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旧制高校と旧制官立大学の関係
- 戦前の旧制高校と旧制官立大学の関係について調べました。
- 旧制高校への入学が戦前の大学進学の入試となっていたことが分かりました。
- また、帝国大学以外の官立大学に進学する方法や各予科の関係についても知りたいです。
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No.2回答の補足です。 こうやって予科をあとから設置したのが神戸商業大などですね。 また、2のご質問に関してですが、予科からは基本的に本科進学ということになるかと思います。そのかわりとして、他の高校からの受験に優先して予科からの優先進級を特権として設けていました。 戦前の北大理学部の場合は入学資格者の順位を、 (1)北大予科修了者、旧制高校理科・学習院高等科理科卒業生 (2)旧制高校文科・学習院高等科文科卒業生 さらに欠員があれば、 (3)高等師範、女子高等師範の理科卒業生、理科の専門学校卒業生 (4)専門学校卒業生で検定試験の合格者 (5)旧制中学教員免状所有者(いわゆる私立の女子大あたりを想定しているらしい) に対し試験を行い、合格したものを入れる としていました。
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- subaru360
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No.2回答の再補足です。 >、「(4)専門学校卒業生で検定試験の合格者」 北海道帝国大理学部の学則によると、学校が独自に行う旧制高校理科卒業程度の学力認定試験のこと、と読めました。 専検は有名ですが、五島慶太(東京急行電鉄創業者、東京高等師範→旧制中学の英語教師→一念発起して旧制一高卒業検定試験合格→東京帝国大学法学部入学→高等官→鉄道会社創業)の伝記から、さらにその上に旧制高校卒業の検定試験があったということを知っています。 東京帝大はいわゆる傍系からの入学を認めず、高等学校卒業生だけを受け入れる帝国大学でしたが、このように旧制高校卒業資格を得る検定試験も存在していたようですね。(ただし、卒業資格試験のため学力だけでなく体育の試験まであったように伝わっています)昔は経済的理由から上級学校への進学を断念した方が多かったですから、逆に有能な人材をすくい上げるための手段もあったようです。 ちなみに、北大予科の場合、入試競争率は戦前の最盛期で13倍程度だったようです。
お礼
五島慶太氏が官僚出身とは存じていましたが、高等師範卒の中学教師からの転身とは初めて知りました。高等師範を出た人は当時の十分なエリートと思いますが、それでも満足しなかったわけですね。さっそく、五島慶太氏の伝記を読んでみたいです。「飛竜の如く―小説・五島慶太」というのがあるみたいですね。 黙っていても秀才が集まる東京帝大は傍系出身者を受け入れず、高校卒業者または「旧制高校卒業資格を得る検定試験」合格者のみが進学できたとのこと。帝国大学と一括りにできず、各大学間でいろいろ独自の制度を持っていたのですか。東北帝大が女子の受け入れに積極的だったと言われるのも、帝国大学間の競争の結果だったと思われます。 北大の資料をわざわざお調べ頂いたようで恐縮です。何回もご教示頂きありがとうございました!
- subaru360
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まず、1について 官立大学予科は、あるところよりもないところのほうが多かったようですね。 したがって、各高校の落ちこぼれが入学してきたようです。さすがにそれでは学校のレベルが保てないので、予科を作って優秀な学生を囲い込むようにしたようです。 旧制高校出身の方のブログより >旧制高校を卒業すれば大体全国の国立大学のどこかに入学する事が出来た。大都市にあった旧帝国大学、千葉、新潟、岡山、熊本、長崎、金沢の六つの単科医科大学、東京工大、東京商大(現・一ツ橋)、神戸商大等々であった。 旧制高校卒業生と国立大学募集人員はほぼイコールだったから、(帝国大ならともかく)六つの地方医科大学は大抵無試験で入れた。成城文科から岡山医大を受けた我が医師会の耳鼻科のA先生は、事務官が試験場に入ってくれと言うと 「俺たちは無試験だっていうから入学手続きに来たんだ。それを試験するってえのはおかしんじゃねえか。」 と浅草育ちの東京弁で毒づいた。事務官は 「そりゃそうですけえど、一応、試験はする事になっておりますんじゃ。まあ、そねんごねんと中に入って名前だけでようござんすから、ちょと書いてやってつかあさらんか。」 と岡山弁で答えたという。現在ではとうてい信じがたい話である。
お礼
なるほど。興味深い証言を引用して下さりありがとうございました。予科の生徒は属している大学にしか進学できないが、高等学校の生徒は希望する「官立大学」に自由に行けたわけですね。 高校の「文科」の生徒が無試験で岡山医大に行けたとは今では夢のような話です。医学部には、高校の理乙でないと行けないと思っていたのですが… 二高から東北帝大医学部に進んだ人から、戦前の高校入試が今の大学入試同様に厳しかったことを聞いたことがあります。ただ、中学校に入ればエスカレーターで高校に上がれる私立の7年制高校なら、例えば一高に入るのよりはかなり易しかったと思います。実際、7年制高校の最初は、関西の金持ちが自分たちの子弟を帝大に入れるために作った甲南高校だったようですし。お金がある学生にとっては、今よりずっと楽だったようですね。(笑)
- tatsumi01
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予科と帝大その他の大学との関係はわかりません。 高師や高専から帝大に行くのは多かったと思います。東大法学部や医学部などの人気学部を除けば、多くの帝大では入学者が不足気味でしたから、これらの傍系入学者は歓迎したでしょう。 大正時代に日本で初めて女性学士を出した東北大は、東京女高師(お茶の水女子大)、日本女子大、東京女子大などから学生を受け入れていました。なお、戦前には女子は高等学校には入れません(戦後は例があったようです)。日本女子大、東京女子大も大学ではなく、高専相当だった筈です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 戦前の「日本女子大学」や「東京女子大」の法的地位は私も良く分からないのですが、ご指摘のように「大学」ではなかったようです。私立の学校で法的な「大学」に昇格している例は戦前でも多数ありますから、「女子大学」を公式に「大学」にできなかったのはそれなりの理由があったのでしょうね。 東北帝大が女子学生を受け入れたのは、「人気がないための苦肉の策、話題づくり」の要素も恐らくあったろうと推測します。
お礼
subaru360様、重ねてのご教示ありがとうございます。だいぶ見えて参りました。 北大理学部の入学資格者の順位、なるほどと思います。官立大学予科生徒は、その官立大学にしか進学できない代わりに無試験・高校卒業生に優先しての進学を保証されていたということで理解できます。高校より入試難易度が低くて、特定の官立大学への進学が確実というのは十分な魅力だったでしょう。 ところで、「(4)専門学校卒業生で検定試験の合格者」とは、例えば「高等商業の卒業生で検定試験に受かった者」ということでしょうか。何と言う試験だったのでしょうか?無学歴者に高等学校などを受験する資格を付与する「専検試験」のことは存じていますが。 「(5)旧制中学教員免状所有者(いわゆる私立の女子大あたりを想定しているらしい)」については、全く存じませんでした。そのような形で、女子が大学に進学する道が細々ながら設けられていたのですね。
補足
「(5)旧制中学教員免状所有者」についてですが、そういえば、「師範学校を出て小学校教員になり、検定試験を受けて中学教員免状を取得して中学校教員になった」という人の話を何かで見たことがあります。 大学や高等師範学校に行けなくても、授業料が要らない師範学校を卒業した後に小学校で働きながら勉強して検定試験に受かれば、中学校の先生としての社会的経済的地位を得ることが不可能ではなかった、ということですね。貧しい家の子供にとっては、将来に希望を持てる制度だったと思われます。