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常識とは何かがわからない
常識とは何か(特に生活、社会における常識です)全くわかりません。 常識について、書かれている哲学的な本で少しでもためになるような本を教えてください。本当に困っていますんで、お願いします。
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- r4nx28gu
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じゃ~常識力検定でも受けてみますか??
- tuort_sig
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こういうのを試してみたら如何ですか↓
- 参考URL:
- http://www.josikiryoku.com/
- fuckin-lovegun
- ベストアンサー率30% (47/153)
こんにちは^^ 面白い質問なので回答さしてもらいたいと思います。 常識とは,統率化された現代の人間社会においては無くてはならぬモノである。 というよりも,無くてはならないと言う「勘違い」とその「思い込み」によって高等な言葉として私たちの頭の中に存在してしまっているのだ。 近代から現代,日本人は特に教育と言う場において"社会のまとまり""集団生活""集団での共通性"などを異常なまでに行ってきた。 常識は,その集団性や共通性の性質によってできた言わば"薬"のようなものなのではないだろうか。 薬と言うたとえを使ったのはもちろん良い意味ではない。薬は『毒にも薬にもならぬ』と言うほど毒とは紙一重の代物で, そういった本質を知らぬ勘違いによってイメージされている危険物質であるからなのだ。 けれども薬は手元にあれば安心できるし,それは医者から与えられたもので利かないはずはないと,その存在を信じきっているのである。 常識もまた,これも持っていれば安心できるものである。そしてそれはみんなに与えられたもので,その存在はゆるぎないことと当然視されている。 では,果たしてその存在について『本当のところ』と言うものを考えてみたことはあるだろうか。 常識とは,本当に私たちすべてに善い物として存在しているのだろうか? この共通性は江戸よりももっと古い時代からの名残なのであるが, 現代に至ってはそれにより,気づかぬうちにしっぺ返しを食らってる。 つまり,集団性の性質を既成概念として植えつけられている日本人は『常識』と言う言葉の魔法によって化かされ続けていて, その呪縛に因っていわゆる『アイデンテティー』を表に出せないでいるのではないか。 そのいい例としては,日本人の『流行』についてを見てもらえればよく分かると思う。 私たち日本人は常に流行に置いて行かれてなるものかと, みんなと同じ列車に乗ろうとして走り回っている。 後の列車が来るのを待つことは恥ずかしいことであり,また一つ前の列車に乗ることは『流行遅れ』というレッテルさえ貼られるのである。 一度列車から離れて考えた人はあるのだろうか。「流行というものは新しいもの」と勘違いしているだけということを分かりはしないのだろうか。 先にも述べたが,日本は島国という条件下において『海外の文化』にすごく敏感であった。 殊に江戸時代からは娯楽において流行化社会が形成され,戦後は教育にまでその考え方が派生してしまった。 つまるところ流行的思考によって,常識という名の元に『集団的安心』と言うものが堅牢な剣として存在してしまったのだ。 しかしそれが諸刃の剣であることには気づけない。否,気づいてはいけないのである。 現代社会ではそれに気づくこと自体が社会に反することなのである。 真実を見つめることがこんなにまで困難とされる世の中になっているのが空しくまた悲しいことだ。 本当に"人間的常識"というものがあるとすれば, 私はそれは共通的意識にとどまらぬ所にこっそりと存在するものではないか? 現代の"常識"と言うものには,人間の弱さが垣間見れる。それにすがることは人間としてのいくつもの殻を破ることはできない。 常識を破ると言うのではなく, 常識を知り,常識を吟味し,そしてその次の物へとたどり着かなくてはならない。 過去にはそんな苦労は必要なかったであろうが,共通的社会に成り代わった現代ではそれが必要なのであろう。 常識とは,『共通性』にとどまるようなそんなチッサナものでは無いのかも知れない。 参考になれば幸いです^^
- mogurayama
