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仏教と神秘主義の関係

以前、中論を読んで、竜樹の論理の進め方が厳格なのに驚いたことがあります。論理だけでは真理に到達できないという竜樹は、人によっては神秘主義者とも言われるようですが、その方法論はとても論理的です。竜樹をはじめとして、仏教の真理のうえで論理と神秘主義の関係というのはどのようなものなのでしょうか。

みんなの回答

  • geihoku
  • ベストアンサー率20% (20/98)
回答No.6

門外漢ですが、こう考えたらどうでしょう。 論理という言葉にこだわりすぎではないでしょうか。 言語という狭い意味ではなく、神通力で浮かぶ映像等も、ひっくるめて言葉で代表しているのではないでしょうか。 神秘主義ですから、秘術を経験する場面や、神秘的な経験等もあります。それらは当然言語では表わせませんね。それらを総称して言語と称しているのだと思います。 そこに到達するためには論理を超えた言葉が必要になるのでしょう。

hakujushi
質問者

お礼

どうもご回答ありがとうございました。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.5

再度の4です。 >>体験だったら、別に最初から言葉がなくても学ぶことができるのではないでしょうか 野球のような体験ではなくて、言い換えれば「潜在能力開発された状態」が勝義諦の世界なんです。 私も経験したことがあるんですが、意識が覚醒していて、「今、此処の自分」を強烈に感じていて、とても明晰な状態なんだけど、「想う」というフィルターを外したような感覚だけの世界が広がるんです。子どもの頃に戻ったような感覚世界といえるかも知れません。みんなの喋っていることもわかるんだけど、別に心にひっかっからない。般若心経の「心無掛礙」みたいな感覚に成ってしまうんです。 だから、禅宗では、先生が生徒の前に蜜柑を出して、「これはなんだ?」と質問するんです。 「え? それって蜜柑でしょ?」と、普通に答えると怒られるんです。 この問答の正解は無いんですが、潜在能力が活性化されてくると、独特の回答をするようになってしまうんです。 こちらの一番下の「最も人気の高い熱烈問答1」(だったと想います)でも聴く事ができます http://6.real-sound.net/~shorinkutu/ で、何も、こういう変性意識状態は仏教の専売特許ではなく、気功法でも獲得できますし、合気道、武道の世界、心理療法でも獲得できることだと想います。 でも、仏教の場合は、この勝義諦の世界を「心、心所、色、涅槃」と4つに分類し、そこからさらに分類していくんです。「もう、これ以上ない」というところまで、潜在能力が開発された眼から世界を観じていくので、その修行法も教理教学も体系化されているんです。だって、仏教の最終目標は「解脱」という途方も無いところに設定されているわけですから、生半可ではないんです。 ですから、どうしても導師が必要なんです。 坐禅の世界でも師匠を探すのに3年かけろといわれるくらいで、とても大切なんです。 でも、師匠と弟子の会話は、あくまでも「言語」という世俗諦に頼るしかないんです。 世俗諦を駆使しながら、勝義諦に導いていくんです。 だから仏教には喩話が、やたらと多いんです。 逆にいうと、喩話でしか表現できないからなんです。 >>世俗諦によらないと勝義諦を得られないとも これは、そのような意味です。 だから、まるで観る眼を持っていない、一般人の我々が、経典等を読んでも、世俗諦でしか判断できないので、間違った解釈になってしまう可能性が高いんです。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.4

ご質問の趣旨とあっているかわからないのですが「世俗諦」と「勝義諦」という分け方はあります。 世俗諦というのは、世俗の一般的な通念というか、普通の認識の世界です。 勝義諦というのは、究極の真理、本質という観点から観る世界です。 ですから勝義諦というのは言葉にならない世界観(FEELの世界)なので、言葉にするときは、世俗諦の表現、論法に頼るしかないんです。 たとえば、プロ野球のアナウンサーと解説者の関係です。 アナウンサーは喋るのは仕事でも野球の経験は無いんです。 解説者は、OBで、野球のことは熟知熟達しているんです。 この二人が野球を中継すると、言語表現は同じ「ピッチャー投げた」「バッター打った」と、するしかなくても、両者の間には埋めるに埋められない「体験」という理解度(解釈度)の差があるんです。 でも、プロ同士が語り合えば、すぐにわかるという世界です。 で、初期仏教の経典にも「六神通(神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通)」という超能力の話は、随所に出てきます。 以下は岩波文庫から本も出てますが、お釈迦さまの下で修行していた男女の比丘たちの残した言葉だといわれているものです。 http://www.j-theravada.net/sakhi/therii-g-2.html http://www.j-theravada.net/sakhi/thera-g-2.html

