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常識とは何かがわからない
常識とは何か(特に生活、社会における常識です)全くわかりません。 常識について、書かれている哲学的な本で少しでもためになるような本を教えてください。本当に困っていますんで、お願いします。
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- marimo_cx
- ベストアンサー率25% (873/3452)
非常に簡単な事です。 『常識』 ↑ (*・_・*)ジッ・・・ っと見つめても自明ですが、英語にするともっと解りやすいですよ。 common sense →直訳変換→ 共通感性
- izumis
- ベストアンサー率50% (2/4)
よくわからないのですが、 何かをするときに、この3つを考えます。 「信」 このことをやって人や社会の信頼を失うことはないか。 「義」 本当に正しいことなのか。 「仁」 他人を思いやっているか。 この3つを守っていれば、堀江さんも姉歯さんもあのような過ちを犯さずにすんだのにと思います。 人は、結局何千年も同じ事を繰り返しています。 古典にすべての答えが書いてあります。 安岡正篤先生の本をお勧めします。 それから「論語」を繰り返し読み続ける事です。 一生続けてです・・・
お礼
回答ありがとうございます。 考えますよね。確かに。僕も行動するときは3つ考えていると思います。でも、考えてもその考えることによって得られた結論がその常識とやらとはかけ離れたものであった場合、その人はちゃんと熟考したことなど考えてもらわずに「常識がない」といって社会から冷たく見られると思います。その社会全体の考えが理解できません。何も深く考えず、「只常識がない」といって、自分と考えが合わないといって排除しているだけにしか見えないんです。「己の常識とやらはそんなに絶対的なものか。そして、己の常識とやらをちゃんと人に理解できるよう説明できるのか。そもそも常識とは何かちゃんと悟っているのか。」などとたずねてみたくなります。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
◇ 「常識」とは、その人が所属する領域において「大多数に支持されている決まりごと」といったような意味でしょう。 ですから、自分が所属している領域をどのように捉えているかによって一人ひとりの常識は異なってくるように思います。 ◇ では、なぜ「大多数に支持されるような決まりごと」が存在するのかと言えば、良くも悪くも共通の認識や同じような対応によって、領域内の人間は同種の生き物であるということを確認したいからではないでしょうか。 「集団から逸脱することに対する怖れ」が生み出したものと言えるかもしれません。 それゆえに「拘束力」も感じるということになるのでしょう。 しかし、この「決まりごと」は地域によって同じではありませんし、つまり人間にとって普遍的なものではありません。 あくまで、ある領域内における便宜的、一時的なものです。 すなわち、常識とは 【物事の本質を見極めることを中途で放棄した人間が、集団としての連帯感を得て安心するために便宜上設定した仮の約束事】 であると言えそうです。 ◇ とはいえ、人間が不完全であること自体は否定できないわけですから、たとえ「仮」であっても(精神的安定のために)約束事は必要です。 また、そういう心情に対して理解を示すぐらいのゆとりを持つことは必要でしょう。 その上で独自の思考を築いていけば良いのです。ただし、焦って他人に理解を求めることは反発を招きます。 何事にも「機」というものがありますから、ここ一番というその時を逃がさず、本質に基づいて自己主張すれば良いのです。 必要性が認識されれば次第にそれが新たな常識になっていくことでしょう。 ただ、本質ということにさえ認識の相違が生じるでしょうから、その新たな常識もまたあくまで「仮」であって「人間が絶対的に必要とすべき決まりごと」ではないということに違いはないのかもしれません。 ◇ 紆余曲折は経るでしょうが、人間は「ある本質」に近付いていると信じたいものです。 我々は未だ漂流中であって確固としたものなどどこにも確立されてはいない、という不確実さに対する認識がその人間の可能性を広げていくために必要なことであろうと感じます。 同時に、今まで拠り所としてきた「常識」を一挙に覆そうとすることも、地に足をつけて前進するためには賢明な方法とは言えないかもしれません。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに、 常識≡【物事の本質を見極めることを中途で放棄した人間が、集団としての連帯感を得て安心するために便宜上設定した仮の約束事】 と定義するのはいいかもしれませんね。僕が理解できなかったのは、これは常識だ、世界の誰だってこうなることは理解できる、というように自分の考え、即ち常識を絶対的に正しいものとするものなんです。 そこで、常識の定義を↑のように変えてしまえば、確かにこういう意味での常識というのは存在するのかもしれませんね。
- code1134
- ベストアンサー率20% (703/3370)
(No3さんの回答に対するお礼の中で) ・・・そんなこともわからへんのやったら、もう生きていけへんわ・・・と表現されていますが この様な表現をするなら、質問者さんへの助言者の居住(出身)地は近畿圏一円では?、との捉え方も常識の一形態と言えるでしょうね。 しかし、(変人であるが故に)私はそうでない場合も含めます。 大体に於いては近畿圏一円であろうが、 もしかしたら、方言を研究された経験がある首都圏の人間かも知れない、と。 こう考える事自体は(法律で禁止されたら別でしょうけど)他人がとやかく言う性質のものではない、と私は強く確信していますけど、如何でしょうか? お粗末なカキコみで失礼いたしました。
お礼
