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日本で王朝の交代がなかった理由

ヤマト王朝も徳ではなく武力で日本国内にいた他の勢力を制圧したのに、その後、諸外国のように王朝の交代が日本で起こらなかったのは、なぜですか? 道鏡や信長が企図した説がありますが未遂に終わりましたね?運が良かっただけでしょうか? また皇族同士の皇位争いもあったのは事実です。 幕府は交代しましたが皇室を廃すことはしませんでした。

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  • jkpawapuro
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回答No.5

天皇が天皇になる前の時代は王朝交代もあったのではとみられていますが、日本書紀が出来た以降にはありませんね。 中国には易姓革命や武力簒奪があり日本にはなぜ起きなかったのかの一つの説ですが、中国の皇帝は天子、つまり天帝の代理人です。 代理人であればより徳のある人が取って代わっても問題ないです。 一方日本の天皇は現人神、神そのものでどこぞの凡人が取って代われるものではありません。これにとって代わることは神殺しとして諸侯群臣が付いてきませんし、たとえ自分の代は力で抑えつけてもいつの日か必ずや皇族の生き残りにとってかわられるでしょう。 皇族を担ぐものに最高の大義名分を与え叛乱の種となります。よって神輿は担ぐ以外の選択肢がありえません。 この諸国の神話と皇族を結び付け現人神となる日本書紀を編纂した大事業にこそ、皇族が永代続く世を築いた土台となったと考えます。

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回答No.4

実際にはあったけど、巧妙に歴史を誤魔化してるのかも? 古事記も日本書紀も、疑ったほうがいいかもしれないと思う。 歴史は勝者が作るって言うし、勝者の都合の良い歴史に改ざんされてる可能性があるから・・・ 今の天皇の祖先と言われる天皇の古墳を調査したがらない理由って? 「祖先の墓を発く行為は、今の天皇に失礼だから」と言ってるのを見たことがあるけど、本当に、そんな理由なのかな?

  • gunsin
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回答No.3

第26代継体天皇の時が王朝が交代だとする学者がいます。 五世代100年以上離れた子孫ですので、交代説に一票いれます。 平安時代は藤原北家が外戚となり、天皇をお飾りにしました、 天皇を殺さなかっただけで、無血の交代と言えるのでは、 鎌倉、室町、江戸の武家による統治は武力で権力を奪っているので 藤原北家と同様の事が言えるのでは。 殺される心配が無いので、天皇家は子作りと蹴鞠や和歌詠みに 心置きなく、興ずれます。

  • Reynella
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回答No.2

日本の王朝が早い段階で、国王(日本では天皇ですが)が実際に政治と軍事の権力を完全に握る、という形を諦めた、あるいは放棄したからでしょう。だから、国を動かそうと思う人々は、天皇を打倒する必要はなかった。むしろそのままにしておくほうが、権力を得たあと、楽だったということだと思います。 まずは摂関政治という見事なシステムを早々に作り上げました。それに加えて上皇という存在も作り上げた。さらには天皇も摂政・関白も、自らの親衛隊というべき存在を持たず、軍を直接率いることをしませんでした。そのため軍事力は臣下である武士に委ねられ、当然の結果として政治権力を行使する幕府という形の別の政府ができた。形式上、天皇が幕府を運営する権限を武士に委ねるという他の国では近代まではほとんど見られないシステムになりました。 こうなれば、次の政権を取りたいものは、天皇をどうこうする必要は無く、現在天皇から政権を委ねられている相手だけを倒せばいい。そのあとで恭しく天皇をもちあげ、天皇から政権を預かり、天皇やその周囲のものが実権を求めないように注意していればいい。 王朝を廃して新しい王朝を建てようとなると、大義名分が必要です。また、そうした場合、日本が範とした中国大陸の国家では常に「旧王朝の残党」が初期の新王朝を苦しめていました。前王朝の最後の王や皇帝の直系子孫だけならまだしも、16親等だの32親等だのまでが担ぎ上げられて反乱軍を形成してしまっていた。広い中国大陸ですらその影響が大きいのに日本でこれをやられてはたまったものじゃありません。ところが、実際に権力を握っている「幕府」を打倒するだけならこんな面倒はおきません。実質的に敵勢力を倒したら、天皇から「次の征夷大将軍は君だよ」と認定されればそれで済む。それで倒した相手の直系やごくごく近い武士以外は諦めてくれる。こんないいシステムはなかなかないでしょう。 皇位簒奪をもくろんだ人物としてはもう一人、足利義満があげられますね。でも彼も別に王朝を「倒そう」とはしていません。妻を「准母」にし、だから(そんな制度はないけれど)自分は「准父」みたいなもので、だから二人の息子は天皇の兄弟みたいなもの、という屁理屈をこねて親王と同じ待遇で元服させてしまう。(立太子したと主張する研究者もいます)義満が急死しなければここで「実質上の王朝交代」となったでしょう。でも仮にそうなったとしても名目上は同じ王朝として続いた可能性が高いといいます。正式に当時の後小松天皇が(内心はともかく)認めてしまった准母の産んだ子が「親王」になっているのですから、その親王が立太子→即位、で済みますから。

回答No.1

日本だけが「自然に対するのあたりまえの事」を考え 幸福な社会をつくろうとしてきた。 その根本が天皇陛下を頂点とした、頂いた、「平等主義」にあり、それが継続されてきた 王朝の交代はつまり天皇には実は織田信長さえ頭を下げた存在なのです