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存在と非存在

存在と非存在 どちらが優位であると言えますか?

質問者が選んだベストアンサー

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noname#117377
noname#117377
回答No.12

前書きー私はシロウトです。質問者様の投稿文に沿う回答は、多分できかねると思います。でも素人は素人なりに頑張って考えました。できれば最後までお読み下さい。 ざっと、以下の質問者側と回答者側のやり取りを拝見しましたが、どうも、このレベルぐらいの話になると「言葉の繊細な概念の違い」が大きく影響するみたいですね。例えば「優位」という言葉も、私は成績と、運動会と、紅白歌合戦にしか使ったことがありません。「優位」とは事実のみの言葉なのか、そこに精神的なものが関係するのか、やはり人それぞれ違ってくると思います。成績や紅白歌合戦にココロがないわけがありません。でも、哲学上は「事実」だけなんでしょうね。そこで私の回答を申しますと、私は、存在と非存在が両立し、片方だけでの成立はあり得ないと思います。我々が仮に「存在する」方に入っているとすれば、「非存在」は我々には見ることも知ることもできません。なぜなら、「存在」(の中の世界)とは程度ですから。少し前に考えていたんですが、我々が「存在する」ことを「プラス」だとしたら、「非存在」とは「マイナス」か、「ゼロ」かという問題。私の結論は、「非存在」はゼロでもありマイナスでもある、同時にゼロでもマイナスでもないとすると「存在」はプラスではない。当然のことですが、そういう問題ではないということは分かるんですが、果たして「存在」の反対が「非存在」か、そこでの「反対」という概念そのものが「程度」か否か、それが分からなかったんです。でもここから察するに、「存在」「非存在」その中での世界は程度であり(「非存在」の 中の世界が程度なのかは私にはまだ分かりませんが)、その二つの関係は程度ではない。すなわち、世の中に絶対といえることがあるとすれば、それは「存在と非存在が両立していること」ではないでしょうか。いやはや、質問者様の投稿文の趣旨と、大分ズレてきたような…。長くなってすみませんでした。

noname#15641
質問者

お礼

いえ、いえ、投稿していただきたいへんうれしく思います。 「存在」についての思惟が人間にとって最も根源的な思惟であると私は思います。 故に応えにくいこの質問に真面目に投稿していただいたことに深く感謝いたします。 ところで、あるものを別のもの、つまり言葉という曖昧なもので断定しようとすること自体に非常な困難がつきまとってきます。 対話するにもある程度の共通認識が必要とならざるを得ないということですが、唯一無二のパースペクティブなどは有りえないのでいかし方の無いところだと思います。 それはさておき、 論理学の「1、0」の世界の存在論的な意味や、東洋的な純粋無つまり無の優位といったご意見 等も是非お伺いしたいところなんです。 >世の中に絶対といえることがあるとすれば、それは「存在と非存在が両立していること」ではないでしょうか? 存在と非存在を止揚しようとする思想だと思います。ややこしく言うと絶対的な絶対者つまり普遍的絶対者の思想いうことになるかと思います。 たいへん貴重なご意見ありがとうございます。 「存在」というものについて皆様がどうお考えになっておられるのかお聞きしたいというのがこの質問の意義ですのでまたどんどんとご意見をお寄せいただければ幸いです。

その他の回答 (20)

noname#80187
noname#80187
回答No.10

No5のshoujin24tです。 ただ事実として在るというのであれば、それは現実存在つまり「存在者」ということであり、「存在そのもの」ではありません。 この場合事実としての無いは存在者の否定ということであり、存在者が優位に立つと言うことになります。 mineosanさんの考えでは、どっちかを基準にして否定とするなら、基準とする方を優位と考える。 つまり、存在を基準とすれば、非存在は否定となり、存在が優位となる。 非存在が基準となれば存在は否定になり、非存在が優位となる。 この考え方をするなら、どっちを基準とするか、どっちが先に生まれた言葉なのかで決まるのでは? 私はどっちが先に生まれた言葉なのかも、考えも知りませんし、考える時は、絶対こっちを基準にするというもしません。故に評価できないのです。

noname#15641
質問者

お礼

否定とは何かの否定であるということです。 その何かを先に肯定しない限り否定は意味をなさないということです。 私の質問はどちらに優位を与えるか、つまりどちらがより根源的であり、先立つかと言うことです。

noname#15641
質問者

補足

ないものをあるように見せかけているだけなのであまり深く考えないでください。 ストレス解消の方向でお願いいたします。

  • kobarero
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回答No.9

#6です。 回答とは直接関係ないのですが、mineosanの質問が興味深く、あれこれ考えているうちに、妄想が浮かびましたので書かせて頂きたいと思います。 トマス・アクィナスは、「存在」は無限、かつ、無限定だから、「存在」=「神」であり、人間は「神」が作った「存在者」だから、有限、かつ、限定的なのだと考えていたようです。しかし、実際には、「神」は無限定どころか、「神とは○○だ」とか、「神とは△△だ」とか、やたらと限定を受けているように思います。そう考えると、「神」は「存在」ではなく、実は、偉大なる「非存在」ではないかと思えてきました。 勝手な妄想、失礼しました。