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こんばんわ♪ う~ん。 考えてみると以外におくが深いです。 ホッブスやトマスペインを読むと良いのでしょうか・・・ 法律と常識はどこがちがうのでしょうか。 法律は、明文化されているものですね。罰則もあります。 常識は、明文化されていない社会的共通の 知識・理念のようです。いづれにしても 社会的な共通の知識であり、認識です。 人を殺してはいけないことは法律で明文化されています。 また、質問者様は知らなかったことかもしれませんが世間的には「常識」とされているようです。 さて、どうしてこのような社会的共通の知識や認識が でてきたのでしょうか。 また必要とされたのでしょうか。 ホッブスのいう「万人の万人に対する狼の状態」を 起こさないためだと思います。 人は社会性を持つ生き物で、一人単独では生きられません。 「いや、俺は一人で生きられる」と言っても ローソンでカニパンを買ってしまったらそこで負けです。 人と人とがコミニュティを持つ上で、 人を殺さない・ものを盗まない・ お互い不快と感じることは行わない・ などと決め事や共通の認識を持つ方が、 お互いにとって生きるうえで得なのです。 ルソーの言うところの「社会契約」が、 ここの内容に当てはまるのかは分かりません。 ですが、少なくとも近代国家や現在の社会環境は このような意識をお互いが持つ上で成り立ってきました。 qwerty14さんのお部屋にお友達が泥のついた革靴で 入らないのも、その根源があるからだと思います。 資本主義国家もローソンもこの共通認識があるから、 安心してなりたってます。 つまり、社会性を持つ、人という生き物が お互いがお互いに干渉を受けず、お互いを 守るために法律や常識が出来上がりました。 法律は常識を具体化したものと考えてよいでしょう。 法律は、共通認識・ある一定の哲学だと思います。 ですが、そのような過程で生まれる共通認識ですので 異なる認識を持つ者がいれば、 つまり 「人を殺すことは良いことだ」という哲学の人には 他の大勢にとって常識ではなくても その人の中での哲学にはただしくなります。 qwerty14さんのおっしゃるように、私も 「常識だ!」と言われても疑問のときもあります。 常識という言葉の乱用は、その言葉うんぬんの前に 自分の哲学を世間の共通認識と勘違いするからでは ないでしょうか。 常識という言葉が生まれる過程を考えてみる、つまり コミニュティの中で生きる上で、持っておいた方が お互いにとって都合の良い、共通知識・認識と考えてみると 分かりやすいのではないでしょうか。 長文で申し訳ないですが、 参考にしていただければ幸いです♪
生活、社会にある程度の強制力を持つ共通の知識・認識だと思います。 ですが、あまり明確に常識を意識しないほうがいいですよ。非常識と衝突する機会が多くなってしまいます。 最近は有名と同義で使われることが多いですね。気楽に考えましょう。
- sekisei
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常識、明確そうでかなりあやふやな言葉ですよね。 たぶん個人個人が持っている常識(=偏見)のある集団での平均値(または重なるもの)のようなものだと思います。 自分のもっている”常識”を考えてみれば、今まで付き合ってきた人たちが自分に見せてきた態度、意見やTVなどから得た情報から少なくともほぼ周りの大半の人が同じ(意見、対応)になるものになると思います。 そのために常識は世代、地域、時代、宗教などで全く変わってしまいます。 世代、地域、時代などで自分が接する相手が変わりますから。 (携帯で考えるとわかりやすいかもしれません。10年前は携帯持つのは非常識、今常識。ある地域で携帯持つのは非常識、日本の都市部は常識など) また実はだれも対応する相手に応じて常識を変化させているように思えます。 子供に接する時、高齢者に接する時、同世代に接する時。 そのため、ある個人の持つ常識が正しいかどうかを考える時、それが納得できるかできないかは自分の常識に照らして考えるしかないため疑問が発生して納得もできません。 自分の常識がどうかを考えるには自分が関る人たちがどのような常識を持っているかを調べてそれに対して自分の常識がどの程度ずれているかを見るしかないかもしれません。
- baihu