回答ありがとうございます。 はい、確かに僕はそう思います。 近畿圏の人かなぁ~と。 でも、おっしゃるように、方言研究者だとか、24歳で突然関西弁に目覚めた人かもしれないし・・・と無限の候補があがってきます。この場合は別に問題ないですが、問題は自分がそう考えることによって何かしらの行動を起こさなければならないとき、その行動が如何なる影響を他人に与えるかということを考えた際、どうしても、躊躇してしまいます。あまりに可能性、候補が増えすぎるので。
- russy1
- ベストアンサー率11% (20/178)
常識とは何かという常識を求めておられるようなので原理的なことだと思いました。少し常識から離れて養老孟司さんの本が良いと思います。それも養老さんが常識的になる前に書かれた本が良いと思います。常識というのは自分で考えられない人が頼りにするものですから(これは別に悪いことではないと思いますが)、常識とは何かを知る為には非常識なものを自分が常識にする努力がないと常識とは何かを理解することは無理だと思います。
お礼
回答どうもありがとうございます。 養老孟司さんですか。また調べてみます。 ありがとうございました。
- tachan28goo
- ベストアンサー率33% (90/272)
小林秀雄は名作と呼ばれる多くの評論を残していますけれども、その中に『常識について』という小論があります。私の手元には『考えるヒント・2』(文春文庫)の中に収録されたものがあります。30ページ余の論文ですのでここに要約することは困難ですので機会があれば一読されてはいかがでしょうか。 常識いう言葉はもともと「コンモン・センス」という英語の訳語であること、から始まって、福沢諭吉、デカルト、ベルクソンなどの著書を通して『常識』について実に興味深い哲学的な考察がなされています。 私が個人的に興味深かったのは「私たちが常識という言葉を作った以前、私達は、これに相当するどういう言葉を使っていたかというと、それは、やはり生活の知恵を現す「中庸」という言葉だったろう思う。・・・・以下略・・・」という 一文でした。小林はそこからさらに、孔子の目を通して東洋哲学の観点からのアプローチも行っています。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167107023/ref=pd_rhf_p_1/503-5483133-5054334
お礼
ありがとうございます。 新たな味方が発見できるかもしれないですね。 紹介ありがとうございました。
常識とは・・・自分の持つ価値観を人に押しつけるものです。 「常識固め」っていう技がありまして、 学校の先生とかがよく使います。 質問の返答にに困ると「そんなもん常識だろ!」 と言って、論議から逃げる技です。 便利な言葉ですね「常識」 私は常に非常識路線で生きてますので、 よく、「常識」にぶつかります。 「常識」ってあくまで多数派の意見だと思っています。多数派が常に正しいとは限りませんので、 非常識だと言われても、屁とも思わず自信満々生きてます。(^^) 参考にならない意見で恐縮です。
お礼
回答ありがとうございます。 おそらく、回答者様と僕の今の常識に対する考え方はほぼ同じだと思います。 まさに、「そんなもん常識」といわれ、「ならばなぜ常識?その前に常識とは如何なるものと定義されるんですか??」みたいなことを尋ねたら、「今まで生きてきてそんなこともわからんのやったら、もう生きてけへんわ」見たいな感じで捨てられてしまって。 何というか、「普通」「当たり前」「常識」こういったものに疑問を感じ続ける毎日なんです。何の根拠もなくどうして、皆普通だとか当たり前とかいえるんだろうと不思議で仕方ありません。僕は全世界共通の常識なんて存在しないと思うんです。あるんだとしたらそれはその人自身内でのみ形成されたものだと思います。
- o24hit
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こんにちは。 まず、全ての人が同じ常識を思っているのかを考えて見ますと、違うような気がします。つまり、人の数だけ常識は存在すると思います。 その人の常識には、その人を取り巻く環境や習慣が大きく影響を与えているような気がします。長男の常識・次男の常識・親の常識・子供の常識・男と女・日本人と外国人・今の人と昔の人未来の人、それぞれ全て達うと思います。 例えば、今は常識では戦争することは良くないですが、約60年前の常識では戦争することは悪いこととはなっていなかったと思います。 常識なんて気にする必要はないと言うつもりは無いですが、常識という言葉に惑わされず、現実をしっかり把握して、自分のとるべき行動を考えればよいと思います。 (結論のようなもの) ・ 本に書いてある常識は、その著者の考える常識で、普遍的なものではないと思います。 ・ 何が常識なのか、その常識は自分にとって必要なものかを自分で見極めないと、いろんな人の常識に振り回されることになります。 ・ 時には常識を破る必要があります。ガリレオが常識を破ったために、地球が回っていることがわかりました。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに常識は不変ですよね。 実は、親に「アンタ非常識」みたいなことを言われ、「ならば一体全体常識とは何ぞや??」と思い悩み続けている次第です。何かずれている気がして。。。
- sweet-s0506
- ベストアンサー率20% (39/190)
そのような本はどこを探してもありません 多くの人と出会い、会話することによって常識とは何かが わかってくるのです。
お礼
回答ありがとうございます。 そんなもんなんですか?? ということは、常識は人それぞれ違うということでしょうか。
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お礼
回答ありがとうです。 共通感性とのことですが、疑問があります。 1.どうしてそれが共通のものとわかるのか。 2.異なる人間の間に於いて、感性が共通とは如何なる状況をさすのか。 です。 これがわからないから常識とやらもわからないんだと思っています。
補足
あと、異なる人が本当に全く同じ感性を持つとは思えません。 では、どの程度が共通と見做されるか、 これもわかりません。