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戦国時代の一騎打ち?inJAPAN
戦国時代、一騎打ちゎほとんどなかったと言われてますよね。あの有名な信玄と謙信の一騎打ちもですが・・・ レスにもちょいちょいあったのですがなぜ一騎打ちがなかったのか、詳しく教えて頂けないでしょうか??将軍自ら部隊を率いて行き相手の将軍と対面ということはなっかったんでしょうか・・ もし一騎打ちがあったならそれはどんなときかもよければお願いしますっ!!
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戦国時代どころか、世界の歴史上「総大将同士の一騎打ち」なんてのがあった例はほとんどないと思いますよ。三国志でたくさん一騎打ちがあったように思われていますが、あれは三国志演義という小説での創作がほとんどです。史実ではありません。 総大将が死ねば、戦は負けです。No1さんの言われる、桶狭間での今川軍の例や、竜造寺隆信が討ち死にした沖田畷の合戦などの稀な例があります。普通は、そういうことがないように総大将の周りを100人単位の「馬廻」や「小姓」の精鋭が護衛します。家中で一番強い武士が選抜されます。 上杉謙信、あるいは越前の朝倉家では、特に大きな体格の武士を集めて、総大将親衛隊を組織していたようで「力士隊」と呼ばれていたようです。これは、鉄砲や弓矢から総大将を守る役割もあります。 上杉謙信が、数十人の「力士隊」に護衛されて、数千の北条軍が囲む味方の城に悠然と入城したという逸話があります。プロレスラーのような力士隊が囲んでいれば、容易には手出しができなかったということです。 仮に、上杉謙信が非常識な人で武田信玄の本人に自ら斬り込んだとします。信玄の親衛隊が謙信を阻止し、謙信の退路を絶って討ち取るか捕虜にするだけですよ。信玄は報告を聞いて「謙信は何とバカな奴」と吐き捨てるでしょう。もちろん、実際の上杉謙信はそんな愚行は行いませんでした。 大坂夏の陣で、大坂方の真田幸村が、徳川家康の本人に決死の突撃をかけたといわれます。当然ながら家康の本陣勢に阻まれて失敗に終わり、真田は討ち死にしました。真田が大坂方の総大将であったとは到底言えませんが、「未遂に終わった一騎打ち」と言えるかも知れません。 「信玄と謙信の一騎打ちも、有りそうで無さそうではっきりしない話ですけど、謙信は自ら太刀打ちしたと手紙に書いたようなので、乱戦で刀を振い、相手が信玄では無いと言う証拠は無いので、可能性がゼロという訳でもないようです。」 川中島の合戦では、最終的には上杉軍は戦場から撤退しました。撤退戦というのは陣形が乱れて損害が多いものです。実際、千曲川を渡れずに武田軍に討たれた上杉兵が多数いたといわれます。謙信の手紙の記述は、「謙信が撤退する途中で、護衛が手薄になって武田兵と自ら戦った」ということと思われます。 何と言っても、「信玄が自ら上杉兵と戦った」という記録が全くありませんので、「信玄と謙信の一騎打ち」が史実であった可能性はゼロと判断します。
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- ceelee-boy
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一騎打ちというは、元々は代表戦って意味ですよ。 全員で戦ってお互い消耗するよりは、最強の士を一人ずつ(供周りはカウント外)出して戦った決着で勝敗を決めようというものです。仁義のあったころの話です。オリンピックもワールドカップもこの意味では一騎打ちですね。 代表チームが負けても、まだまだ選手は居るって、疲れた相手に即時再挑戦して勝っても、卑怯なだけですよね。 仁義が廃れてくると、もうなんでもありと、総力戦に突入しがちです。それでも、この頃は武士だけの戦いですから、一般農民や商人は知らん顔、上杉謙信が勝っても当時の新潟県民はよろこんだりしないですよ。今で言うと新潟のヤクザが長野のヤクザに出入りで勝ったような感覚でしょう。 国民皆兵とかやりだして、ゲリラ戦で抵抗なんてやりだした近代は、仁義はおろか、戦闘員と非戦闘員の別もなくなりましたが。 ちなみに謙信と信玄の一騎打ちは、決着つけようと出向いた謙信を何日も何日も信玄が無視するものだから、「しょうがない帰るか」と帰る謙信の帰り道に城を抜け出した信玄が待ち伏せしていたんで、しかも、謙信の到着時刻が想定外に早かったので、帰陣では先頭になる謙信と構えを未構築の信玄がかなり近い位置で開戦とになり有名になったんで、お互い意図してやったわけじゃないんですよね。
