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妻子がいたら聖人としての評価が変わるのか?(ダビンチ・コード)
ダビンチ・コードで一部キリスト教関係者がいきり立っていますが、妻子がいたらイエス・キリストの価値が下がるのでしょうか、私はとてもそうとは思えません なのになぜ彼らはあれほど騒ぐのでしょうか? モーセ、釈迦、孔子、ソクラテス、マホメットにも奥さんはいました、けれどそれで聖人としての評価は変わっていないと思います
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何があってもイエスの価値が変わるわけではないですね。それが正常な人間の考え方です。 でもイエスの弟子は師を裏切った弟子なので正常に物事を考えることができなかったんでしょう。そのひずみがカソリックには色濃く残っているのでしょうね。 マグダリアのマリアはイエスの最後に立ち会った女性の一人であったことは事実ですし、イエスが愛した女性であったことも事実なんでしょう。 マグダリアのマリアをイエスに帰依する前の職業で差別し、歴史から抹殺することにより、自らのふがいなさを隠蔽しようとしたところに問題があったとしか言いようがないですね。 イエスがもう罪はないといえば罪はないんですね。 イエスの死に際して他の男性弟子はみな逃げたわけだからマグダリアのマリアの信仰にはだれも勝てなかったわけですね。そのときパウロはイエスを処刑した側にいたので、イエスは罪を背負って死んだとしかいいようがなかったんでしょうね。ここに原罪の発生があるんですね。 裏切り弟子の言い訳への鋭い反撃がダビンチコードでないかね。いいことだと思いますね。
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- katyan
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だって、もうイエスは天国に行くんですよ。 それで結婚しましょうなんていいますか? ちなみに聖書では3人のマリヤで足に香油を塗ったマリヤは別だとなっているみたいですね ベタニヤのマリヤという説もあるみたいですね。 http://www.geocities.jp/kobetouka/seishonojinnbutu5.htm
お礼
死期が近いこと=結婚しない と結びつけるのはどうでしょうか? それぞれに考えがありますから。また正式な結婚という形式以外の可能性もありますよね ライ病の兄弟がいてイエスに香油を塗ったのはマグダラでしたよね?
- katyan
- ベストアンサー率9% (201/2029)
本当に結婚していたのでしょうかね? なぜならイエスは死んで天国に行くと自分自身知っていたのでしょう。 隣人を愛しなさいと言ってるから愛人みたいになっているかもね? あと気になるんだが 香油を足に塗ったシーンですね イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。 12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」 いつも一緒にいないマリヤがどうして結婚しているのでしょうね。
お礼
まさかマグダラの改心前に結婚するわけはないと思うのですが・・ 改心後ならつじつまは合うと思います
- tosembow
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今回の問題は、イエスの神性云々ということとともに、ローマ・カトリック教会が真実を故意に隠蔽してきたかのような印象を与える点にもあるようです。教会の権威を貶めるような映画はまかりならん、というわけでしょう。それにしても、大げさな抗議行動を取るキリスト教関係者は大人気ないなあと思います。あんな映画は所詮フィクションなのだから気にしない、という大人の反応をとるべきでしょうね。実際に、教会本部は特に表立っての反対行動はしていないようですね。
お礼
教会の権威ですか、そういわれればわかるような気がしますね ただフィクションだから問題になるということもありますね 最後の誘惑とかはそうでしたね
- nacam
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キリスト教では、古代より、キリストが人間であったのか、神であったのかの論争がさかんに行われてきました。 キリストを「人間」とするネストリウス派は、エフェソスの公会議で、異端とされ、迫害され、ヨーロッパから姿を消します。 ところが、「キリスト」に妻がおり、子供がいたとすると、現在のキリスト教が誤りであり、ネストリウス派がただしかった事となります。 同じ事が、日本で起こったとしたら、「天照は、神ではなく、単なる人間であった」として、神社の神聖が失われ、神社への参拝は、意味を無くしますし、阿弥陀如来が存在しない事になれば、創価学会や、浄土宗などなどの存続もできなくなります。 現在の日本でも、完全に宗教行事と切り離せない以上、生活関係に大きな変動をきたします。 日本以上に、宗教的基盤が、実生活に根ざしている欧米では、日本では考えられない変動をきたす事になります。 ダビンチ・コードは読んでおりませんが、「キリストは、十字架にかけられなかった」とする説も、昔からあり、現在でも1000万人ほどの人が、それを信じていますが、それも、異端とされ、中世ヨーロッパでは、徹底的な弾圧を受けました。 >モーセ、釈迦、孔子、ソクラテス、マホメットにも奥さんはいました、けれどそれで聖人としての評価は変わっていないと思います モーセなどは、人間ですから、妻や子供がいても問題有りませんが、エホバやアッラーに子供がいたら、神聖を失います。 一神教の神に妻がいた場合、その妻の扱いはどうなるのでしょうか? 妻も神になったら、一神教は崩壊しますし、人間の関知できない者と婚姻が成立しません。 キリスト教の場合、そのへんのつじつま合せに苦労し、多数の分派がしょうじてしまったのです。
