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カトリックがイエスの身体性を譲れないのはなぜ?
カトリックはドケティズム(キリスト仮現説)を敵視し、グノーシス主義を弾圧した。このようにカトリックは、イエスの身体性を堅く信じた。 なぜカトリックはイエスの身体性に固持するのでしょうか?神、子と聖霊はひとつのものの三相であって現象にすぎない。神の子イエスは「幻」ではなく「実体」である。なぜこのように考えるのでしょうか?
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カトリックに限ったことではありません。 現在のプロテスタントも、正教会も、ネストリウス派も、この立場にたっています。 一方、キリストの神性のみを唱えたのは、単性派やボゴミール派、カタリ派、パウロス派などのいわゆる二元論異端宗派です。 このことは、キリスト教成立時より、論争となっていました。 ネストリウス派は、キリストの神性を否定し、単なる人間であったとする宗派で、単性派は、「キリストは神であり人間ではない。 よって十字架で死んだ事は無く、幻を見ただけ」とする宗派です。 ネストリウス派は、現在15万人から30万人程度、単性派は、約4000万人の信者がいます。 二元論異端は、現在ほぼ絶滅しています。 カトリックや、正教会が、三位一体を唱えたのは、キリスト像の礼拝問題からです。 キリスト教においては、偶像崇拝を禁止しています。 神は、見る事ができないので、当然の事です。 しかし、ローマ帝国では、キリスト教が広まる前は、偶像崇拝が、当然の事として行われていました。 そのため、偶像崇拝の禁止は、キリスト教の布教の障害となっていました。 そこで考え出されたのが、神の像ではなく、キリストの像でした。 神の像を造る事は禁止されていても、人間であるキリストの像を造る事は、禁止されていないと考え、キリストの像を造ります。 しかし、人間であるキリストを崇める事は、神への崇敬からすれば、あきらかにおかしな事となります。 そのため、考え出されたのが、三位一体の考えです。 それに対し、ネストリウス派や単性派、二元論諸派は、キリスト像の崇拝を認めません。 特にボゴミール派やカタリ派、パウロス派などの二元論派では、十字架そのものも認めず、破壊してまわりました。 そのため、これら二元論派は、カトリックや正教から、徹底した弾圧を受けました。 ネストリウス派は、当初は弾圧を受けましたが、中心がイスラム圏となったため、キリスト教の手が届かないところにいってしまい、忘れられて、19世紀再発見されます。 単性派の場合、エジプトのコブト教、シリアのヤコブ派も、当初弾圧されましたが、弾圧への反発から、エジプトやシリアにイスラム軍を呼び寄せる事になり、キリスト教会からの弾圧を逃れます。 エチオピア教会とアルメニア教会は、キリスト教諸国と切り離され、イスラムに周囲を包囲される形となり、やはりキリスト教諸国から忘れられた存在となります。 そのため、これら単性派教会は、弾圧を逃れます。 グノーシス主義は、ひとつのまとまった考えではなく、二元論的考え方の一つです。 そのため、ゾロアスター教やマニ教の考え方と、キリスト教的考え方が、混じったものです。 後期のカタリ派や、フス派の中のアダムス派には、グノーシス派的考え方が入っているようです。 ボゴミール派やパウロス派、初期のカタリ派の場合、ギリシャの哲学的二元論の考え方が中心となっています。 グノーシス的考え方には、神と悪魔を逆に考える一派があり、そのため、悪魔崇拝者とみなされ、一般住民の反発をかった事も、弾圧を正当化させる原因となりました。 カタリ派の一部で、悪魔崇拝の動きがあったのかどうかは、不明で、カトリック側の弾圧を正当化するための捏造との考え方もあります。
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- kobarero
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2つの方向から、その根拠を考えることができると思います。 (1)宗教的・神学的根拠 正統派キリスト教の考えは、「イエスは神であり、同時に人間である」です。これは、論理的には矛盾があり、三位一体論を説いたテルテゥリアヌス自身も「不合理なる故に我信ず」と言っています。不合理にも関わらず主張する根拠については、以下のように考えます。 元々、イエスの磔刑の意味は、人間の原罪を贖う(贖罪)ことでした。しかし、もし、イエスが人間ではなく神だとすると、磔刑を受けても、人間としての痛みや苦しみを感じないわけですから、磔刑は茶番になり、贖罪の意味を失ってしまいます。また、もし、イエスが神でなく、人間だとすると、「人間の原罪を許す」というような権限を人間が持てるはずがないという問題が生じます。従って、イエスは神であり、同時に人間でないとうまく説明ができなくなります。 (2)社会的・政治的根拠 これには、2つの背景があります。一つは、キリスト教は、313年にコンスタンティヌス帝により公認されるまで、迫害を受け抹殺される脅威の中で、如何に共同体として生き延びるかという深刻な状況があったこと。また、一つは、キリスト教は一枚岩ではなく、無数の宗派が乱立し、互いに我こそが正統派であると主張し、他宗派を批判、排斥する状況があったことです。このような状況下では、多数乱立するキリスト教宗派の中から、正統派としての権威を確立し、同時に、ローマ帝国の支配下で生き延びる戦略が不可欠でした。