hakujushi
質問者

お礼

どうもありがとうございます。確かに中論に「勝義諦」と「世俗諦」が出てきます。ただわからないのは、世俗諦によらないと勝義諦を得られないとも書いてあるんです。体験だったら、別に最初から言葉がなくても学ぶことができるのではないでしょうか。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

金魚鉢の中の金魚は、金魚鉢の中の生存論理がすべてですね。たまに金魚鉢から飛び出て金魚鉢の外の世界があることを知る金魚もありますが、生存はできないですね。例え、生きて再度金魚鉢に戻って他の金魚に外の世界を説いても笑われるだけでしょうね。同じことが宗教の世界でもあるのですね。3次元世界をこの世とすると、4次元以降のあの世の論理は、3次元世界では夢物語でしょう。実際に飛び出た金魚のように死んでみないとわからないということですね。でも生きながら別の世界を知る人もいるわけですね。そこでは、この世とあの世を含めた論理も存在するわけです。人間はこの世に生まれると必ず死にます。そこで、この世の論理も大切だが、あの世とこの世の総合論理を知らないのはまずいということで、それを知りえた方が面々と伝えていくことを神秘主義というのでしょうね。神秘主義というぐらいですから知りすぎても困ることもあるのでしょうね。それはこの世の存在理由にかかるものでしょうね。答えを知りえた試験官が答えを教えてしまっては、個々の試験にならない。というのが仏教でいう神秘主義ですね。一般的なあの世とこの世の論理は真理といいますね。これも神秘主義の一部ではあるが公にしてよいということですね。

hakujushi
質問者

お礼

ありがとうございました。 ただ、できれば、あの世、四次元などの言葉がないほうがありがたいのですが。

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.2

まず根本的な事ですが、神秘主義と両立しないのは唯物論や論理主義であって、論理ではありません。論理というものは論理を以ては理解できないもの、論理を以ては感得できないものの存在を否定するわけではないからです。 ヴィトゲンシュタインは「論理哲学論考」の中で「語り得ないものについては人は沈黙せねばならない」と言っています。これは語り得ないものがあるということを否定しているのではなく、語り得ないものは、つまり神秘的なものは論理の対象ではない、と言っているだけです。 仏教で言う不立文字という考えと通じるものがありますね。 で、ヴィトゲンシュタインはその語り得ないものについては考えるのをやめて、語り得るものを対象として考えようというものです。 これに対し、竜樹の言っていることは論理が無意味である、ということではなく、まさにこの論理を以て到達できない神秘の部分にこそ、最も重要なものがある、と考えている、という点が論理主義との大きな違いです。しかしこれは論理の有用性や価値を否定しているのではありません。そうではなくまさに論理「だけ」では無理だよ、と言っているだけです。

hakujushi
質問者

お礼

ありがとうございます。論理で到達できない神秘に真理がある、というのはわかる気がします。ただ、竜樹は、そういう言葉を超えた真理には言葉によってしか到達できない、とも書いているので、もちろん単純な神秘主義ではないですし、論理一辺倒も違うんです。そこのところがよく理解できません。

  • 2199
  • ベストアンサー率14% (74/524)
回答No.1

悟りに至る道のりの中には神秘主義的なものもあれば論理主義的なものあるということではないでしょうか。ただ、最終的に拈華微笑が尊ばれるのかもしれませんね。

hakujushi
質問者

お礼

ありがとうございます。 竜樹という同じ人間が、同時に論理主義的でもあるし神秘主義的でもあるのでわからなくなってしまっています。

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