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雑学的な疑問
雑学な疑問が二つあります。もうじき年越しそばの日が来ますが、この起源は何ですか?あと、なんでめでたいときにだるまの目をいれるのですか?そもそもだるまって何ですか?どちらかわかる方教えてください。
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gaikotuchan さん こんにちは。 達磨については重複しますので、「蕎麦」についてお伝えしましょう。 蕎麦を年越しに食する習慣は、それ程古い話ではありません。 年越しに限っていえば、蕎麦を「そば切り」として食べるようになってから、 それも、江戸期になってからの習慣です。 「細く長くを祈念して、大晦日とか節分に食した」江戸期の習慣が、伝承されたものです。 当時は、所謂、節目の都度たべていたようで、「正月、彼岸、土用、冬至、年越し、引っ越し、 棟上げなど」の際の習慣でした。 馴染みの深い「そば切り」について、現存する書き物で検証できる記録を時系列に並べてみま すと、以下のとおりですが、最も古いものは建物にまつわるものでした。 芭蕉の弟子、雲鈴の「塩尻・本山宿」が発祥の地という説がありましたので、これに触 発されて調べてみましたら、「そば切り」の記録がいくつかありました。 「そば切り」の蘊蓄を語る際の参考にでもしてください。 天正 2年(1574年) 木曾街道勝原宿・定勝寺の古文書に、仏殿修復時に馳走 として振る舞われたとの記述から。 慶長19年(1614年) 近江の国・多賀大社の社僧慈性が残した「慈性日記」江 戸・常明寺(注1)にて食した記述から。 寛永13年(1636年) 贄川宿・尾張公の共をしたいた堀杏庵が残した「中山日 記」の記述から。 寛永20年(1643年) 「料理物語」の中で、そば切りの作り方を紹介(注2) 正保 2年(1645年) 俳諧書「毛吹草」により信濃の國の名物として「そば切 り」が記述されている。 寛文10年(1670年) 本山宿に、大名が宿泊の折りに献上した献立から。 元禄10年(1684年) 東海道分間絵図・神奈川宿ほかに「そば切り有」の記載 宝永 3年(1706年) 「本朝文選」(後に、「風俗文選」)俳文集に、芭蕉の弟 子・雲鈴が「そば切り・・・本山宿から」という、例の 本山発祥説となってしまった話し。 何故か蕎麦の話しは信州に多いのですが、他にも、島根県や高知県にも「そば切り」の 記録があります。蕎麦が大量に栽培されたのは養老6年(722年)元正天皇の御代に、 飢饉対策として栽培が奨励されたという記録が「続日本記」にあります。 今様な麺の形が出来るまでには、さらに歴史を下って定勝寺の記録に現れるまで長い時 間をかけなければなりませんでした。 註1) 江戸・常明寺に関しては記録がなく、どこにあったかなど詳細は不明です。 註2) わが国初の本格的料理書と言われますが、著者等は不明とされます。 これは、以前ブログにも書いたものを再掲しました。
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- ismael
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そば ■そば 蕎麦 ■語源と民俗■ ソバの語源は、ソバの果実に三つの稜(りょう)があり、ムギと対比するとその点が大きく異なるので、古くはソバムギとよばれた(『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)』『本草和名(ほんぞうわみょう)』)。命名からして、その渡来はムギより遅い。徳島県の祖谷(いや)など山間地方では「そば米」がつくられている。ソバの果実を煮て、数日間干し、脱粒した一種の糒(ほしいい)で、ハレの日の雑炊や吸い物などに使われる。そば米は、ソバの粉食やそば切りが普及する前の粒食の痕跡(こんせき)をとどめているとの見解がある。