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人と誠実に会話する

人が誠実に会話する時、そのときの言葉ってどんな言葉なんでしょうか? 誠実に会話しても哲学はなくならないと思います。 人と誠実に話するとどんな感じなんでしょう。 やっぱりその人の地とか、そのときの周りの雰囲気とかがでるんですよね? 人が誠実に生きるとき、人と人の会話はどのような言葉で交わされるんでしょうか? 実感のある言葉ってどんなことばなんでしょう。 何をいってるかわかりにくいですが、ご意見いただけるとありがたいです。 なんか、さみしい質問ですいません、。

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  • toshi-boo
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.2

人の本質というものは誠実な態度をとらなくても表れるものですが、「誠実な態度」には特に、その人の良心が表れやすいかもしれません。 つまり、自分の良心に基づいて、経験や認識、直感、予想などを駆使しつつ、自分が相手の抱えている問題や疑問、あるいは相手の存在そのものをよりよい方向へと導こうとする行為ではないでしょうか。 ここで、必要となるのは豊かな経験や納得できるだけ論理的展開をする力とコミュニケーション能力、そして人望―ここでいう人望とは「どれだけ人、もしくは相手に当てにされているか」ということ―だと思います。 特に重要なのはコミニュケ力と人望でしょう。 人間の対話は言葉の交流だけではありません。スポーツや共同作業も立派な対話です。会食や飲み会などに参加することそのものさえも、人間同士の対話の一形態ではないでしょうか。 誠実な態度や実感のある言葉は、結局のところ、言語、身体、知覚などをフルに活用した人間関係の中ではじめて作られるものだと思います。 ちょっとかっこいい言葉で言えば、人間は人間の間での実践的な関係の中で形成される…のかもしれません。 誠実さについてもう少し勉強したいのでしたら、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著・岩波文庫)を、人間関係については『学問のすゝめ』の第17編(人望論)を読んでみてはいかがでしょうか。

caballero
質問者

お礼

貴重なアドバイスありがとうございます! >人の本質というものは誠実な態度をとらなくても表れるものですが、 なるほどです。それで本質がわかるというあなたは誠実な方だと思いました。 誠実にみるということ、誠実をみるということ、それでこそ本質に帰れるものと思います。 >誠実な態度や実感のある言葉は、結局のところ、言語、身体、知覚などをフルに活用した人間関係の中ではじめて作られるものだと思います。 ちょっとかっこいい言葉で言えば、人間は人間の間での実践的な関係の中で形成される…のかもしれません。  誠実な態度や実感のある言葉は、当人が感じる事なしには、共感はないと思います。共感、これが誠実な人の会話なのではないかと、toshi-booさんのご助言を読んでいて思いました。それは、おっしゃるように、会話ももちろんですが、実践的な関係の中で、存在するものだと思います。  ご助言参考にさせていただきました!

その他の回答 (6)

  • ebinamori
  • ベストアンサー率21% (96/439)
回答No.7

この質問は哲学とは関係なさそうなので主観で答えさせてもらいます。 まず、人が誠実に会話するときと言うのはつまりはうそ偽りなく会話をするということですよね。 ふつうに考えてそんなもんないんじゃないかなんて思ってしまいます。 私は常々絶対に嘘の付かない会話なんてものをしてみたいものです。 それは安心でありかつとてつもなく怖い会話なのではないでしょうか 誠実の中には思いやりも入った正直な会話と言うことなのかもしれませんが 正直と言うことに目線を置くとそうなるのではないでしょうか。

