- ベストアンサー
また、「命の大切さ」指導です…
ご存知のように、東村山市で中学生によるとんでもない事件が起きました。 心いたむ事件ではあります。私個人としても、いろいろな思いはあります。が、今回の質問は… さて、こういうことがあると、決まってお上(文部科学省や、教育委員会)から、 「児童生徒に、命の大切さについての教育を改めてして欲しい」 という通達がきます。 正直なところ、私ども、常日頃からしているつもりなのですが。 もっと効果的で、心に染みるような指導でもしろということでしょうか?私は、今でこそ違いますが、以前中学生を教えていたことがありました。 命の大切さを教える以前に、「人の話を謙虚に聞こうとする態度を持っていない子」には、すべてが無駄だったような気がしています…(すみません、愚痴でした)だって、そういう子に限って……でしたから……。 いつも話を聞いている子は、「またかよ」となり、聞く耳を持たない子には、まさにぬかくぎ状態。どちらに転んでも、効果的な指導になりにくいこの「ご通達」。 この通達を、どう受け止めて、どうやって子供におろしてやるべきか。ヒントがあったらいただきたいところです。
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
「songbook」さん、始めまして。 「sanbi」さんや、「rimei」さんに被る部分がありますが、ご容赦を。 昨年、何処かの学校の教師が鶏だか何かの解体をして、食するような指導を計画したところ、親の反対で断念した記事がありました。 曰く「かわいそう」「残酷」・・・。 「生き物」を飼い、「殺害(言葉は悪いですが)」して、「解体」し、「食」する実践報告が、瀬戸内だったか何処かでありましたね。 今の日本人は、「純粋培養」されすぎていませんか? 「死」は、病院で。 「生」も、病院で。 「暴力場面」は、自主規制。 「性」も、自主規制。 反面、「美談」や「努力」「成功」のオンパレード。 清濁併せ持つのが人間です。 「食」という行為は、他の「生物」の「死」の上に成り立っている、「原罪」です。 何時から日本人はこの「原罪」を忘れてしまったのでしょうね。 とある掲示板で論争をしたことがあります。 「もっと、底辺で生きている方に目を向けて」(私) 「努力すれば、成功する」(相手) 「努力しても、だめな時がある」(私) 「努力の方向と、ポイントが合っていない」(相手) 「皆が皆、成功するわけではない」(私) 「何をすれば成功するか、見極めるのも努力。そうしないのは怠け者」(相手) 要約するとこのような話です。 今の世の中、トップに為る事だけが価値を持ち、世の中を底辺で支えることは、眼中にも無いのでしょうか? 親や教師が、「命」の大切さ、「人権」を説いても、 自分の近くにホームレスの方たちが、住み始めると「怖い」「環境が悪くなる」と、排除を始めます。 とりとめも無く、長くなりました。 ただ一言云える事は、親や教師の「言葉」が薄っぺらだと言うことです。 「人権」を唱えるなら、「人権」違反に常日頃から敏感になりなさい。 「命」の大切さを唱えるなら、「死」をも大切にしなさい。 死ぬことを知らずして、「性」は語れません。 「「いのち」を食べる私たち(ニワトリを殺して食べる授業---「死」からの隔離を解く)」 村井淳志著 教育資料出版会 1700円
その他の回答 (10)
三度の訪問になります。 本日付の「東京新聞」の裏一面(最終面)に、 「教育のページ 「ニワトリの解体実習」 命奪い生きる”現実”」として、今週と来週の二回連載されます。
お礼
たびたびありがとうございます。 情報までいただいて…うーむ、うちは中部地方なので、中日新聞かな? 探してみます。まことにありがとうございました。
補足
この場を借りまして、皆さんにお礼を申し上げます。 皆さんから、非常に深い示唆をいただきました。うれしい限りです。何よりも、今までしていたような、空々しい、子供までをも不快にさせてしまうような事態は、これで脱却できそうな気がしています。 何よりも、私の心の中にやる気が出てきました。 ただ、皆さん、あまりにも「深い」ので、私自身の中で、再び整頓しなおさなければなりません。 もう少し、締め切りを遅らせるべきが本来ではありますが、まず、私の中での整頓の時間が欲しいので、申し訳ありませんが、これにてとりあえず締め切らせていただきます。 なお、全員にポイントを差し上げるべき回答ばかりで、非常に恐縮ですが、お二人だけとなっておりますので、ご勘弁ください。