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#12です。 ご質問者の問いがやっと分かりました。「腑に落ちないことを常識だと言って押し付けられた。これっておかしいよね」ですね。それなら回答は「コミュニケーションが成立していないんですね」となります。カテゴリ的には“人間関係”の方が近いように思います。 最初の問いが「常識とは何か」だったので、#12のような回答をしました。 > 最初の文で常識を定義してるのではないでしょうか。 常識というものはこういうものだと辞書的に定義できます。しかしその定義は、ある命題Aが常識なのかそうでないのかを定義するものではありません。そういう定義をできないのが常識の性質だと書きました。ご質問者が押し付けられたと感じている“常識”が何なのか分かりませんが、押し付けられたのなら相手はその時点で明文化できるものを提示しているのですから(分からないならば)聞けばいいと思います。 “人にお願い事をするときには、偉そうな態度をとらない”が常識なのかどうか分からないとお書きですが、少なくともご質問者は「僕自身の考え」として持っています。私も持っています。ここに集う多くの方々も(恐らく)持っています。常識という単語に強く反応されているように見受けますが、ただそれだけのことです。誰か“偉そうな態度でお願い事をしてくる”人が現れたとき、あれ?、と意外に思うあいまいな感じがあるなら、それがそこにある常識のゆるやかな枠です。 コミュニケーションが成立していないと最初に書きましたが、無礼に感じられたらごめんなさい。ただ、常識を前提にしている人と、常識なんてものは存在していないという人が真っ向からぶつかるのは、ディスコミュニケーション以外の何者でもありません。その会話は本質的には「常識というものがあるかないか」を争うものではないからです。「こうしてほしいという意見とそうしたくないという意見が相対しているだけ」なのですから、論点が完全にずれてしまっています。 あとは、その“常識”を押し付けてきた人とご質問者が、話がかみ合わないという事実があるだけです。「これは規則だ」と言われたのなら「どこに定められてるの?」と問い返せます。しかし「これは常識だ」と言われたのなら、この問い返しは無意味なのです。「その常識は違うと思う」とか「ホントにそれって常識?」とかいうレスポンスになります。「俺とお前の間で共有できているよね!?」という前提があるときにしか常識は有効になりませんから。 “人にお願い事をするときには、偉そうな態度をとらない”が常識でいる「大人の関係」の内は、特にはみ出す人がいたって「ええー、なんか嫌な感じだなぁ」なのですが、罰則がないからと多くの人がはみ出すようになると、どこかの掲示板のように“他人を不快にさせるような書き込みは、管理者が判断して削除します”というような規則に変わります。「子供の関係」になってしまうのです。 ご質問者が納得しない、常識を押し付ける人が理解しない、そういうこととは無関係に、私の理解する常識とはこういうものです。
お礼
ありがとうございます。 なるほど、常識というものについてちょっと判ったような気がします。 わざわざつきあってくださいまして、ありがとうございました。
- baihu
- ベストアンサー率31% (114/357)
常識とは、ある社会の中で広く認められて、知っていて当然とされている知識です。……って、辞書的な意味は分かった上でのご質問でしょうか。#3のお礼欄を拝見すると、ちょっと違った感じを受けました。 > 僕は全世界共通の常識なんて存在しないと思うんです。あるんだとしたらそれはその人自身内でのみ形成されたものだと思います。 時代や地域が違えば変化するのが常識の常識たる所以であり、いつでもどこでも通用する数学の定義のようなものを常識とは呼びません。しかし、個人の中でだけ形成されていても常識とは言いません。 “人にお願い事をするときには、偉そうな態度をとらない”なんてのは一般常識のひとつですよね。処世術なんて呼ぶのも恥ずかしいくらいで、だから常識といいます。どの程度まで頭を下げるかとか、敬語はどのレベルかなんて厳密な決まりはありません。 くだいて言うなら、厳密ではなくて疑うことも動かすこともできるというのが常識の性質だと思います。だから変化するのです。根拠条文などをもって縛り付ける規則とは、この点が違います。縛らずに緩やかな線を引くのです。多少の伸び縮みもします。 「常識とは違う」ことをしたとしても、何らかの理由を挙げ、だからこうしたんだ、と言えば、常識は引っ込みます。あ、そう、です。常識には基本的に、対立するような“固さ”がないのです。 これに対して規則は引っ込みません。規則にのっとっているか、それとも外れているかを厳格に区別します。