お礼
結局キリスト教の教義の弱点がこういうところに出て居るみたいですね たとえば仏教では人間釈迦は仮の姿であって本当の姿はキリスト教でいうGODだといわれています。仮の姿ですから老いて死んでゆくし毒キノコに中ったりします。結婚もしていましたし子供も居ます。それでも神性は失われることはありません > 日本で起こったとしたら、「天照は、神ではなく、単なる人間であった」として、神社の神聖が失われ これはそうでしょうか?古事記では人間の感情を持ち人間的に行動していますが・・。そもそも神社にまつられている神様は過去に卓越した実績を残した人間がまつられていることが多いです。天神さん(菅原道真)などそうですね
- hhituji
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すみません。一つ間違えました。釈迦は悟りを開く前は妻はいましたね。 下の文は、もし釈迦が悟りを開いた後に妻を持ったらという意味に読み替えてください。
- hhituji
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何かの宗教を信じた事のある人でないと良くわからないかもしれませんね。 たとえば、釈迦に妻がいたと言う説を唱えたら、一部の仏教関係者は激怒しますよ。 なぜなら、釈迦の、初期の、根本の教えは、「全ての煩悩を捨てることによってしか人間の世界の不幸せはなくならない」からです。だから、初期の釈迦の弟子たちは、私有財産の観念を持たないめに、自分で食料を作ることさえ(農業や採集さえ)禁じられていていました、(だから、托鉢、寄進のみが彼らの食料でした)。そんな釈迦が、もし妻を持ったということになれば、それを信じる一部の人たちは怒るでしょう。 キリスト教の絶対譲れない教理は「キリストは(人ではなく)神だ。」です。 彼は神でありながら、人間の考えうる中で最も虐げられた人生を送ることにより人間を救ったと信じられているのです。 ですから、まず、結婚により一人の人間の女性を愛すことは考えられないし、実際、福音書の中でも「天国では、嫁いだり、娶ったりすることはない」とはっきりいっているのです。要するに、結婚により、夫婦力を合わせて生きるのは、この地上で必要だからそうするのであり、本質的なことではないと言っているのです。 使徒たちも誰も結婚しませんでした。それを引き継いで、カソリック教会の聖職者たちも結婚しませんでした。 そんな中で、イエスが結婚していたなどといわれたら、どう感じるでしょうか?イエスの神性を否定されたような気がするのではないでしょうか?
お礼
釈迦時代は経済的に出家者は妻帯できませんでした 当然独身の方が修行に専念できるでしょう でも妻帯は聖者を卑しめることはないのではないでしょうか モーセやマホメットが神の啓示を受けたのは結婚後ですから
- zap35
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「父(神)と、子(キリスト)と、聖霊」の三位一体説はカトリック教の根幹をなす教義です。 そこに「キリストは神ではなく、妻子持ちの普通の人間だった」と、神性を否定するような説を出すから敬虔な信者がいきり立っているのです。 かつてカトリックには異端審問があり、バチカンの解釈と異なる説をとなえると迫害や殺害をうけた時代が長くありました。それ位異端説は許し難いのです。(2000年に法王が「十字軍遠征や異端審問は誤りだった」と認めましたが) 宗教に関して希薄な今の日本人には理解しにくいですが、カトリック信者の多い欧米では物議をかもしたのは想像に難くありません。
お礼
妻子持ち=神性の否定ではありませんよね 妻子持ち=普通の人間 というのは形だけみた言い方ですね なぜなら 睡眠をする=普通の人間、食事をする=普通の人間、歩いて目的地まで行く=普通の人間、槍に刺されたら死ぬ=普通の人間。普通の人間≠神となってしまいますね 釈迦に妻子がいてもその神性を否定する仏教徒はいないでしょう カトリックの公式見解以外のキリスト教解釈は御法度というのが本音なのでしょうか?
- myeyesonly
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こんにちは。 私も全く同じく思います。 むしろ妻だって彼女だって子供だって、いない方が変だと思います。 結局の所、現在、キリスト教と名乗ってる宗教が、キリストの実像を作り変えて神格化してあがめてるからではないでしょうか。 つまりキリスト教の信仰の対象は、イエスキリストという人じゃなくて、神格化された虚構の存在だと思います。 #まあ、教会としては、今ごろキリストの子孫が出現して文句つけられたら教会の権限が損なわれかねないと思ってるのかもしれません。 それゆえ、キリストの子孫は存在しては困るのかな?
お礼
バチカンは世襲制でないからその点は大丈夫かな? もし現れたらとんでもないことになるかもしれませんね
お礼
自分たちの過去の過ちの取り繕いがいまだに尾を曳いているということですね、なるほどほど。