再びのオジサンです。 「小さい子にはこの理論は通用せず。ある意味洗脳に近いことも必要でしょう。」違いますよー。 理論なんて物は後付けでいいのです。 子供に、いや、「大人」と「教師」にこそ、「生」の実感・「死」の実感が必要なのです。 大人や教師は、「生」や「死」の実感に触れたときに、蓄積された知識が、「実体」を持って結実します。 子供たちは、「生」と「死」の不思議さを体験するのです。 そこで、「生」の仕組み(他の生き物の命を受け継ぐ)を、「死」の「恐怖」と「恐れ」(場合によれば「悲しみ」も)を、実感するだけで良いのです。 「生」を慈しみ、「死」を悼む感情が生まれればよいのです。 小難しい理論なんぞ、成長する過程で「自ら作り上げていき」ます。 子供は馬鹿じゃ有りません。 「知らないこと」「判らない事」に出会ったら、自分が納得するまで「自分なりの理論」を構築しようとします。 親や教師は、その子供たち自身が作った「理論」を「修正・訂正」してあげればよいのです。 大事な点は、子供たちに、親や教師に「生」に、「死」に対する豊かな感情がないということです。
お礼
再び、ありがとうございます。 どうも私の言い回しが悪かったようで、すみません。私も、同じように感じております。 実感が必要であること。 ここに、実感に伴う「もやもや」にフィットする言葉として、命に関する言葉を与えていくことが、後々につながっていくのだと考えます。 大人、子供あわせ、われわれが目の前から意図的に消してしまっている「生」と「死」。全部見ろとは、少なくとも私にはいえませんが、現在は明らかに、隠すことを当然とする傾向が強すぎます。 体験なくして、感情は生まれず。ましてや理論は生まれず、ですね。
- yamatomaya
- ベストアンサー率51% (82/160)
私達、いわゆる今時の若いコには、そもそも人の死というものが重いものではなくなってきています。 電車の中のカップルの日常会話で、「ごめん、オレこれからバイトがあるんだわ」「何よ、それー。バァカ、"死ね"!」というのを聞いた時にはギョッとしました。同年代の私でもビックリしたぐらいです、隣のオジさんはもっとビックリしていました。私は以前にペットを飼い、死なせてしまい、以来生死に対して少々敏感になりました。普通の会話で死ねとか殺すとか言ってる人を見るとじゃあ殺してみろよ、死んでみろよと悲しい思いをするばかりです。 また、最近はやりの「ムカつく」「ウザい」などからも、生死命の尊さ云々以前に言葉の意味を考えないのではないかと思います。悲しい事に私も同年代の友人といるとどうしても言葉が伝染してしまい「あの先生ムカつく」などと言ってしまうのです…。さすがに死ね、殺すは言わないのですが。 直接的な解答になっていなくて恐縮ですが、現代の子供が死や殺戮に異常な興味を持ったり、完全に意味を引き剥がして言葉を独立させてしまうのは平和ボケしすぎた日本の均衡が不況で崩れ始めてるからじゃないかな…と思います。若輩者の意見で恐縮ですが。 参考URLは、私のお気に入りサイトの中のテキストです。教育について触れておられますのでよろしければどうぞ。
お礼
yamatomayaさん、丁寧なご回答、ありがとうございます。 参考URL、拝見いたしました。心の中にスーっと入り込んでいく、説得力ある文章。大変参考になりました。 ここで私は、2つの示唆を受けたように思います。 一つは、言葉の持つ力の怖さについて。 もう一つは、事なかれ主義の引き起こす悲劇についてです。 私は常々、人格と言葉については、一つの確証を持っております。それは、「気持ちや性格から言葉遣いが出てくるのではない。むしろ逆で、その言葉を使うことによって、その人の性格は作られていく」ということです。「俺」という言葉を幼少期から使っている子は、若くして「俺」という人間になります。