caballero
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます! >かつとてつもなく怖い会話なのではないでしょうか  何故怖いのでしょう?それは、真実の姿をあらわす事で、今まで自分が不誠実で、さらに、何の意味もないことをしていたと知るからだと思います。厳しい事を言っているようですが、実に厳しい状態に、少なくとも僕はあります。多くの人はそうです。しかし、その事実を知り、誠実に生きるのと、自分達が不誠実とわかって、不誠実のまま生きて、死ぬのと、どちらが恐ろしいかといえば、不誠実のまま生きて死ぬ事の方がずっと恐ろしいと思います。なぜなら、それは意味のないものであり、実に存在しない者として生きることを指しています。生きることに意味などないのだ、という意見は、間違いです。不誠実に生きることに意味はないのです。あなたの生は嘘だったと、言われてみれば、それほどにむなしいことはありません。でも、誠実に生きることは意味をなします。なぜなら、不誠実は嘘であり、誠実は真実であるからです。不誠実の数は数多あり、誠実はただあるからです。誠実に数はなく、ただあるからです。 >私は常々絶対に嘘の付かない会話なんてものをしてみたいものです。 僕もそうです。 しかし、私欲のまま会話する、私欲のまま相手に接する、これは誠実でもなんでもないと思います。むしろ嘘です。何故なら、私欲とは数多くあるもので、今日とあしたとでは違う者になってしまうからです。私欲を丸出しにして見せて、「これがホントの僕なんだー♪」なんて言おうものなら、恐ろしく勘違いをしています。何故なら、今日と明日とではその人は別人だからです。明日まで行かなくとも、次の瞬間には別人です。その人に「今」は存在しません。時と共に流れていないからです。むしろ時が、自分に対して流れていると思っているからです。本当には、時が去るということはないのではないでしょうか。つまり、その人は、生きていると思っても、実には生きてないのです。 誠実な人の会話で、こんな話になりましたが、誠実な人の会話が、ebinamoriさんのアドバイスを読んで、ずいぶん考えることが出来ました。ここで、やけっぱちの勇気じゃ誠実にはなれないって思いました。崖っぷちの勇気が必要でしょうか。 しかし、勇気の中にいるものは、それを自覚しにくいものだと思います。彼らにとって、それは当然の行為だからです。ためらいがないのはそのためで、それが勇気ある証拠でしょう。だから、当人にしたら、勇気なんてものはないのかもしれません。それに対し恐怖するのは僕らだけかもしれません。

caballero
質問者

補足

ebinamoriさん、ここに、皆さんへの報告、のようなものをしたいと思います。お許しください。  ついこないだ実感したんですが、自分に中途半端に嘘があると、誠実な部分も中途半端に伝わってしまうようです。やっぱ気持ちは一途ですね。一途でないと、相手に到達するまでにいろんなものに化けてしまうのです。自分から出る途中でも、相手の心に達する途中でも、。多く悩み、展望をもつと、実感の回復?を導くようです。しかし、迷いあるまま発すると、まさに迷いが伝わるんですね。しかも、相手に迷いがあるともうたいへんです。迷って迷って、原形とどめているんでしょうか?っていう気持ちも起こります。だから、誠実な人の会話は、じつに、迷いがないわけです。言葉はたしかに迷いの温床です。しかし、迷いのない心、誠実な人が発する言葉は、本当に、意味をなすようです。置き換えのきかない言葉になるようです。それは、言葉だけではありませんが、まさに実感をもつ言葉のようです。それは「ある」のです。    みなさんのおかげで、そのような言葉に近づけた事を感謝しています。  この質問はもう少し開けておきたいと思います。

  • cse_ri
  • ベストアンサー率29% (74/253)
回答No.6

No.5の返答についてのコメントです。 哲学からは離れ主観的な意見となりますが、私のつたない人生経験上 まず自分自身が誠実な人間、あるいは誠実であろうとする人間にならないと 他人の誠実さはわかりません。 これはcaballeroさんの  >自分が誠実でなかったら、相手の誠実などわかるわけがないと思うのです。  >いろんな偏見や欲が付随した人間に、誠のなにが判断つくのか?という  >ことです。 という意見にあるようにです。自分が誠実でないと人の誠実さはわかりませんし、 自分に偏見や私欲がこびりついているようでは、他人の偏見や私欲を見抜くこと も難しいからです。 また、  >追って得れるものと、追っても得れないものがあるとするなら、  >誠実とは、まさに、追っても得れないものではないでしょうか? とありますが、誠実さを100%身に付けるとは、たしかに非常に困難です。 しかし、努力次第で誠実な人間に近づくことはできます。 その過程で人に騙されて涙を流すような苦労も必要でしょう。しかし、 それを乗り越えてこそ、人は誠実さに近づくことができます。 そして苦労して誠実さを身に付けてこそ、人の誠実・不誠実・みせかけの 誠実を見抜く眼力も身につくというものです。 哲学というより人生論になってしまいました。 私が誠実な人間であろうと努力する過程で非常に参考になったのが、 前回の発言で述べた「儒教」です。 いわゆる四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)は、解説本が中心 でしたが繰り返し読み、その中に非常に共感するものを覚えました。

