誰かを救うようには確かに見えない学問です。しかし実際に役に立っていることはあります。
哲学とは、
中世では神となって人を支え、
近世では科学を作り出し人に初めての希望を与え、
近代では人に警鐘をあたえ、
そして現代では人のあり方に光を当てています。
中世では神のあり方を問うて、神に従う民衆に、過った道に進まないように道しるべを与えてきました。
近世では哲学は人の認識のあり方に光を当て、正しいものの見方を目指しました。その結果われわれは携帯電話パソコンをはじめとしてさまざまなものを得ることができたわけです。
ここで弊害もある、という意見は気持ちはわかりますが、それを理由に先ほどの理論を跳ね除けることはできないでしょう。われわれは実際にそれを使って利得を得ているわけですから、新しい問題が発生したとして、無いほうがよかったというのはうそになります。それはご飯をたべさせてもらっているこどもが「私を子ども扱いするな」と言っているに等しいです。抗議するとしても子供は相手の正当性を認めながら抗議すべきです。
そして現代では人のあり方にさまざまな方向で光を当てることで、人の幸福な生き方に焦点を当てました。
例えばサルトルの実存主義は今でも皆理論武装として利用しています。「人が自分を裏切るようなことがあっても、それは自分がその人を安易に信用したのが悪いのだ、きちんと人間性を見極めていれば、こういうことにはならなかった。私が強くあればいいのだ」この、「相手が悪いことも自分が悪いこととすることで受け入れ、次の対策に役立てる」という考え方はサルトルが編み出したものです。
その後の構造主義も人のあり方に平和をもたらしました。構造主義は「例えば未開人の生き方は文明人の(すでにこの言い方も誤解を招くものですが。未開という言い方自体間違ったものの見方ですから)生き方と同じくらい正当性があり、その中で人間は不満も無く生きている、それなのにわれわれは科学を持たないという理由だけで他の国のあり方を否定している、こんなにくだらないことはない、単純にこの考え方が正しいと思い込んで人に押し付け、テロを起こし、戦争を行なうのはやめよう」と述べ、人類の争いを終結に向かわせました。未だにくすぶっているところはありますが、以前よりも人の生活はおとなしくなっています。
その後のポスト構造主義も、人々の生き方にきっかけのようなものを与えることを試みています。国をも排して個人としての人間の生き方をどうやって助けるかということに焦点を当てて理論を練っています。
理論がこの世の中を救ったのではないのではないのか、と思うかもしれませんが、理論の威力はすさまじいものです。われわれの世界においては、特に実生活においては、「正当性を見せびらかしてものを発言する」ことの威力が最高潮にまで達しています。おかしいんですよこれは。例えば、別に人が何をやっても、一見へんなことをしても別に人の知った凝っちゃないはずなのに、「妙だ」というだけで気味悪がられるというのは、そちらのほうが妙な話です。くだらないことで悩むなという話しではないのです。実際どんなに社会に適正している人間でも、現代の社会のあり方には疑問や不満を感じているはずだから、わがままだとしてもそれを払拭しないことにはよりよい住みやすい社会というのは実現しないわけですから。社会においては「正当性」がないというだけで人間の生き方は疑問を持たれるような日々です。人々がそういった喧騒の中で嫌な仕事をして給料をもらって、それでも元気に生きていくためには、自分の心の中のささやきと励ましがなければ無理だと思います。でなければあっさりと崩れ去ってしまうことでしょう。
その心の声を代わりに作ってくれるのが、あるいは心の声に栄養を与えるのは、哲学の仕事のひとつです。特に現代ではその色が濃厚です。
最後に私の主張として、
現代において、
科学が全ての客観に答えを与える学問だとするなら、
哲学は全ての主観に答えを与える学問であるべきだ。
と述べておきます。
お礼
ご丁寧な回答、誠にありがとうございます。 下心無しで正に感謝に値するご回答です。 何か現実社会との接点を教えて頂いた様で、安堵致しました。俗物の僕でも感じるモノがありました。