社会のものごとは、何もかも厳格に線引きができるものではありません。線引きができないからといって、まったくの自分勝手になってしまっては困ります。そこに登場するのが常識で、その意味では非常に便利に使えるものなのです。 > 「ならばなぜ常識?その前に常識とは如何なるものと定義されるんですか??」 上の話を受け入れられるなら、このような対立構造を立てようとすることに意味がないことを理解されると思います。この問いは、のれんに腕押しです。 質問者は、この問いを発したとき、その“常識”を単に知らなかったのでしょうか。そうではないですよね。十分知っていて、それでもそれとは違うことをすべきだと思われたのでしょう。(でも、別に常識でも何でもないことを「常識だ」という人もいますから、そんなときは「そんな常識知りません」「常識だとは思いません」で済むことです) 常識は別に質問者の言動を縛りはしません。「そんな常識があるのは分かるが、自分はこの場合、こうだと思うんだ」と冷静に対応されれば済んだことではないでしょうか。これが規則に縛られるのとは違うところです。「校則が禁止しているのは知っているが、私は金髪にしたいのだ」は通用しません。「毎日風呂に入るのが常識なのは知っているが、徹夜明けで仕方なく睡眠を優先したんだ」のようなのが常識への向かい合い方です。
お礼
回答ありがとうございます。 >常識とは、ある社会の中で広く認められて、知っていて当然とされている知識 >時代や地域が違えば変化するのが常識の常識たる所以であり、いつでもどこでも通用する数学の定義のようなものを常識とは呼びません。しかし、個人の中でだけ形成されていても常識とは言いません。 最初の文で常識を定義してるのではないでしょうか。 また、在る瞬間においては、常識というものは明文化できるのではないのですか??瞬間という範囲では。 永久不変のものはないにしても、在る瞬間では存在するわけでとまっています。ならば書けるはずだと思います。書けないのであれば存在しないと思います。 >“人にお願い事をするときには、偉そうな態度をとらない”なんてのは一般常識のひとつですよね。 わかりません。でも、"僕"はえらそうな態度はとりませんが、それは僕自身の考えであるわけで、それが一般常識となっているかは僕にはわかりません。というか、一般常識といえる理由のほうが知りたいです。 >「常識とは違う」ことをしたとしても、何らかの理由を挙げ、だからこうしたんだ、と言えば、常識は引っ込みます。 いえ、引っ込んでくれませんでした。「A(理由)のために、Bした」「そんなもん常識Cするのが当然や。そんなんもわからんのか」 理由もなく、こうです。わからないからこうやったというのに、説明もなく、されてはただでさえ曖昧な常識を断定できる理由がさっぱりです。
補足
(続きです) >この問いを発したとき、その“常識”を単に知らなかったのでしょうか。そうではないですよね。 いえ、常識なんてないものと思っているので、在る意味知らなかったといえるかもしれません。 >でも、別に常識でも何でもないことを「常識だ」という人もいますから 回答者様はこの事柄は常識だ、この事柄は常識ではない、のように的確に分類されているようですが、その根拠はどこから出てくるんですか。共通で認められたものなんですよ??それを考えると断定なんて到底できないと思うのですが。 >「そんな常識があるのは分かるが、自分はこの場合、こうだと思うんだ」と冷静に対応されれば済んだことではないでしょうか。 上にも書きましたが、済みませんでした。自分の行動の理由を説明したら結局は「常識AがあるからここはBするのが常識」と返されます。常識を説明するのにどうしても常識という言葉を使ってきます。ならば常識の根源は何かと問いたくなります。 >規則に縛られるのとは違うところです。「校則が禁止しているのは知っているが、私は金髪にしたいのだ」は通用しません。 でも、規則に対して、「この規則を施行することによって何か得られるものはあるのか」という異議を申し立てることは出来ますよね。 んー、やっぱりまだすっきりしません・・・。