- webuser
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ANo.7です。 昔は現在と違い単位や定義が時や場所で曖昧です。 一騎が何かというのも時と場合で違うと思います。 それは断っておきます。 信長はよく一騎で駆けたと書いているのを見かけます。 まず、自分と供回りだけで行動して、少し待つと、慌てて佐久間などの武将がやってきて叱責をうけるといったエピソードです。 この時に「一騎で駆けた」と表現される事がありますが、この場合の一騎は一人でという意味ではなく、供回りも合わせての事です。 源平時代は「一族の名誉の利権の為」に合戦に、戦国時代は「生きる為、立身の為」に合戦に参加するのが主です。 生きて帰る事と首を持って帰る事が最大の目標なのでプロセスはあまり重視しません。 正々堂々と戦う事も重視しません。 後の江戸時代に平和でする事の無い武士が「武士道」なるものを妄想しますが、そういう思想は後世のもので微塵も持ち合わせていません。 一対一でスポーツ感覚で戦う事は稀であったと思われます。 敗戦で供回りをなくし、帰るところもなくし、死に場所として一騎で敵に挑む将はあったと思いますが、勝っている側はそんな事には付き合わず、集団でからめ取る事が普通です。 加藤清正のように(秀吉の)一族郎党として合戦に参加し、出柄を立てて出世した人は自分の槍で多くの兵や将を倒す機会があったかもしれません。 他の将を1対1でしとめた事もあるかもしれません。 でもそれは自分が将として他の将と一騎打ちをして倒したというより、将(秀吉の)の下で槍働きをして討ち取ったに過ぎません。
- Pinhole-09
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No.8です。 源平時代、「やあ大勢にて掛かるとは卑怯なり」と言ったかどうか判りませんが、そのような風潮はありました。 この頃は双方とも、鎧で完全武装した騎馬武者に、従う郎党もそれなりの軽い鎧(銅丸、腹巻など)に脛当てなどの武装をしていました。 室町時代の悪党足軽は金が無く、もつと軽装の防具なので、一対一の勝負では、逃げる一方で鎧武者を倒すことは出来ません。 それで身軽さを活用し、数を頼って統率の取れた集団で狩りをするようにして、強敵を倒しました。
- Pinhole-09
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戦国時代将軍同士の一騎打ちは聞いていません。 一騎打ちとは文字通り1人対1人の戦いですが、一騎とは馬一匹、槍一筋の士のことで、足軽、郎党は含みません。 旗本八万騎といいますが、これは徳川将軍の身代が400万石で、50石あたり一人の軍役で計算し、八万人の軍隊を持つという事です。 戦記ものでも騎と人は混同しています。 源平時代は一騎打ちは珍しくありません。 騎馬武者同士が名乗り合い「一騎打ちにせん」と声をかければ、双方が郎党に手出しするなと言って、弓を射あい、矢がつきれば、太刀で打ち合い、落馬しても取り組みあい、勝負をつけました。 敗れた郎党は主人のなきがらをかついで、すごすご引き揚げました。 このモデルのような事は今昔物語(こんじゃくものがたり)にある、源充と平良文の争い(これは無勝負)の話など、多々あります。 一軍の将は武術に優れる必要がありました。 南北朝時代、悪党と呼ばれた足軽(江戸時代の足軽とは違う)は多勢で少数の強敵を、押し包んで倒す集団戦法を得意とし、武士もこれに習い、正々堂々の一騎打ちは見られなくなりました。 室町時代、戦国時代と続きます。 一軍の将は後方に控え、集団をいかに操るかが力量の時代になりました。 敗軍の将は複数の敵武者にかこまれて、討ち死にしました。 しかし合戦のなかで散り散りになり、有力武士が鉢合わせして、一騎打ちになることは、結構ありました。 加藤清正の初陣の手柄などです。
お礼
回答ありがとうございます☆ ついでにといってはなんなんですが、なんで集団戦法になっていったんでしょう??