caballero
質問者

お礼

こんにちは!cse_riさん、ご回答ありがとうございます。 やはり、謙虚な姿勢というのはすがすがしいですよね。 儒教って孔子が始祖のですね。cse_riさんが儒教に共感なさったのも、その謙虚さがあったからと思います。 >しかし、努力次第で誠実な人間に近づくことはできます。 例えば、人にだまされて、傷ついて、次に見た人には、「この人は誠実か?この人は嘘をついていないか?」と考えれ、慎重さや経験から、鍛えられていくというのが適切かどうかわかりませんが、強くなっていくと思います。  ただ、こういう場合もあります。「この人の言っていることは、どうでもいいことか?それとも何か意味のあることをいっているのか?」実は、この意味のあることというのが、誠実に関わっているのでないのかと思います。それは、誰にとって意味があるのかとか、そっちでは意味があるけど、僕には意味はない、とかではなく、つまり、実に意味がある。もちろん誰にとってもですが、要点は、それは、誰によらずとも意味のあることです。ドコに限らず意味のあることなのではないか?と、いうことです。 >その過程で人に騙されて涙を流すような苦労も必要でしょう。しかし、 それを乗り越えてこそ、人は誠実さに近づくことができます。  まさに、孔子の一言を、cse_riさんのおっしゃっている事に感じます。 しかし、cse_riさんも感じられているかもしれませんが、僕らは、このような過程を通るたびに、あまりに傷ついてしまいます。その道は厳しく、茨の道で、苦行というにふさわしい。しかも、詐欺師のような者は、例えそのものやりきっても、又、次の者が来ます。絶え間なく、僕らと共にいるのです。前の引用ですが、逃げて、逃げ切れることと、逃げても逃げ切れないものがあれば、不誠実というのは、逃げても逃げ切れないものなのではないでしょうか?つまり、僕らが、誠実をめざして格闘していたのは、実は、本当に、まさに、知らないうちに、逃げていたのではないでしょうか?追い立てる者は、偏見や私欲だけではありません。執着心や、憎しみ、嫉妬、ヒガミ。諸々の悪に、おいたてられ、茨の道に逃げ込み、そして傷ついてしまっているのではないでしょうか?僕にはこのような疑念が付きまとっています。  しかし、謙虚な姿勢というのは、いつまでも味方でいてくれます。そのように傷ついても、謙虚さというのは常に励ましてくれます。今、謙虚に、自分のやられている実状を見直すこともまた、不誠実との闘争に、終始をうつきっかけになるのかもしれません。 >哲学というより人生論になってしまいました。 私が誠実な人間であろうと努力する過程で非常に参考になったのが、 前回の発言で述べた「儒教」です。  生なくして哲学などありもしませんよね。僕も、哲学カテゴリで質問してしまいましたが、哲学が、苦悩のある人間を象徴しているように思ったので、そうさせて頂きました。僕にも、儒教にあるような謙虚さが身に付くといいですね。 ここに、ある方がGOO!に引用された言葉を、さらに引用します。笑)僕は、GOOでこれを知り、この言葉に安心し、ずいぶん励まされています。  「 生きよ 死せよ 休息せよ、汝ら苦悩する雛鳥たちよ    生きよ 死せよ 汝ら見捨てられし魂たちよ 」 僕らは、知っている以上に、ズッと傷ついている事を知らないのかもしれません。 ご回答たいへん参考になりました!ありがとうございます。

  • cse_ri
  • ベストアンサー率29% (74/253)
回答No.5

私は、会話と誠実は必ずしも両立しないと考えています。 理由は、他の方のコメントにもあるかと思いますが、会話の中で 美辞麗句を述べることもできれば、ウソを話すこともあるからです。 誠実さは言葉ではなく、態度や行動に現れるのではないかと私は思います。 態度や行動の中には人との会話も含まれますが、ある人が誠実かどうかを 判断するには会話だけでは不十分で、やはり普段の態度や行動をよく観察 して判断すべきではないでしょうか。 このこと自体は、別に哲学でも何でもありませんが... 哲学というとちょっと外れるかもしれませんが、「誠」について深く追求 してきたのは、儒教ではないかと私は思います。 「論語」や「中庸」を少し読んでみてください。原書に近い本でなくても 解説本やマンガ本レベルでもOKです。あちこちで誠実さの重要性や、誠実 に生きるにはいかにすべきかが随所で懇々と説かれています。

