- ベストアンサー
自然主義的誤謬の証明
大学の教養で、自然主義的誤謬について学びました。 「事実としてそうであることが、そうあるべきであるという論拠にはならない」ということですが、「論拠にならない」ことは証明されているのでしょうか。 哲学的な事柄に対して素人である私に、わかりやすく説明してください。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
まず、わたしは論理学はほとんど知らなくて、オースティンやサールをほんのすこしかじっただけなので、用語に混乱があるはずです。 ですから、ここはおおざっぱな説明ということで、正確な用語はぜひ論理学の本を読んでください。 文章にはさまざまな種類の文章があります。 通常の命題になるような文章 ○○は~である。……これは記述文です。 事実文というのも一種の記述文で、「事実としてそうあること」というのは、つまり、事実文として記述できる、と考えることができます。 つぎに有名な三段論法の例を見てみましょう。 ------- すべての人間は死ぬ。(大前提) ソクラテスは人間である。(小前提) ↓ ソクラテスは死ぬ。(結論) ------- ここでは前提は「人間」という語を共有し、大前提と結論は「死ぬ」を、小前提と結論は「ソクラテス」を共有しています。 したがって矛盾のない三段論法ということができます。 ところで文章にはこの記述文だけでなく 「○○は~すべきである。」……これは規範文と呼ばれます。 このほかにも 「○○はよい(悪い)。」……価値文 「○○は望ましい(~したい)。」……欲求文 という種類の文章もあります。 こうした文章は、たいていひとまとめにして価値・規範文と呼ばれ、通常の記述文とはレベルの異なるものとされています。 ここで 記述文…大前提 記述文…小前提 を重ねたとして、ここから結論として規範文を導くことはできない、とする考え方が、「自然主義的誤謬」というものです。 たとえば、 http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/class/ethics/introduction/lec2.html このページを見てください。 ここで例に引かれているように、前提に規範文を含む文章からは、規範文を導くことができます。 けれども、前提に規範文を含まない命題からは、規範文の結論を導くことができないのです。それが「論拠にならない」ということです。 つまり、「○○は~だ。」という文章と、「○○は××すべきだ。」という文章では、文章のレベルがちがう、したがって、その三段論法は誤りである、というのが、「自然主義の誤謬」と呼ばれる考え方です。
その他の回答 (1)
「論拠にならない」ということを示す手っ取り早い方法は,反例を出すことです。たとえば, 「自然界では強い者だけが生き残る。だから弱い人間は殺してもよい。」 「すべての人は快楽を求める。ゆえに快楽は善であり,強姦でも殺人でも,その人にとって快楽ならば善である。」 厳密に言えば,反例があったからと行って,その考えが間違っているとは限りません。理論を修正すれば説明できるかもしれないから。 本当は 「○○である」ならば「××であるべきだ」 という推論を一般的かつ,論理的に否定しなければならない。でもそれは私の能力を超えてます。
お礼
ありがとうございます。 大変わかりやすい回答です。
お礼
詳しい回答ありがとうございます。 自分に知識と理解力が不足しているようで、多少理解できないところはありましたが、概ね納得できました。