ちょっと悪ぶったような言葉を、かっこいいと思って使っている人は、やはりそういう人格になり、もやもやとした気持ちから、「私、あの人嫌い」と口にした瞬間から、その人は、嫌いな気持ちが倍増していく。… 命に関する言葉も、本当は、軽軽しく、しかも「死を軽視するような」言い方で多用すべきではないのでしょう。やはり、そちらに心が動いていくはずです。 そして、前の方にも「お礼」で述べたように、小中学生の、小さなうちからの事なかれ主義には、異常なものを感じております。そんなに、みんなが、絵に描いたように明るく、仲良くなれるはずがないのだ!!いやなことはいやだという、あたりまえの子供の姿が激減しています。 そうでなくても、子供は大人の見ていないところで、禁じられていることをしようとするものですからね。「みんな仲良く」のストレスを公で発散できない子達が、最も禁じられた行為への強い憧れに走っていくのも、ありえる話なのかもしれません。 ただ、命というものを、あまりに重く考えさせようとするのも、どうか、と思っております。人の命は、尊重しなければならない。でも、尊重したくないほど腹の立つ相手を見たときは、自分の心に問い返すこと。 私の命は、他人様から尊重してもらえるほどの重みを持っているかどうか。 … やっぱり、自分を価値ある人間にしていこうとする心構えが、スタートのようです。どうもありがとうございました。
- rimei
- ベストアンサー率45% (16/35)
生き物を飼い「生と死」を身近に体験するものひとつですが,「切れて」人を殴って平気な中学生がけっこうのらねこや野良犬,すてられた子猫などをかわいがる姿を見てきました。小鳥を大切に飼っている「切れる子」もいます。 だから,生き物を飼うだけではダメなのかもしれません。 今は幼少のころから小学校まで「ケンカは御法度」の育て方が多いようです。私は,保護者に異論があっても小学校3年生くらいまでのやんちゃな時代にはケンカをさせるべきだと思っています。人間同士の「なまのぶつかりあい」をして育った子供は,同時に「優しさ」(うわべだけでない優しさ)も学んでいくようです。 人と人とのつながりの中でもまれて育てることが一番効果的だと考えます。
お礼
うーむ、短いながらも非常に中身の濃いご指摘。rimeiさん、回答ありがとうございます。 どうも、私自身にも「お達し」の解釈に甘さがあったようです。 そうなんです。命を大切にするとは、「痛め合いは絶対に行ってはいけない」ということでは、必ずしもないのでした!!! ペットをかわいがる、一見心やさしい子だって、本当に「切れて」しまったら、本当に命を尊重しているとはいえない。なんだか、そんな、若い親もいるような…含蓄のある言葉です。 そういえば、以前勤めていた中学校では、みんな陽気そうに振舞って、悪ぶったり笑ったりしているのに、仲間への指摘、非難、忠告って、一切しない不思議な集団だと思ったことがありました。個人で話を聞くと、ずいぶん仲間同士の不満があるようだったし、陰口などは、陰湿きわまるものだったのに。 それをズバっと言うのは、なんと、私たち教師だけでした。すると彼らが言うんです。「かわいそうじゃないか。傷つくだろう!?」わたしゃあんたたちがいつも陰で言っていることをほんの少し口にしただけだってば。 身体、心、ともに、傷つきあうことで、本当のやさしさとか、心を学ぶという面は、確かにあるはずです。「なまのぶつかりあい」。それなしで、人の心がつながるはずないですものね。
私もそのような話は話半分に聞いていたような気がします。そうした主張というのは、いう本人が本当に命を大切にしたいと思っていない限り無駄です。 暴力事件を起した生徒に対して、人への暴力はだめだと言って、生徒を殴るような教師は教師失格であるのと同じです。 本当に命が大切だと思っていない人が指導しても無駄だとおもいます。 わたしがもし他の人から教育された場合を考えると、その人が命を大切にするために具体的に何をしているのかを見るとおもいます。 伝統の観点からいうと、いただきますという言葉には命を大切にする気持が現れているようです。 上から授かるようなイメージがいただきますという言葉にはあります。 そうした言葉の起源などを調べてみるのも準備として必要なのではないでしょうか?
