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生きて虜囚の辱めをうけず
旧日本軍では捕虜になることは禁止されていましたが、 いつからこのような風潮になったのでしょうか。 戦陣訓(1941年)以前からだと思うのですが、 日露戦争では、捕虜となり戦後帰還した士官たちは自決を強要されたりしましたでしょうか。
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1932年(昭7)第一次上海事変当時、日本軍の空閑(くが)昇 陸軍少佐が、負傷捕虜となり、帰還後に自決した事件が、大々的に報じられたこと。 これが軍・民間ともに捕虜となることを極端に恥じる風潮になった初めであるとおもいます。
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- gbrokk
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明治以降の日本の軍隊では降伏する事は恥と思われていました 日露戦争で捕虜になっていた多くの将校や兵士が送還されて来ましたが大怪我をした人や手足を失った人、つまり精一杯戦った人には政府も世間の目も同情的でした 捕虜になる事を正式に禁じたのは昭和16年の戦陣訓からでその為に数え切れない将兵がむざむざ尊い命を落としたと言われます それを布告した東条大将は敗戦後敵アメリカの捕虜になりました
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- ss79
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戦時捕虜というのは重要な情報源として獲得の為、特別に行動する部隊もいる程でした。 しかし必要とする情報が得られない場合報復として処分することはあったようです。 中国との戦争では民族性も影響してか、どちらが先か不明ですが捕虜に対し処刑の風習が出来てしまったようです。 中共軍では捕虜を教育して協力者に改造したといいます。 このような風習の存在と、情報の漏洩を防止する為、捕虜になる事を潔しとしない気運が醸し出され、さらに日本人の死に急ぐ思想の影響もあって戦陣訓が作成されたのです。 日露戦争や第1次世界大戦での捕虜厚遇は当時まだ白人種に対する卑下の現れのようなものがあったのではないでしょうか。 それと日本は勝利者でしたから。 捕虜に対する行動は戦争の当事者の双方ともにありうることです。
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- porilin
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>6さん 汚名は返上・・・ 本題に関係ないつっこみですみません。
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- sudacyu
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具体的事実は他の方の回答でお分かりになると思うので、心理的な面から回答します。 捕虜になることは、禁止はされていませんでしたが、それ以前に一般人も含めて、敵の元では生きていくことが出来ないようなモラルが作り上げられ、「鬼畜米英」というスローガンが、単なる戦争相手という次元を超えて第二次世界大戦では使われました。 第1次世界大戦では、日本は戦場から遠く中国大陸にあったドイツ・オーストリアの租借地守備軍を無力化するだけで済み、日本の国力を傾けるような影響は全くありませんでした。 それに反し、第2次世界大戦では完全な総力戦となり国力の消耗がはなはだしく、戦闘力の極限までの利用が求められました。 物理的戦闘力が国の生産力の限界に達している以上、後は精神面しかありません。 第1次世界大戦時、アメリカがヨーロッパに派遣し前線で戦った兵士に対して戦争後調査したところ、ドイツ軍に対し発砲した兵士は、なんと40パーセントしか居なかったそうです。 ベトナム戦争ではこの値が80パーセントになりましたが、戦争後アメリカに戻って社会生活に適応できなくなった人が続出しました。 敵を必ず殺そうとする兵士であった人間は、社会的不適応を起こしやすいのです。 国力で圧倒的に不利な日本は、戦闘力を上げる効果を持つようなモラル、相手は自分と同じような普通の人ではなく「鬼畜」であると教育されていきました。 「鬼畜」の捕虜になることも、捕虜として「人」とあつかうことも、このモラルには反しています。 国民も戦争に負ければ、今までの苦労が無に帰するとの本能に近い心の動きで、その流れに従っていきました。
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- googooguuguu
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中世 西洋の戦い 王族は殆ど血縁関係が有ったので 負けたら潔く降伏 日本の戦い 落ち武者狩りが酷かった これが日本軍の残忍さに発展する事になります