caballero
質問者

お礼

こんにちは!アドバイスありがとうございます! >誠実さは言葉ではなく、態度や行動に現れるのではないかと私は思います。 うーん、難しい所ですね。僕は、ドコにあらわれるとかの問題でないと思います。例えば、なにかのそぶりを見せたり、浮気をしてるフリをするとか、嘘ついてないフリをするとか、善人ぶるとか、言葉だけでなくそれは、普段の態度や行動でもおなじだと思います。ネコをかぶるとは、ほんとにそういうことじゃないでしょうか? >ある人が誠実かどうかを判断するには会話だけでは不十分で、やはり普段の態度や行動をよく観察すべき。  もちろんそうかもしれませんが、一期一会などそのような時間はありません。その人の普段をズッと見ていることも出来ないし、見ていた所で誠実かそうでないか、判断材料としては、その人の言葉も、態度も、行動も、同等と思います。とくに、人は、からだでも嘘をつきます。病気だって隠して、元気なフリをします。それは言葉だけではないと思うのです。自分が誠実でなかったら、相手の誠実などわかるわけがないと思うのです。 >判断すべきではないでしょうか。  つまり、相手のことをどれだけよく見てるかとか、いうけれど、自分が誠実でなかったら、相手がどうかという判断もままならないのではないのか。だから、誤解すると思うのです。判断をつけようとしてしまう。または判断を迫られる。相手をよく見て判断する。そのような状況が、誠実には遠いのではないか?つまり、誠実さを見るとはどういうことなのか、相手のほんとの姿を見て、ほんとに会話する。その状況と、僕の今の状況は遠いと感じてしまいます。つまり、いろんな偏見や欲が付随した人間に、誠のなにが判断つくのか?ということです。これは、哲学的にも、かなりきびしめの考えです。僕自身、「お前に何がわかるのか?」と、言われているようです。「あーそーだね、僕にはわからんよ」って感じです。しかし、もっともな考えと思います。cse riさんや、多くの回答者との会話ができることをありがたく思っています。  つまり、多くの哲学者がわかろうと頭を悩ましてきましたが、人である部分に、わかることなど何一つとしてないということです。わかったと思っても、所詮それは、「借り物の言葉」に過ぎないのです。    追って得れるものと、追っても得れないものがあるとするなら、誠実とは、まさに、追っても得れないものではないでしょうか?人の求めるべきものは、追っても得れないものではないでしょうか?誠実な会話から少し外れてしまいましたが、cse riさんのご意見、たいへん参考にさせて頂きました。ありがとうございます。

noname#1753
noname#1753
回答No.4

さみしすぎるんだよ!(笑) 哲学というのは正に誠実とイコールなものなのだ。 つまり真の誠実さは孤独な自分に向けて問うべきものでしょう。 人との会話でウソが混じるのは仕方ありません。 会話であまりマジな話する機会は少ないし、たいていはその場の雰囲気を楽しくする言葉を探します。 孤独な時間を大切にしてる人は、言葉でなくても体から醸す誠実さが周りに伝わるのではないかな。(オレは半端者だけどね)