お礼
ああ、ppooooさんですね!私事ですが、ご無沙汰いたしております!! 今回は私がお世話になります。 ppooooさんの回答は、おやさしい言い回しながらも非常に核心をつく言葉であり、いつも身を引き締められる思いであります。 なるほど昔から私たちが命あるものに対して慈しみの心を抱いていたことを表す事例は、調べる価値があるし、心の引き出しにいつでも用意しておきたいものですね。 話をする本人が、命を大切にする模範者でありたい。まさにそのとおりです。、付け焼刃の話と、その人の中からにじみ出てくる話とでは、受け取る人もまるで受け止め方が違う、はず。どうもありがとうございました。
- sanbi
- ベストアンサー率22% (54/237)
学校でできることではないのですが・・・・ 各家庭でなにか生き物を飼い、その死を見せることが1番わかりやすいと、私は思います。 私の妹は、大人になってから初めて動物(ハムスター)を飼い、その死に非常にショックを受けていました。私に「死ぬとああなるんだねぇ・・・」と何度もつぶやくように感想を言ってました。 今の子どもは命に触れる・死に触れるという経験がなんだかものすごく少ないみたいですね。 言葉よりもやっぱり、直に触れて学ぶ経験が一番説得力ありますよね。 最近はアパート住まいの家庭が増え、動物を飼うという経験すら不可能な事が多いのですよね。 「アパートペット禁止」という規則、なんとかならないのかなぁ・・・ 的はずれだと思いますが、日頃、私が感じていることを書いてみました。 学校でできることでなくて、スミマセン。
お礼
sanbiさん、ありがとうございます。 またまたsanbiさんには直接関係のないことをここで書き込むことを、まずお許しください。 人の命は大切である。あたりまえのように言われる現在。でもわずか数十年前まではそうではありませんでした。「いかに死ぬか」を一生懸命教育者が教えていた時代がありました。 戦争は愚かでした。しかしこの時代の子供たちは、「人の命は大して大切なものではない」ということを学んでいたのでしょうか?違うような気がします。 命あるものにじかに触れることが、そして、生死を目の当たりにしてくることがいかに大切であるかを、改めて思います。かつては、「人の命うんぬん」以前に、「自分の命を、いかに価値あるものにするか」を、本気で学んでいたのですね。「いかに死ぬか」は極論だったと思いますが、自分の命の価値を高めようとするものは、決して自分自身を貶めるような行為はしない。 …ちょっと、光が見えてきたように思います。命の終わりに、自然に直面する中で、「それでは、自分は。他人は。」という考えに及ぶ子は多いことでしょう。
- usiwaka
- ベストアンサー率19% (4/21)
今回のような事件が起こるたびに、同じような対応がなされている事に、むなしさと、腹立ちと、やりきれなさを感じます。 行政側としては、そう言う通達を出す事や、校長会を開く事で、対応している気になっているだけのような気がしてしかたがありません。多分こんな事をしても何の役にも立たないことは百も承知なのでしょう。白白しさえ感じます。これれまでこの種の事件から何も学んでこなかったのでしょうし、今回も学ばないのでしょう。そして同じことが繰り返されていくのでしょう。それで自分たちの立場が危うくなる事は無いのですから。 songbookさんがおっしゃるように、 >いつも話を聞いている子は、「またかよ」となり、聞く >耳を持たない子には、まさにぬかくぎ状態。どちらに転 >んでも、効果的な指導になりにくいこの「ご通達」。 『聞く耳を持たない子』は、なぜそうなってしまったのでしょうか? そうしてしまったのは、彼らだけの責任なのでしょうか? 私は、彼らだけの責任をいくら言っても問題解決にはならないのではないかと思います。そう言う風にしてしまった大人の責任も自覚すべきだと思います。なぜなら、私たち大人がどれだけ彼らの思いや願いを聞いてきたのでしょうか。聞いてこなかったのではないでしょうか。『聞く耳を持たない』かったのは、われわれ大人の方ではないでしょうか。 でも、いま現実に『聞く耳を持たない子』を目の前にしている現場の先生方にだけ対応を求める事も酷な事だと思います。今こそ、親や地域の大人たちと一緒になって本気で考えていくべき時だと思います。(たやすい事だと思いませんが)