noname#15641
質問者

お礼

いえ、いえ、とんでもありません。 質問自体妄想ですから。 質問者は勝手に価値を見出しますので。 どんどんと回答をお寄せいただければ幸いです。 「存在」は最高普遍概念であるとの主張ですね。 あるものはある、あらぬものはあらぬ、正に神は非存在なぞ含まぬ絶対的存在ということになります。究極の不動の動者という。 無を持たぬということは無限であり、神は無責任ということになりますね。 神においては、存在は同時に本質であり本質が存在つまり存在そのものですから何ものにも規定されることはないということになります。 限定を受ければそれは有限ということになり、無を含んだ不完全な存在になろうかと思います。 また暇がありましたら宜しくお願い申し上げます。

  • kobarero
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回答No.8

#6です。 実は、ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」のイメージで考えました。 この映画では、非存在の可能性が、現実存在以上の存在感をもたらしていました。もし、非存在がその可能性をやめて現実化してしまったとすると、この映画の存在価値がなくなります。そういう意味で、非存在こそがこの映画の生命ですが、その非存在が、十分に存在感を持つためには、それと対立する現実存在あってこそですから、非存在と存在は対立しつつ昇華するといった感じです。

noname#15641
質問者

お礼

いやあ実は「北北西に進路を取れ」は見てないんです。 「非存在の可能性」とは偶然性ということでしょうか。 可能的経験に与えられうるという意味においては、まさしく未確認飛行物体と同じですね。確認されて現実存在となってしまっては未確認としての価値を失ってしまう。我々の知覚を統制するところに意義がある。 いつも面白いご意見ありがとうございます!!

noname#15238
noname#15238
回答No.7

認識論的な存在論と言う訳の解らない回答になりますが。 当然、物理学上の存在の確率については、触れられません。 まず、論理学の世界でも 「否定肯定並説位説」「肯定優位説」「否定優位説」など諸説あり 結論はわからないようです。 有る物が存在するとは、空間における、その物の外延と内包を肯定するか、 或は、その空間における、他の一切の物の否定か?なかなか難しい問題ですが。 前の方も回答しているように、ゲシュタルト的な「図」と「地」の関係かも、 存在が「図」で、非存在は「地」、ただし、この「図」と「地」の関係は可逆的。 この場合、存在も非存在も同時に又は対を成して認識されるわけで、 前後関係は無いと考えるのが妥当のような気がしますが、如何でしょう。 ただ、一定空間に同じ時間で、複数の主体・複数の認識を考えるのは理論的に誤ってますね。 つまり、同時に「図」と「地」を認識するのは、理論的には誤りでしょう。 そうなると、認識は「差異」に集約されるのか、疑問は尽きませんね。 ところで、物理学上の何百分の一秒でしたか、 「一瞬存在する粒子」の存在と非存在ですと、お手上げです。

noname#15641
質問者

補足

認識論的に言えば全て現象(phainomenon)として在るものは「在る」ということであり、実体は「在る」とも「無い」ともいえないということになるかと思います。 図と地は現象のみ存在するという主張であって、その現象は相互依存(故に無いは無い)によって存在するという空の思想とまったく同一であると思います。 論理的な肯定や存在命題の「~がある」と存在論の存在との意味関係をお聞きしたいところです。

  • kobarero
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回答No.6

非存在は可能性において優位であり、存在は実現性において優位である。  といった感じです。

noname#15641
質問者

お礼

「実現不可能で無い」つまり現実存在としての存在は非存在に対立するものと考えますが、趣旨に合っていますでしょうか?

noname#80187
noname#80187
回答No.5

ギリシャ哲学とか全然知りませんので、回答にもならない回答かもしれませんが、回答したいので回答します。 存在と非存在は事実です。 事実に優位とかつけるのは、人の価値観によるものでしょう。どんな鍛錬したところで、人は自分の価値観で物事を評価するのものです。 というわけで、何が存在して、何が存在しないのかによって自分がする評価は違いうので、存在と非存在だけで優位や劣位はありません。中間ではなくて、評価できないです。

noname#15641
質問者

お礼

いえ、いえ、とんでもありません。 ご回答いただきありがとうございます。 ただ事実として在るというのであれば、それは現実存在つまり「存在者」ということであり、「存在そのもの」ではありません。 この場合事実としての無いは存在者の否定ということであり、存在者が優位に立つと言うことになります。 「何が」と規定すれば存在は存在者になってしまいます。