caballero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます! >孤独な時間を大切にしてる人は、言葉でなくても体から醸す誠実さが周りに伝わるのではないかな。 「楽しくないの?」「別に、。楽しいよ。」ってなった時に、うわ~、楽しくなさそー。というのはよくわかります。楽しくなさそーに見えるんだったら、なぜそれをその人に聞くのでしょうね。君がたのしくなさそーに見えたんだったらその時はそうなのよ、!それでも「楽しいよ。」っていうくだらなさ、「楽しくないの?」といってくれるやさしさ。でも、「他のところいこっか?」ってならないんですよね。みんながいるから、。その束縛感、さびしさ感、。人のこと考えなさいよって、結局、自分の事だろ?って思います。(この考えは自分勝手な者を支持しているわけではありません。)  人の内面からあふれるものに対して、なんか見てみぬフリ的な、隠れてこそこそ的な姿勢を感じたりします。結局、家族や友達や、みんなに支えられているというのは、じつは全然支えられてないって事です。人間不信って言う事ではないですが、そこに、社会的な機構に自分を見出すということのむなしさを感じます。自然にしてもおなじです。人間は自然の一部なんだよって、だから?っていうことです。僕の問題じゃないじゃないか。話は飛躍しまくってますが、圧していくと、支えるとかいう問題がなくなる。自分をおしていくと、すべてになってしまうんです。自分がすべてってことじゃないです。ここら辺で自分勝手だ!という印象を感じられたり、。宗教だ!って誤解されたり、。言ってみたいことはこうです。薄っぺらい気持ちでなく、ほんとの内面は外面よりも広い外部(すべて)です。それほど巨大で広いものが、人間個人の中に存在するということです。しかも、それが本来的な世界であるということです。つまり、さらに飛躍して、「生きて行こう!」っていうのは、本来的には、「おいおい、ドコに行くねん!?」ってことです。本来的には、もう行ってるんです。       いつでもどこでも僕のいる場所が世界の果てってことで、始まるのは果てからしか考えられんって、思うんです。そこから始まった世界でしかホントのみんなと逢えません。こんなこと言われたらどう思いますか?哲学的に言うと、世界の果てに世界言語、普遍言語、誠実な人の会話、がみえる。(形はなんでもいいんです。)  なんか、ぶちぶちお礼欄で言ってしまって申し訳ないです。お許しください。(人と話する形で考えるようになったみたいです 笑)また、お気が向けば、なんどでもこの質問に回答していただけるとうれしいです。ご回答参考になりました!

回答No.3

誠実でいようとすると、わたしは以下のことばが増えます。 「わからない」「わたしは・・・だと思う」 「・・・は苦手だ」「・・・はできない、やりたくない」「・・・は大好きだ」。 言葉と気持ちが一致していれば、相手にしっかり視線を向けた話し方になり、 表情や身振りと言葉が一体となった感じの会話になると思います。

caballero
質問者

お礼

>言葉と気持ちが一致していれば、 これですよね!。言葉と気持ちが一致する。気持ちが言葉となって出てくるって事です。人によって、受け取る側によって、言葉の感じ方は違うというけれど、その言葉が誠実な気持ちから(思い込みやゴカイ、偏見、自己主張ではない)出てる、精一杯の言葉なら、、。って思いたい、。  誠実な気持ちが現れる、それは傷ついていればその傷を映し出すが、輝いていれば、輝くようなものを放つ場合もあります。しかし、数え切れない気持ちの数だけ出てくるのではないでしょうか?  僕は、誠実な気持ちというのは、「僕は・・・だ」的なものでないのだと思います。「・・・だ」という形のほうが、誠実を表しているような気がします。(もちろん言葉として現れることは一例にすぎませんが)それは、主観であり客観であり、そのため途中で転んだりしないのだと。  そこに現れる言葉の不思議を感じたいと思います。 mimosa2001さんのご回答、考えることが出来ました。ありがとうございます。

  • shibako74
  • ベストアンサー率18% (163/876)
回答No.1

哲学との関係のお話なんでしょうか?そしたら場違いかもしれませんが… 私は、相手が誠実な人であれば真摯に対応します。自分が真摯に対応して欲しい時はごまかしたりちゃかしたりせず、真剣に自分の考えを述べます。その際に誠実な対応が返ってこない場合は、その人が自分または状況を軽んじているか、深刻な状況に巻き込まれたくないと判断するので、そういう人には深刻な会話はしません。親身になってくれる人との間にのみ、誠実な会話というのは存在すると思います。そして親身になってくれる人は、一度ないし何度か自分の状況を話してみて、判断します。 もし見当違いな回答だったらすいません…

caballero
質問者

お礼

さっそくのご回答、感謝です! そうですよね。相手と自分と、両方誠実じゃないと伝わりません。 >哲学との関係のお話なんでしょうか? いちおう、そうなのですが、。うそつきな言葉とそうでない言葉、あると思うんです。言葉の全部がうそつきだったら、誠実な人は話できないじゃないですか。 >私は、相手が誠実な人であれば真摯に対応します。 いいかたですね。誠実な方にしてみれば、相手が誠実かそうでないかはわかるんだと思います。もちろん、相手の全部がまるごとわかる人なんてすごいですけど、。 ご意見参考になりました!

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