中国原産だが、現存する中国最古の農書『斉民(せいみん)要術』(6世紀)には、蕎麦(そば)が巻頭雑説に取り上げられているにすぎず、本文には記載がない。南北朝時代にはまだ普及していなかったと考えられる。 年越そばの起源にはいくつかの説がある。 月末の晦日(みそか)が夜遅くまで忙しい商家で、夜食にそばを食べた習慣に基づくという説、金箔師(きんぱくし)が金銀細工の際、そば粉を打って伸ばし、飛び散った金銀の粉を吸着させたのにちなみ、金銀が集まる縁起を担いだとか、そば殻を焼いた灰で使い古した器を洗うと長年の汚れがよく落ちることや、胃腸のかすを流すそばの効用から、旧年の穢(けがれ)を落とす、あるいはそばがよく延びるので、年を延ばし幸福にという縁起を込めたなどの諸説である。つごもりそば、運気そば、運そばなどともよぶ。 ■達磨 禅宗の始祖、達磨大師の坐禅(ざぜん)姿をうつした縁起物玩具(がんぐ)。赤塗りで、座におもりをつけ、倒してもすぐ立つようにつくった張り子製の起きあがり物が、全国各地でつくられている。ほかに土焼き、練り物、木製などがあり、種類が多い。 室町時代には、起きあがり達磨の祖型である起きあがり小法師(こぼし)がまずつくられた。張り子製の起きあがり達磨が登場してきたのは、起きあがり小法師玩具が上方(かみがた)から江戸に伝えられてからのちで、享保(きょうほう)年間(1716~36)以降のことらしい。江戸では七福神などの起きあがり人形もつくられたが、達磨の形をしたものがもっとも人気を集めて代表的な作品となり、一般に張り子製の達磨のことを「起きあがり」とよぶようになった。ことに養蚕が盛んな関東地方では、蚕の上簇(あがり)にちなんで、起きあがり達磨が縁起物に求められた。この習俗は現在もみられ、歳末から3月ころには各地で達磨市が開かれ、農家や商家筋の商売繁盛、招福開運の縁起物として、市(いち)でにぎやかに売買されている。 愛知県をまたほぼ境にして、東日本では関東地方を中心に白目のままの目無し達磨、西日本には黒目の鉢巻き達磨が多くみられる。 目無し達磨は、これを求めて祈願をかけ、成就の際に黒目を入れる。現在でも入試合格や当選などの際に行われる。また、達磨の赤衣に模した赤塗りの達磨玩具が、疱瘡除(ほうそうよ)けに病児の枕元(まくらもと)に飾られたりした。疱瘡が赤色を嫌うという俗信からである。種類には、普通の鬚(ひげ)達磨以外に、女達磨、童女型などが、郷土玩具として全国に広く分布している。〈斎藤良輔〉 両方ともスーパーニッポニカ百科事典(C)小学館から引用
そばだけ。 金細工や金箔の職人が、金を掃除するときそば粉を練ったものを使った という話から、金が集まるように、という意味です。
- Sombart
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そばは、単なる駄洒落、もしくは語呂合わせです。 細長いから、長く生きるという願掛けに使われたものです。ある意味、言霊呪術と言えます。 達磨の目を入れるのは、やはり呪術です。 通常、願掛けをしたときに達磨の片目を入れます。で、その願が叶ったときに残りの目を入れます。これは、達磨が残りの目も入れて欲しいと願い、その願いが奇跡を起こすことを期待していることを意味します。つまり、達磨の呪力によって自分の願いを叶えようとする呪術ですね。 もっとも、これは達磨というものが起上り小法師のおもちゃになってから出てきた民間呪術と思われます。 そもそも達磨とは、不空三蔵や恵果を経て空海に至る密教の道統を伝える仏教の行者です。達磨大師とも呼ばれます。達磨本人が行っていた行は座禅ですから、禅宗の祖ともされます。手足が無いのは、面壁三年と言われる三年間座禅をし続けて手足が腐って落ちたという伝説に基づくものです。他にも、少林寺に伝わる少林拳の始祖という伝説もあります。ちなみに、少林寺拳法は日本製の格闘技で崇山少林寺の少林拳とは別物です。 なお、仏教ではダルマという語は「法」を意味する場合もありますから、達磨大師とは混同しないようにして下さい。ここで言う「法」とは法律のことではありません。縁起因縁などの世の中の動きを規定している法則のことで、人が作る法律というよりも、自然法則に近い概念です。