares. (Peter Cavelti訳です。この訳者名で検索を掛けるとヒットします) 3. He cuts it as if one would go with a machete through a soft coconut. (http://72.14.203.104/search?q=cache:Adtug4YVmNMJ:www.nonduality.com/papalagi.htm+Erich+Scheurmann&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=11の初めから5分の1ぐらいのところ) 4. they slander God and his great wis­dom by dividing every new day into a complex pat­tern, by cutting it up into pieces, the way we cut up the inside of a coconut with our machete. (http://72.14.203.104/search?q=cache:MrQxJwiH66AJ:gospelofthomas.fol.nl/thepapalagi.html+Papalagi&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=5 の初めから5分の2ぐらいのところ) そこでお尋ねです。私にとっては、 (あ) 「柔らかいヤシの実をナタでみじんに切る」(あるいは英語の2~4の該当部分)というのはどのようなイメージなのでしょうか? さらには、 (い) この行為がふつうに行われることなのか、それともあくまで想像上のことでサモアの人からするとふつうはありえない、ある意味でばかげたことなのでしょうか? 語学面、あるいはヤシの実の食べ方(あるいはヤシの実の処理の仕方が)おわかりの方、(あ)、(い)の2点についてお教えください。

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  • shiremono
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回答No.1

興味本位でココナッツをまるごと買ってきて、殻を割って果肉を料理に使ったことがあります。 殻はとても硬いので、「柔らかいヤシの実」 というのは、あきらかに内側の白い果肉の部分だと思います。英訳4は、そのことがわかるようにことばをおぎなっています。 白い果肉は、何の用途に使うにせよ、殻から剥ぎとるか削りとるかしてから 「みじんに」 刻むと思います(ココナッツパウダーは、それを顆粒状に乾燥したものです)。 したがって、 「柔らかいヤシの実をナタでみじんに切る」 というのは、サモアの人にとってごく日常的な行為のはずです。「一日を切り刻む」 ということがありえないのです。

参考URL:
http://en.wikipedia.org/wiki/Coconut
fwkk8769
質問者

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貴重なご回答をありがとうございました。助かります。

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  • ucok
  • ベストアンサー率37% (4288/11421)
回答No.2

サモアには詳しくないのですが、ココナツなら、むかし、暖かい土地に住んでいた頃に、よく丸ごと買ってきて食べていました。 まず食べるところは白い果肉の部分と決まっています。そして、この果肉なのですが、若くて硬いとなかなか割れないというか刻みにくいし、食べても美味しくありません。反面、熟してきて食べ頃になると、比較的簡単に割れる一方で、いくら熟しても、ぐしゃっと潰れたりせずに、サクッと割れるものです。 したがって、「柔らかいヤシの実をナタでみじんに切る」という行為は、まさしく時を刻むように、規則正しくサクサクときれいに刻んでいく状態を、私ならイメージします。 さて、これがサモアの若き酋長の周りで日常的に行われているかどうかですが、英訳に「the way we cut up」ともあるように、「自分たちがしている、こんな行為にたとえると分かりやすいでしょ」という表現なわけなので、語り手である酋長としては、この行為が「誰もが知る行為」だと思っているのではないでしょうか。 それが馬鹿げたことかどうかは知りません。ただ、ヨーロッパ人は、日本人やドイツ人を皮肉って、「秒針が0時を指した瞬間に列車を発車させるんだから、まったくもう」というような言い方をします。つまり、時間や数字に対して神経質になったり、振り回されたりすることを嫌う文化は、案外と地球上に多く、察するに、サモアでも、もっと人間らしく、のんびりと過ごす人生が美徳とされていて、サクサクと刻まれては片付けられるヤシの果肉のように一日が消費されるのは、なんだか味気ないと思うのではないでしょうか。

fwkk8769
質問者

お礼

貴重なご回答をありがとうございました。助かります。

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