お礼
usiwakaさん、回答ありがとうございます。 匿名のサイトとはいえ、私にも立場がありますから、言いにくいこともあります。この言いにくいところをusiwakaさんがズバっと言い切ってしまいますので、痛快というかお恥ずかしいというか……。そのとおりでございます。 さて、御礼をしていくうちに、2つのことに気づきました。 1つは、やはり「聞く耳持たぬ子」について。 もう一つは、「命の大切さの指導」と、今回の事件とが、つながっているようで、どこかがずれているのではないか、ということ。 私どもは、命の大切さについて指導していく、ということは胸に置いた上で、その基本となる、身近な面での指導、対策が何よりも大事である、と。 その指導の具体案の通達は、もらったことがありません。 だって、まず話が聞けないことには。 「聞く耳持たぬ私たち」は真髄をついているかもしれません。私たちが一番聞かなければならなかった、子供たちの心の声。あれもこれも欲しがる子供の声。それを表面でしか聞いていなかった私たちは、まさに聞く耳持たず、です。 それでも、こうやって私たち教育に携わるものが謙虚に子供の心に耳を傾けているばかりでは、対応、解決までに「時間」が待ってくれない場合もあったのではないかと思います。そこが難しい。 またややこしくなってしまいました。ありがとうございました。
- usawing
- ベストアンサー率31% (76/239)
macross7さんの仰るように、学校側が頑張るのはあまり意味がないような気がします。 こういうことは、小さいうちから家庭を基本とした色々な人とのつき合いの中で学んでいくことだと思いますし…… ですから、学校で出来ることは、他人を大切にするとか物を大切にするとかではないでしょうか? 小学生みたいですが、給食を残さない(残すとしても作ってくれた方に申し訳ないという気持ちを持つ)、動物を飼う(「学校」ではなく教室で)とか…… 結局は家庭で出来そうなことばかりですけどね…… 個人的には、命の尊さをちょっとした話しやちょっとしたイベントで、分かってもらおうというのは無理な気がしますので… よく言われますが、最近思うこと。 最近の子って、ゲームやマンガが当たり前の世代で、核家族でしかも両親が共働き、自分は一人っ子っていうのも珍しくない。(特に都会では) こんな中で他人とのふれあいをと言っても、実際は難しい。 そのせいか、人の命・体を軽視してる子が本当に多いなと。 マンガとかですと大抵は、死にかけるような怪我でも復活しますし、ゲームなんてそれこそ死んだ人間が生き返りますもんね。 せめて、現実と仮想現実の違いがきちんと認識出来てる人が増えればなぁ…… しかも、これって出会い系関係の事件にも言えるような。 大人もしっかり、子供もしっかり。 そんな世の中になって欲しいです。 質問の回答とは離れた内容がとても多くなってしまい、申し訳ありません。
お礼
示唆に富んだ回答を、ありがとうございます。 >学校で出来ることは、他人を大切にするとか物を大切にするとかではないでしょうか? これは本当にそうですよ。ものや他人を粗末にする子は、自らを粗末にしていることに気が付いていない。自分の人間的価値を、どんどん下げている。私たちは、それを自覚させなければいけませんね。 ここへきて思います。 人の命を奪う罪の重さについて考えさせる以前に、人の痛みがわかることを教えることが前提であること。仮想現実は、本当に「仮想」の部分があるということ。痛い目に会った時では、遅すぎるという場合があること。 いやあ、やはり重過ぎる話題ですね。なぜお上は、具体策の通達をしない!!?