- webuser
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そもそも一騎とは馬に乗った一人の武者ですが、それは狭い意味でそうですが、戦場で指す一騎とは一人ではありません。 馬に乗って兜をかぶった武者はある程度の大きさの家の党首であり、一族郎党、部屋住みの兄弟や小物が周りにいて一緒に行動します。 一騎とは一人ではなく、その1戦闘集団を指す事が主だと思われます。 主から見れば正式な家来は党首だけでその他は人間としてカウントされません。 党首が取った首も郎党がとった首も全て党首が取った首としてカウントされ記録されます。 恩賞は党首にのみ支給されます。 雑兵同士の戦いは一騎打ちとは言いませんので、最小単位の一騎打ちは数人同士の戦いとなります。 一騎打ちはそもそもタイマンではありません。 馬に乗った二人が馬に乗ったまま戦うなんて事もありません。 馬は移動する時に使うもので戦う時は基本的に下馬します。 だいたい馬なんてスタミナ無いので30分も連続で走らせると泡吹いて倒れます。 兜武者が一人で馬に乗って戦場を走るのではなく、 兜武者が乗った馬のサイドで口取りしてる小物がいて、あと数人周りにいて、一緒に徒で動きます。 それが一騎駆けです。 大将ともなると周りに相当の人数がいますがそれも含めて一騎です。 「上杉謙信は、数十人の力士隊に護衛されて、数千の北条軍が囲む味方の城に悠然と入城した」 これから説明的な部分を一切省けば 「上杉謙信は、一騎で数千の北条軍が囲む味方の城に悠然と入城した」 とも言い換えることができます。
お礼
回答ありがとうございます!! 一騎の意味が違うとは思いませんでしたぁっ↑↑ 馬に乗って戦わないっていうのも以外です。イメージと違うことばかりでおもしろかったです☆
そういえば西洋では大将自らが戦う例は多いです。 まず、東ローマ帝国皇帝コンスタンティアヌス11世。 コンスタンティノープルにてメフメト2世のオスマントルコの軍勢と市街戦を戦い、「もはや、世の首をはねるキリスト教徒はいないのか」と悲痛な声とともに剣を取ってトルコ兵に突っ込み、死体も容易に分からないほどの乱戦で戦死。 ローマ帝国のユリアヌス帝。 ペルシアのスーサ攻略戦に失敗し、皇帝自ら殿を指揮して撤退をしていたが、ペルシャ兵の槍を受けて戦死。 東ローマ皇帝バレンス。 「アドリアノープルの戦い」でゴート族の矢にあたって小屋に逃げ込んだところを焼き殺された。 ローマ帝国の皇帝で、この3人は自ら戦ったことがはっきりしている総大将です。
お礼
回答ありがとうございます☆
信玄と謙信が一騎打ちした可能性ですが、#3さんが書いているように、戦国時代の武将では常識的にあり得ません。 しかし、#2で私が書いたように、鎌倉時代まではあった話で、元寇のとき日本の武士は名乗りを上げて一騎打ちを行ったので、ばたばたやられたという記述もあります。 先に書いた、新田義貞と足利尊氏の一騎打ちも、実現はしませんでしたが、室町時代に至っても、武士の心の中にはやってみたいという思想があったことは判ります。 ここからは井沢氏の説にもなりますけど、#3さんが書かれた >上杉謙信が、数十人の「力士隊」に護衛されて、数千の北条軍が囲む味方の城に悠然と入城したという逸話があります。 のように、上杉謙信はいささか常識に欠ける言動の多い武将で、越後という田舎ですので、この時代では非常識とされている足利尊氏の頃の考え方が残っていないとはいえません。 #3さんが真田幸村が徳川勢に突っ込んだ例をあげられているように、織田信長も桶狭間では先頭に立って突っ込みましたし、一軍を率いて突っ込むことが、この時代は皆無という訳でもありませんでした。 豊臣秀吉でさへ、主君の信長を、他の武将と違って最後まで自らは戦わずに、最後の1人になってから戦うと評しているように、逆に考えると、秀吉の時代でも信長以外の武将の中には先頭に立つ大将が皆無ではないことを言っております。 この川中島の合戦では、戦死者が2割に達する乱戦で、副将の武田信繁も戦死する乱戦でしたから、もはやここまでかと諦め引き上げにかかった謙信が、武田軍の手薄な本陣を見て、思わず切り込んだ可能性はあります。 謙信まで達したかどうかは、見てない悲しさで分かりませんが、同時代の関白近衛前久が謙信に宛てた手紙で >予期せぬこととは言え、貴殿自ら太刀をとって戦ったというのも・・・ と書いていますから、少なくとも上杉の本陣もかなり手薄になり、謙信自らが刀を手にせざる得なくなったことが伺えます。 ロマンとしては、この「自ら太刀を取って」切りかかった相手が、武田信玄という話ですと面白いですね。 今川義元も織田家の服部小平太という武将と自ら戦い、服部の膝を切って退け、更に毛利信助とも戦って首を取られていますから、混戦になると本陣といえども手薄になることが伺えます。
