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昔の日本語の意思疎通方法に関して。
言語は絶えず変化を続けているものですが、 ふと過去の日本語の意思疎通に関して疑問が生まれました。 現在でも、東北や九州方面の方言は標準語とかなり異なりますが、 マスメディアの普及で共通語を理解する事が出来るようになりました。 ですが、昔の日本人はどうやって異なる方言を話す相手と意思疎通を図ったのでしょうか?日本語の方言は欧州では他言語に分別されてもおかしくないと聞いた事があるので不思議です。
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まず昔の日本人は藩をひとつの国として生涯そこを離れることなく生活したので共通語(標準語)の必要が なかったのでしょう。現在の大多数の日本人が外国語を知らなくても生活に困らないのと同じです。 例外は江戸藩邸詰めの侍たちだったと思われます。武士は子供の頃から漢学を今日の義務教育の英語以上に 学んでいたので共通語は漢学の教養を生かした候文的な言葉だったと思われます。しかし、支配階級は藩の交わり、諸国を回る僧侶、神官、旅人と接する機会が あるので自国弁以外は分からないということはなかった思われます。庶民が藩外に出れば困ったでしょうが 芝居、浄瑠璃、絵草子などから学んだ知識で多少は他国の人と意思疎通が出来たはずです。特に隣国の方言は似ているので大きく困ることはなかったでしょう。 最悪筆談や素人の通訳(何らかの事情で他国弁が分かる人)も利用できたと思われます。 また方言間の距離(差)は昔ほど少なかった筈です。 方言は中央(奈良、京都)から地方へ伝播した中央部の古い言葉が多いことが知られています。ヨーロッパ語間の差も日本人が感じるよりはるかに近く、例えば スペイン語、ポルトガル語、イタリア語の差は日本語 の標準語と関西弁、九州弁、東北弁などとの差より小さいと思います。従って我々も英語、日本語、関西弁の三つの言葉が話せ、東北弁と鹿児島弁は話せないが理解できると外国人に自慢しても良いと思います。
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- shigure136
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言葉は実際に大きな障壁だったと思います。 しかし、単なる障壁ではないという事実もあります。 武田信玄は他国者を識別するためにあの「甲州弁」を徹底したと言われています。 甲州は東と西、表と裏を行き来する人々が必ず通らなければならない要所でした。 他国者を自国の人間と区別することは、国を守る城主として最も心がけなければならない事だったのでしょう。 他国の言葉が通じないことに、もちろん不便さはあたでしょうが、そのことが自国を守る自衛手段にもつながっていたのですから、言葉の障壁は不便さを超えた意味があったのではないかと思われます。 人の出入が多くなれば、自然に「このことを、あの国ではこのように言うんだ」とか、「俺の国ではこう言うんだ」などの情報が行き交い、次第に他国の言葉が判る人も出てきたことも考えられ、いわゆるカタコトでの会話のようなものが成立していったのでしょう。 国の面積が小さいとはいえ、気分は大陸の国境の如き隣国・敵国意識が華やかなりし頃の話ですからね~。
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ご回答ありがとうございます。 そう言えば武田信玄の小説中に敵国のスパイを探る為に、 甲州弁を用いる場面がありましたね。 今は失われた方言も多いでしょうが、 出来る限り現存する方言は伝え残したいものですね。
お礼
ご回答ありがとうございました。 確かに歌舞伎や浄瑠璃の知識があれば、何とか意思疎通は図れそうですね。 同じ日本人同士でも通訳が必要だった時代があったなんて不思議な気分です。