その戦略に勝利したのが、結果的にカトリック教会であったということだと思います。 カトリック教会の戦略のコアは、情報独占モデルの構築にあります。すなわち、真理に関する情報流出経路を独占し、異端を排除する体制を築くことです。真理の情報経路を独占するために、イエスの受肉(神である、同時に人間である)が、決定的な意味を持っていました。 カトリックの考える真理の情報の流出経路は、「神--->イエス--->使徒--->正統後継者であるカトリック教会(司教/司祭/助祭)--->一般信徒」です。これは、人が真理の情報を得ようと思ったら、カトリック教会を通して以外に道がないことを意味しています。また、聖書についても、それが、多義性を持ったものであるため、その解釈権は、唯一カトリック教会だけが持ち、その他の人は、その正当な権利/権威がないとされます。 これに対して、異端はどういう考えであったかというと、ピンからキリまであるので、ひとくくりにはできませんが、カトリックから見て、脅威となった代表的な考えに以下の2つがありました。 (1)「イエスは神ではなく、我々と同じ人間であり、我々も精進により、イエスと同じようになれる」 (2)「イエスは神そのものであり、人間ではないので、その死や復活は、現実の事件ではなく、ある種の霊的現象だ」 これらが、何故、脅威かというと、(1)を認めると、カトリック教会を通さずに、だれでも、自分自身の努力で救われることになるからです。実際、ナグ・ハマディ写本の「トマスの福音書」では、我々人間は、神の似姿として作られているので、真理の光が内臓されていて、イエスと同様に真理に到達できると考えています。また、(2)を認めると、イエスとの霊的交流が原理的には、いつでも、誰でも可能であることを暗示することになり、この場合も、カトリック教会の唯一性が失われます。実際、キリスト教グノシス派では、2世紀になっても、キリストとの霊的交流を通して、新しい真理の言説を生産していました。 このような異端の脅威に対して、カトリック教会が、ドケティズム(キリスト仮現説)を敵視し、イエスの受肉を主張する戦略的意味は以下の通りです。 もし、キリスト仮現説に従うと、イエスの霊は、いつでも、人間と交流できることになります。しかし、仮現説を否定して、イエスが神でありながら、受肉し、死に、復活したとすると、その具体的な受肉期間以外は、人間との直接交流はないのだと主張する根拠を正当化できます。すなわち、イエスの生前と復活後の40日間に直接接触した使徒たちだけが、正当な真理の伝承者であることの根拠を与えます。特に、復活後の40日が重要な意味を持ちます。というのは、この40日間で、イエスは、使徒たちが世界に向かって福音を述べ伝えるべきことや、ペテロが、その正当な役割を担うべきであることを述べているからです。もし、キリスト仮現説に従うと、2世紀になってからでも、異端のキリスト教徒が、私も霊の交流を通してイエスから福音の言葉をいただいたと言い出しても、それを否定できなくなります。真理の情報経路と期間をイエスの受肉期間に限定することで、カトリック教会の正当性と権威に根拠を与えることができます。 また、ローマ帝国下で生き延びるという視点から見ると、ローマ帝国自体が不安定な体制に傾きつつあるなかで、コンスタンティヌス帝は、その新しい帝国支配体制として、専制的階層社会体制の強化を進めており、その視点から、カトリック教会の持つ階層的統治方式(司教、司祭、助祭などの一本化された階層構造)に魅力を感じていたと思われます。カトリック教会も、カトリック教会の世界化と異端の排除を目指していたので、ローマ帝国と利害が一致する面が大きかったと思われます。
- mariateresia
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私はカトリック信者です。若いときからの信者でそれ ほど深くは考えなかったけれど、我々の一般信者は、 「イエス」という人物はほんとうにいらした。それは ヨセフスの記録に残っていて、歴史的に事実とみなさ れています。しかしやはり初期キリスト教では、色々 な解釈が生まれ、福音書も沢山出ましたが、今は4つ の福音書のみ聖典とみなされています。 長いこと弾圧され、コンスタンティヌス大帝のとき、 キリスト教が認められて、有名な「ニケアの公会議」 が開かれました。塩野さんの本によると、そのとき まだローマの市民みキリスト教はそんなに多くなっか ったそうです。ただコンスタンティヌス大帝の奥様 は大変な信者で、彼はそれを自分の政治的な道具 に利用しようとした。死ぬ間際には洗礼は授かった そうですが、そこからおおっぴらにキリスト教が広が った。今でも「ニケアの公会議」がなかったらキリスト 教もどうなっていたか分からなかったということで す。 そのときグノーシス派とか他の福音書ははずされた と記憶しています。 やはり我々信者はイエスは実在して、我々のために 十字架に付けられ、その後復活したという事実を信じ てのみ信仰しているのです。 マア弾圧も長かったし、色々の考え方がはびこって 、統一する必要はこの長い2000年の歳月を生き延 びれなかったでしょう。 特にキリストは、マホメッドとかお釈迦様とかエリー トではなく、ごく低層の庶民だったことは事実です。 だからこそ、ペトロだけでは世界宗教にはならなかっ たし、聖パウロの業績があってこそのキリスト教なの です。 聖パウロの書簡は、キリスト死後50年くらいで書い ているので、今の日本の戦後60年を考えても相当 事実だと我々は信じています。 福音書の言葉は大分昔からのことわざが入っていたり 聖書学者が色々研究しています。