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南北奉行
江戸の町奉行は南北で月交代というのは 奉行以下の役人も南北二組いたのでしょうか? それは権力の集中による腐敗を防止するためだったのでしょうか? また休みの月は何をしてるんでしょうか?
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- Pinhole-09
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南北二つの奉行所が設けられたのは、 ひとつは多い業務を捌くのに非番の月を設け、その間に前月の処理をするのが効率がよいためですが、 もう一つの理由は訴訟したい市民が、月番の交代を待てば自分の気に入った町奉行を選ぶことができた為であろうと言われています。 町奉行の評価や人気に関係し、業務に精励させる効果があったという訳で、理非曲直を糺(ただ)すのに、誤審やえこひいきがあっては困る幕府の方針だったのです。
- char2nd
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#1です。 >しかしそもそもなぜ2組の奉行所を作る必要があったのでしょうか? 必ずしも2組設置されたわけではありません。1つだけだった時期もあるし、中町奉行を加えた3組の時もありました。 つまり、そのときそのときの訴訟の数などに対応した、ということでしょう。
お礼
繁忙だけの問題とは思えないのですが。
- shigure136
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北町奉行・南町奉行といわれますが、実際に土地を二分して働いていたかというとそういうわけではありません。 奉行所の月番制というものは、訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、訴訟の受理以外の通常業務は当然行われていた。 月番でない奉行所は月番で受理しながら、未処理となっている訴訟の処理等も行っていました。職務は午前中は江戸城に登城して老中などへの報告や打ち合わせを行い、午後は奉行所で決裁や裁判を行なうというもので、夜遅くまで執務していました。 もう少し詳しく紹介すると、月番の奉行は、毎朝四ツ(午前10時)に登城し、八ツ(午後2時)に下城のあと、役宅に戻って吟味・訴訟を行うのです。 非番の町奉行は、月番の町奉行所へ寄って連絡事務をとったり、午前中に江戸城に登城して老中と打ち合わせ報告をしたのです。 月番の奉行所では大門を八文字に開いて、町民からの訴えを受けつけ、非番の奉行所は門を閉じて、過去の訴訟の整理をしたり、月番の奉行所の応援などをしました。また、 市中の三廻り(定町廻り、隠密廻り、臨時廻り)は、その捜査の仕事を続行したりしていたのです。 身体を休める本当の非番というのは2日勤務の1日休みで、月番・非番というのは町奉行所自体の訴訟をさして言うのです。南北で仕事の応援をするのであるから、したがって、北と南に勤める与力・同心らが、対抗意識から、仲が悪かったように勘ぐられドラマなどでもそのようなシーンが多く創られていますが、そのようなことは無かったのです。 信頼関係を築くのが難しかったのは、むしろ奉行とその部下である与力や、同心との間柄でした。 与力や同心が、ほぼ世襲で一生同じ職場であったのに対して、奉行は常に挿(す)げ代わり、両者の間柄、人間関係がうまく行かないことが多かったようです。 その為、奉行は自分の家来である者を内与力や側用人として使い、きっちりと命令が伝わるようにして、彼らに潤滑油の役目をさせたのです。町奉行所に代々勤める与力や同心は、お上(将軍)の家来であり、奉行の(主に旗本)の家来ではなかったのです。 したがって、彼らにとって奉行は上司ではあっても、録を食(は)ませてもらっている殿様ではなかったのです。 この点、火付盗賊改の場合、長官と部下の間柄は、殿様と家来の関係ではありませんが、同じ先手組の組頭ということで、「お頭(かしら)」と呼ばれるような、畏敬と親しみをもった強力な関係が築かれていたのです。 町奉行の管轄区域は江戸の町方のみで、江戸の面積の半分以上を占める「武家地・寺社地」には権限が及ばなかったのです。また、基本的に町奉行の定員は2人であり、初期は大名が任命されていたが,その後は旗本が任命されました。
お礼
回答ありがとうございます。 しかしそもそもなぜ2組の奉行所を作る必要があったのでしょうか?
- char2nd
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もちろん与力以下の同心達も南北に分かれていました。 非番の時は、未処理の事務などをやっていたようです。 月番というのは、あくまでも訴訟の受付の話であって、非番の時も仕事はしていました。 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/edojob3.html
お礼
回答ありがとうございます。 しかしそもそもなぜ2組の奉行所を作る必要があったのでしょうか?
お礼
2大政党みたいなもんですかね?