- macross7
- ベストアンサー率20% (39/190)
大変お悩みのことと、お察し申し上げます。 「命の大切さについての教育」・・・・難しいですよね。 はっきり言って、そんな重大なテーマを先生が付け焼刃で教えたって 全然意味ないんじゃないでしょうか。 それは家庭で、親が言い聞かせるべき性質のもの。 くだんの中学生にしても、学校側の責任なんかないのでは? 指導に問題....というわけではないでしょう。全然とは言わないけど。 問題があるとすれば、可哀想なホームレスの方と地域の方や親が どのように触れ合っていたかということ、中学生がそれをどう思っていたか ということだと思います。 そして、今や有名になった「未成年は悪いことをしても罪に問われない」 という事実です。彼らは甘く見ていたのだし、実際、処分も甘いのでしょう。 つい先日、「中学生による車上荒らしに注意」という張り紙を見て、 愕然としました。 これから日本はどうなってしまうのでしょう・・・とても心配です。
お礼
「付け焼刃」…そうそう、この言葉が一番しっくりきます!! 学校の先生が何かを話したところで解決するような、軽い問題ではない。確かにそうですね。まず、ここを踏まえておきます。かといって、無策は罪。まず、家庭、地域とのつながりにヒントがありそうです。 地域などにより多少実情は違うでしょうが、中学生の暴走の影に、学校あり、という今までの常識は、内部人である私も含め、改めなければいけないようです。地域が立ち上がるときですね。
- kensakuya
- ベストアンサー率17% (23/131)
今の子供に伝わるキーワードは「人殺し」ではないでしょうか。 むかついた結果したことが「人殺し」。 前後わきまえずにしたことが「人殺し」。 一生「人殺し」というレッテルを引きずって生きていくのかという問いかけをする以外にないのではないでしょうか。
お礼
kensakuyaさん、回答ありがとうございます。 「人殺し」「犯罪者」「ひとでなし」…これらの言葉が、子供の暴走を食い止めるストッパーになるといい。確かにそうですね。 どれぐらい大きな歯止めにできるか、が、今、きっと問われているのだろうなあ、と思っています。歯止めが弱いと、感情が高ぶっているときにその教えが消えてしまいますので。
お礼
Oji_sanさん、回答ありがとうございます。 「言葉が薄っぺら」 それです、その言葉に集約されるんですね。 「純粋培養」レベルで生命は大切だということを話したって、心に響くはずはないし、第一、話し手である教師自身に、妙な空々しさが残ってしまいます。 子供たちの周りに、生はあっても死がない。成功は取り上げられ、失敗は忘れられる。暴力、性は隠され、前の方の回答にもあったとおり、私たちは命を食す、「原罪」「業」を背負って生きている。 濁りを併せ持っていることを隠すかのような教育を受ける中で、子供たちは、無意識のうちに隠れた部分を表出し、バランスをとろうとしているのかもしれませんね。心の中の汚れを隠そうとする人に、潔癖症の人が多いという話を聞いたこともありますし。 家の庭で鶏を飼い、それをしめて調理する様子を見てもいない私たち。なるほど、これで命の大切さを説くなど、ちゃんちゃらおかしい話ですね。 これまでのお礼欄で、私は、「切れる」ことによってすべての「学んだ価値観」を捨ててしまい、悲劇に陥る子供について、言及してきたつもりです。やはり、「切れて」=逆上してしまって人命の重さを捨ててしまうような人は、「命の大切さ」についての意識が、骨のずいまで染み込んでいないといえるのですね。えらそうなことはいえません。私も含め、多くの人に言えそうです。 死から生を学ぶ私たちは、感謝を覚え、人権に目覚め、謙虚さを覚えます。命が大切といっても、死は遠いところにあるのではなく、むしろ身近なものである。それによって自らの命に価値を見出し、この命を輝かせようとすることだろう。 残念ながら人間はおかしな文化をもってしまっており、殺人というものも厳然とこの世に存在します。しかし、上のような境地に達することができれば、そうそう簡単に他人の生命を脅かすようなことはしないであろう、と。 こんなところかな? でも、小さい子にはこの理論は通用せず。ある意味洗脳に近いことも必要でしょう。子供が論理的にものが考えられるようになったときのために、私たちも構えを持つべきですね。どうもありがとうございました。