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新約聖書:種まきのたとえばなしについて
キリスト教に関する質問なので、文化人類学に含まれるかな、と思って このカテゴリーに書き込みしました。 ジーザスのたとえ話に種まきの話が出てきますが、「石の上にまかれた種」 という部分が気になります。福音(御言葉?)を聞いて、大喜びで受け入れるのに すぐにつまづいて挫折する人、とありますが何やら自分の事を言われているみたいで大いに気になります。(被害妄想?)この言葉は洗礼を受けて信者になった人にだけ当てはまるのでしょうか。私は「山上の説教」の部分がとても好きなので、 喜んでこの話を読むのですが、(入りたければ門を叩け、見つけたければ捜せ、門を叩くものは入り、捜す者は見つけるであろう というところ)今日ではあらゆる意味で、門を叩いても開けてはもらえなかったり、なんぼ捜しても見つからなかったり(落し物じゃなくて。)して、狭き門がこれまた一層狭くなってきています。 そういう事がひとたび起こると、「ああ、いやだ、もうだめだ」となってしまいます。この辺りですでに「つまずいて」いることになるのでしょうが・・・ 種まきに加えてもうひとつ、マルコとマタイの福音書には、最後の晩餐の場面で、ジーザスがイスカリオテのユダに、「あなたは生まれてこなかったほうが良かっただろう」という、とてつもなく酷い言葉を与えています。 ジーザスがこんな事を言うとはとても思えません。(というより思いたくない) ついでに言うなら、何やら自分の事を言われているような気が・・・ 他にも学びたい部分はたくさんありますが、とりあえずこの2箇所はどのように 解釈すればよいのでしょうか。
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聖書の解釈は、学者によって、教派によって、様々ですから「絶対これが正しい」という解釈は、今のところないかもしれません。(勿論、皆さん、ご自分の教派が絶対正しいと思っていらっしゃるでしょうが) バプテスマのヨハネが「悔い改めよ、天国は近づいた」と語っていますが、聖書の中では一貫して、謙遜で悔い改める者が天国に近く、傲慢で悔い改めない者は天国から遠い、と言っているようです。悔い改める、って、どうやって? 「何やら自分の事を言われているみたい」という姿勢が、悔い改めの出発なのではないかと思えます。私は「大いに気にして」結構だと思うのですが。 イエスと一緒に十字架にかかった犯罪人のひとりが、犯罪人でありながら、十字架上で悔い改め、イエスを救世主と認めた故に、イエスと共にパラダイスに入ったのですから、イスカリオテのユダも、イエスの言葉を聞いて、悔い改めることを、イエスは願ったのではないでしょうか。
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- nabayosh
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「石の上の種」 ・福音(みことば)を聞いて、それが素晴らしいものとは感じるけれども、地盤がしっかりしていないので、他のことにも感化されやすく、根を下ろさずに終わってしまう。 ・これは洗礼を受けた人のみに当てはまるはずがありません。イエスが洗礼という儀式を定めたわけではないですから。あくまでも、福音(みことば)を聞いた人です。 「門を叩け」 ・自分にとって大事なものを求めるように考えてしまうと、つまづくんですよね。でも、そこで壁にぶつかった時に、腹を立てずに、門を叩いているのは自分の利益を考えてばかりいるからではないか、と考えてみると、少し腹立ちも治まるかと思います。 ・この辺りですでにつまづいているか、ということですが、これは困難にあって挫けてしまうわけですから、「いばらの中の種」に近いように思われます。 「あなたは生まれてこなかったほうが良かっただろう」 ・聖書とは別ですが、ギリシャ神話にも「人間にとって最もよいことは、それはかなわぬこと、つまり『生まれてこないこと』である。だが、次善のことがある。『すぐに死ぬこと』だ」という言い回しがあります。 ・確かにひどい言葉のようにも聴こえますが、イスカリオテのユダの持つ人間の弱さを手にとるようにわかったイエスがこのように言ったのには、その人の弱さゆえに罪を犯してしまった(そして犯そうとしている)ユダに、気の毒がるというか、あわれむようにかけた言葉ではないでしょうか。 この質問ですが、正しい答は出ないと思います。ここでできるアドバイスは、自分に感情移入することで、自分に都合いい解釈をしないようにすることが大事です。むしろ自分を戒めるものと考えた方がよいようです。
お礼
お答えありがとうございます。 なるほど言われてみれば、「自分がこんなに希望しているのに」 という己の不服がいつも先頭に立ってしまっているような気がします。 この間も、牧師さんのコラムに、聖書を読むときその中に自分を登場させては 正確には読めない、というような内容がありました。 感情移入をするな、ということでしょうか。 聖書は一見、世界中で読まれているものだから読みやすいだろう、と思って しまうのですが、やっぱり難しいですね。 最後の晩餐の部分については、ご指摘のような解釈をするとほっとします。 私の場合、戒めというより、悪いところは全部自分のこと言ってるみたいだなあ と、半ば(いや、もしかすると完全に)被害妄想的にとるくせがあるので、 それも100%感情移入のいい例かもしれないです。
お礼
お答えありがとうございます。「悔い改めの出発点」というのは大いに(よく使うなあ、この言いかた)ほっとします。 このように、私は自分で「こうだから、こうで、こうなのだ」と 思い切る事や決断性に非常に欠けています。 ですから、ジーザスのたとえ話は私には大変難しいのです。 よく、ペテロやマルコは理解できたもんだなあと感心します(本気で。)。 十字架の上ですら、隣人に愛情を与えた優しいジーザスが、大好きです。 それなので余計に、ユダのことはいつも気になって仕方ありません。首を吊らなくてもよかったのに、と思いますが、彼も自分の好きな人を結果的には殺してしまったのだから、耐えられなかったのでしょうか。 近いうちにはどこかの教会でしっかりと教えてもらおうとは思っていますが、 こうしてインターネットでいろいろな意見や考えを聞かせてもらうのも、偏りを しないためには大いにいい事だと思っています。 ただ、「みだりに主の名を唱えてはならない」(これは十戒でしたっけ) というのがまたまた気になります・・・が・・・。