あなたが疑問に思われるのも最もです。 これは哲学と言うより、「いかにして常識と呼ばれるものが生まれるのか」と考えたほうが良さそうです。 伝統社会における常識とは、おそらく小さな部族社会や民族社会のなかでのみ通用する儀礼的行為やしきたりのことであったに違いありません。 日本にしても、今は全国どこでもたいていみな日本語ですが、日本語は正確にいうと、公用語として日本国家によって作り出され、普及したものです。 青森弁などに名残はありますが、正確にいうと日本国内は、しばしば話ができないことが明治時代まではありえたのです。 明治以降、教育勅語や徴兵制、つまり日本の戦時動員体制のなかで、「一般的な日本語」が普及し、そしていわゆる「大衆社会」が生まれることになります。 当時、メディアはラジオを中心としましたが、戦後はご存じのように、白黒テレビが普及し、カラーテレビが出現しました。 うちの父親いわく(55歳)、「子供の頃、自分の家にカラーテレビを購入したら、毎日のように友人たちがテレビを見に来たものだ。」 テレビの大衆化は、決定的に大きな意味をもちました。政治的にも、経済的にも文化的にもです。 政治的には、選挙や、社会問題をとらえ、国民が民主的に振る舞うために必要なリソースとなっていきます。 経済的には、あらゆる消費を促すために、企業がCM戦略に力を注ぐようになり、これの効果はいうまでもなく大きなものとなっています。 文化的には、企業がスポンサーとなることで、そしてそれはしばしば彼らの販売戦略と結びついていますが、あらゆる文化的活動や思想の発信の場となっています。 結論をいいましょう。「一般」とか、「ふつう」といわれることは、伝統社会においては、おそらく部族社会などの狭い領域における儀礼的行為やふるまいのことを示していたに違いありません。 しかし、近代社会における「常識」とは、1つは公教育制度にあり、もう1つはテレビに大きなリソース(源)があります。 公教育は、同じ日本語を学び、同じ学問を学び、同じ知識を獲得していきます。そうした共通経験はたしかに「常識」と呼ばれるでしょう。 一方、テレビの大衆化は、一家に一台から、いまや一人一台?ともいえる時代へと移り、その影響力をますます増大させています。結果的に、テレビを通して、いわゆるブームや潮流が生み出され、みなに共通知識として波及していきます。これが「常識」を生みます。 とはいえ、これは大衆社会という全体社会を想定したものですが、いまや「常識」とはいいあっても、通じないことも多いですね。文化的豊かさの結果、話があわないこともよくあること!映画1つをとっても、同じ映画好きと話しても、お互いの見た映画がずれていることがたびたびあります。 よって、常識いうのは、メディア戦略におけるブームのみになっているともいえます。 大ヒット映画! 今年超注目ブランド! 今年はだれだお笑い HG(ハードゲイ)? などなど もう少し正確にいうと、個人が所属する社会集団がおのおのの特有な常識を持つといえるでしょう。 どういった学校か?小学校、中学校?何学部の大学? どういった会社か?営業?製造?警備?公務員? 以上は社会学です。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど、社会学という見地から常識とは何かを考えるっていうのもあるんですね。確かに社会的な影響というのは大きいかもしれませんね。ありがとうございました。 確かに、2人以上の集団においてその中で形成される特殊な決まり事はあるかもしれないですね。それが常識ということですか。でも、人数が多くなるにしたがって、常識の維持とは困難になるものと思いますけどねぇ・・・。
「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことをいう」とアインシュタイン。 偏見は不幸な試みを維持させることかも? その中に自分が被害者でも知らず信仰してありがたがっている掟(教義)があるかもしれませんね。
お礼
回答ありがとうです。 >その中に自分が被害者でも知らず信仰してありがたがっている掟(教義)があるかもしれませんね。 そうなんですよ。ある人Aが「在る事柄Pは全世界全員が当然わかっているものである。だからPは常識である。」見たいな事を言った際に、では、Pが全世界全員に当然わかっているものとわかる根拠はどこにあるのかがわからないのです。 その人が常識とやらと見做すもの全てが本当に世界の常識とやらと完全に一致するはずはないと思うのですが、それにも拘らず、自分の常識と思っていることは本当に全世界で通用するものか、まあ全世界でなくても、その特定の地域内において本当に通用するものか、とうたがわないのかがわかりません。
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お礼
ありがとうございます。 なるほど平均ですか。僕は人によって考えが異なるので、みんなの考え方は全然別物だと思っていました。そうではなくて、意外にほとんど共通に近いものはあるんですね。そのものを間違っていたようです。