回答No.4

漢字の通りです。 存在がなければ、非存在という概念は生まれません。

noname#15641
質問者

お礼

私も存在が非存在に先立つと思うのですが、 老子や西田幾多郎の絶対無の自己限定といった思想が 立ちはだかってきます。 新年早々貴重なご意見ありがとうございました。 またよろしくお願い申し上げます。

noname#15641
質問者

補足

基本的なことですが言語表現に関しては、存在は有であり非存在は無ということです。論理的には、肯定と否定です。

  • russy1
  • ベストアンサー率11% (20/178)
回答No.3

両者は図と地の関係にあるのではないですか。黒白の同心円を描いた時には両者が同じもののようにも思えます。

noname#15641
質問者

お礼

正に#1と同様、空という観念の世界ですね。 あらゆる現象は相互依存関係にあるという思想だと思います。 実体は無い、すなわち相対者を含んだ普遍的絶対者という概念であると思います。 新年早々貴重なご意見ありがとうございました。

  • bo-suke
  • ベストアンサー率23% (58/242)
回答No.2

どの存在と非存在の話しをしているか僕には判断しかねますが、もしあることないことそのものの話をしているなら、どちらも優位とは言えないと思います。存在の立場から考えれば非存在は「存在しない」が故に劣等と考えられます。非存在の立場から考えれば、存在は「存在してしまっている」が故に劣等と考えられます。したがってここに絶対的な優越を付けることはできません。 例えば、「言葉にして表現して」と言われる時非存在は存在に劣等しています。逆に「大事なことは目には見えないんだよ」と諭される時、今度は逆に存在は非存在に劣等しています。 ではどちらのほうが劣等する回数が多いか調べればいいと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、状況に応じて優劣するものですので、片方だけを優等だとして贔屓すればもう片方が嫉妬して警告を発します。例えば、「目に見えないことが大事」と言うことをあまりに重視しすぎれば、「言葉に出さなくてもわかってほしい」と言う甘えにそれはつながります。逆に「言葉に出して表現すべき」と言う考えをあまりに持ち出しすぎれば、「喋らない人間は居ないも同然」という独善者になりかねません。 それに人間は不完全な生き物なのでどちらが劣等する回数が多いかきちんと数える方法を完全に解明することは不可能でしょう。 この存在と非存在の戦いは古代から決着がついておらず、またおそらく未来永劫決着はつかないものです。これは直感的に言っている事ですから、もしかしたらひょっとして解決するかもしれないともいえませんが、まずありえないでしょう。 しかしそれは逆に言えば、われわれが可能なのは両方を大事にしてやると言うことがわかったということでもあります。われわれは生きている限りその存在と非存在のバランスを考えてやらなければいけないし、逆に言えばそれが任務でもあり、生きがいでもあると言うことです。 言葉にしないとわからないようなら、気分を変えて出してやる必要があります。逆にいつも気にしてない、言葉にしていない何かに一度注意を変更すべき時もあるでしょう。 これをさらに裏返していえば、優位とするのはどっちでもいいということでもあります。人間はどうしても完全なバランスをとることは不可能ですから、どちらか好きなほうを重視してもう片方をたまに見つめてやると言うことをするのが普通のあり方でしょうし、またそのほうが人間らしい(かっこいいと言える時もあるかもしれません)とも言えるでしょう。 いろいろおせっかいも焼きましたが、とりあえず質問に文字面だけ答えるなら「どちらともいえない」という非常にツマラン答えになります。しかし当たり前のことだけを言うのが哲学であるべきでしょうから、当然の答えともいえます。何よりも一番大事なのは存在と非存在と言う名前が書いてある箱を開いて、中身を調べてみることでしょう。 ちなみに私は非存在に最近こってますが。無いことというのはなかなか皆さん気づかないので、自分が気づくと得した気分になります。 私からは以上です。

noname#15641
質問者

お礼

あるものはある、あらぬものはあらぬ。 パルメニデスの一元論では非存在は文字通り非存在で本質的な意味を持ち得ないということですが、 論理的に言えば対等な概念ということになるかと思います。 (二値の形式論理学では二重否定つまり、否定の否定、は肯定となるので否定は肯定に優位であるともいえますが。) 最後の三行がとても重要ですね。 すなわち非存在は自己の存在を明らかに自覚させてくれる有意義なものだという思想ですね。 ただしそれは、存在を明確にするための契機になるものであり、やはり存在が優位と言うことを現すだろうと思います。 新年早々、素晴らしいご回答をいただきたいへん感謝しております。 誠にありがとうございました。

  • enigma88
  • ベストアンサー率10% (66/611)
回答No.1

紙の表面と裏面は別のもののように見えますが、見る方向によって違って見えるだけであって、実態は同じであるように、存在と非存在も実態は同じものです。 したがって、優劣は存在しません。 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色ということです。

noname#15641
質問者

お礼

なるほど、中道の概念ですね。 自身を持って自己の主張をするということはたいへん素晴らしいことだと思います。 ご回答いただき誠にありがとうございました。 心よりお礼申し上げます。

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