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- googooguuguu
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連合艦隊司令長官の中には捕虜の経験者がいます 高級将校は捕虜になっても良いのです 下級兵士は捕虜になったら 帰国後、愛国者に粛清されるでしょう
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- kodon
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シナ事変の時彼等の日本人に対する殺害の方法があまりにも残虐な殺害の仕方を見て、もし捕虜になっても生かされるか、殺されるかも判らず 嬲り殺しにされるのなら、捕虜にならずに死んだ方がましだとの思いで 書かれたものだ聞いたことがあります。たしか通州事件の時の日本人( 殆どが朝鮮籍の人々)が手のひらに穴をあけられ引きずりまわしあげくのはてに殺害されているのを見れば誰が捕虜になろうとするでしょうか 敵の我が軍に対する対処法を見ての教訓からの戦陣訓だと聞いた事があります。アメリカと日本の戦争の時はアメリカ軍は捕虜を取らない戦い 方をしていたそうです、サイパン、沖縄でよく降伏を呼びかける映像が 流されているがあれは戦闘が終わった後には捕虜を受け入れたようです。あの戦争で日本は米英軍の多数の捕虜を抱えることになり、あげく のはてに捕虜虐待といふ罪をでっちあげられ1000名以上が死刑にされている、捕虜とは敵にも負担になると言ふ側面があることを理解すべきです、第一次大戦の時のドイツ軍の捕虜などはオーケストラまで組織して第九を演奏したり、街中を散歩したりしていたようですがシナ軍も 同じような扱いならこのような戦陣訓にはならなかったでしょう。
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- jamiru
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日本の戦争倫理と海外の戦争倫理が違いますからね。 同じ日本人同士で戦っても虜囚となるなら死を。 という考えは大将のみの思考です。 何も一兵卒や民間人は関係ありません。 日本の戦争は古来より基本的に降伏すれば一族の保障と権利を得られていました。微々たるモノですが。 よく、大将の首一つで許されるってのがあったでしょう? なのでかなりの武将があっさり降伏しています。 しかし、海外は全く逆です。 降伏すれば奴隷になります。反乱者は根絶やしにされます。 大将の首を差し出しても一族皆殺し。 何の保障も権利もありません。 No7さんの通りだと思います。
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- EmethG
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もともとは山県有朋が日清戦争で出したアドバイスです。 当時の清軍とは、軍規もハーグ陸戦条約も毛ほども気にしない無法集団でしたから、捕まったら文字通りじわじわとなぶり殺しにされた事例が多発しました。南京でも多数の便衣兵を出していますから、その伝統は営々と続いているのでしょう。 そして、通州事件も好例ですが、シナとは残虐に人を殺すことを数千年研究し続けている文化の持ち主ですから、日本人の想像を絶する殺され方をされています。 それを見て、山県有朋は捕まるくらいなら死んだ方がマシだとのアドバイスを出したのが最初です。 なお、旧日本軍で捕虜になることは禁止されていたという事実はありません。戦陣訓にそのような指示があり、心無い上官が捕虜になった兵士を虐待したり死地に送る事例はありましたが、軍令としてそのような禁令が出たわけではなく、まっとうな上官も大勢いました。 むしろ、終戦近くの米軍が、捕虜を取るのを嫌がって投降してきた日本兵をも皆殺しにしながら南方戦線を北上した事例の方が重要です。
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- PENPENMAKKY
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八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。 これのことでしょうか?読む限り捕虜になることを禁じてはおりませんが?「名を惜しむな!降伏は恥じぞ!」という意味だと思うのですが? 『敗北=死』は曲解した武士道からきていると思われます。武士にとって一番恥ずかしいのは負け戦とわかったのに無駄に戦って死ぬことです(犬死)。武士は負け戦とわかったら軍を急いで下げて再戦を行い汚名を挽回します。但し退路が無いからといって易々と降伏するのは恥じです。その一部分のみを強調したのが戦陣訓なのだと思います。 明治の軍人は武家出身がほとんどですから戦陣訓あんて要りません。勝つ時は攻めるし、やばい時は一度兵を引きます。
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