お礼
回答ありがとうございますっ!! 常識的にはありえないけど、もしかしたら・・・って考えられると歴史っておもしろいです♪またおねがいします☆
- inotan
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いろんな方が詳しい話をしていらっしゃいますので。 私はいめーじしやすいたとえ話として。 総大将は将棋での王ですよね、戦も戦術のぶつかり合いもしくは団体でのつぶしあいです。 王で攻めていくなんてことありえないですよね。 王がやられれば負けですから。 戦も同じです総大将みずから一騎打ちなんて無謀もいいとこ、国の象徴です、そんなこと言い出す総大将はおろかだしそれを認める家臣もおおばかです。 ちょっとちがいますが現在の社会をみても売り上げが悪いからといってパソコンを自ら売り歩くSONYの社長なんておかしいですよね。 ちょっと話がそれましたが総大将はカリスマであり象徴であり最後まで守らなければならない人物です。 戦の場合本陣奥でツワモノに周りをかこまれていました。 信玄と謙信にしてもあの優れた武将がどんな場合にせよ一騎打ちなんてことをしたとは考えずらいです。
お礼
回答ありがとうございますっ☆ 優れた武将ほど自ら戦いにいくことはないってことなんですね~↑↑
元寇までは一騎打ちもあったと思います。 鎌倉武士が何故戦をするかというと、相手を倒して手柄を認めてもらい、恩賞を貰うためで、本音は自分のためです。 誰が殺したか判らないでは手柄になりませんから、名乗りを上げて相手に挑み、敵味方を証人にして相手を倒します。 手柄という点では豊織時代も同様で、相手の首や耳を持ち帰ったり、同輩に証人になってもらって、大将から恩賞を貰っています。 鎌倉時代は一部の例外はあっても、個人で戦うのが武士の誉れでしたけど、蒙古襲来で、戦法が個人戦から集団戦に移り、一騎打ちが流行らなくなりました。 (源義経も一部集団戦を活用していたようです) こうなると大勢で押しかけて、相手を倒したら、証拠に首や耳を切り取って帰る形になります。 平家物語などにはこういった一騎打ちも出てきて、(脚色されていますけど)、平敦盛と熊谷直実の一騎打ちとか有名な場面が語られます。 鎌倉時代の末期を描いた太平記でも、新田義貞が足利尊氏に一騎打ちを挑み、応じて出ようとする尊氏を家臣が押し留めるなど、武士の美学として一騎打ちは存在しましたが、実際には無くなったようです。 信玄と謙信の一騎打ちも、有りそうで無さそうではっきりしない話ですけど、謙信は自ら太刀打ちしたと手紙に書いたようなので、乱戦で刀を振い、相手が信玄では無いと言う証拠は無いので、可能性がゼロという訳でもないようです。
お礼
回答ありがとうございますっ♪つまり戦の意味や目的が変わったからということですよね↑↑なるほど~☆ 戦国だと領地獲得などが目的となるから大将を倒すより相手を弱らせて敗走させたほうがいいということですか??
- ss79
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戦国時代は既に団体戦の時代です。 従って一騎打ちは希にしかおこりませんでした。 特に一軍の将は身辺に護衛の武士が多く控えていますから先ずこれらとの戦いになります。 但し敗軍となるとこれら護衛の武士も散りじり、ないし戦死して大将一人という状態はありえます。 この場合は追跡してきた者が一人なら一騎打ちになるでしょう。 しかしこのような場合も大将が先頭にたって追跡する事はありません。 今川義元が桶狭間で討ち取られたのはこのような状態の時です。 この時も信長は乱戦の中には入らず、指揮していただけです。 賤ヶ岳で柴田勝家が敗戦の場合も部下の武将が身代わりになり勝家の兜をかぶり、「勝家」と名乗って戦い討ち死にしその隙に落ち延びました。 この場合も討ち取ったのは秀吉の部下の兵士です。 敗軍の場合も一騎打ちというのはなかなか起こるものではありません。
お礼
回答ありがとうございます☆ ということは、戦国の有力な武将は戦場では主に指揮中心だったんでしょうか?? 武将になれるひとは、戦いが強いからというより優れた戦略家だからという感じですか??
お礼
回答ありがとうございますっ☆ たとえば謙信が護衛をつれて武田本陣に乗り込んだ、ということはないでしょうか?武田側も多くの死者を出し部下を失ったりもしていたし長引く戦いの中で謙信が、もしくはどちらかが本陣に乗り込んだ、ということはありえませんか??