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性欲と哲学

若き頃に、性欲にはほんと悩まされました。 ある人に言うと考えすぎだとよく言われたものですが、自分の心の中に自分で言うのもなんですが、尊厳な心と野獣のような心が二つあるようで、意識的には尊厳な心の方に過大な味方をし、野獣の心に対してと言えば、まるですぐ近くにあるのに、意識的に無視しようと必死でした。 野獣の心に全てが支配された時も数多くありましたが、今となってはたいぶ飼い慣らした感じがしています。 年をとるにつれ、野獣の心に対して寛容さが芽生えたような感じで、素直に受け止めることができているという状態でしょうか。 しかし、自分の中でまだ完全に決着はついていません。このまま時が過ぎればどうってことなかった一つのように思うのが常かもしれませんが、私自身それでは納得がいきません。 そこで今となって、新たに考えてみようと思っています。なぜなら、未だに溜まった時は現実だからと、まさに飲食のように処理しているからです。 私自身これでいいとは思っていません。 本当は飲食のように処理するものではないのではないか、人生の娯楽や、いい言葉が思いつきませんが、人間の楽しみだけに終わるものではないのではないのかと思っています。 もちろん生殖のためだという考えだけではない、それ以上の【なにか】があるように感じるというか、そう思いたいところです。 これ以上なにがあるのか!というお叱りの言葉はなしで、性欲=生殖、性欲=娯楽、性欲=楽しみ、性欲=【なにか】という、新しい発想、見方を学びたいというのが今回の質問です。 回答者様が答える際に、私がもう知っているかもしれないと思った回答でもお聞かせください。新しいヒントが得られるかもしれませんので。 では、よろしくお願い致します。

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  • lightgrid
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回答No.12

「性欲には、生殖...以外に何があるか。」とのご質問です。 質問者様は、ご自分の性欲を、自分とは別のものとして、自分と切り離して客観視できています。また、「性欲には、生殖...以外に何があるか。」と、なかなか良い点に気づかれましたね。 以下、人間における性欲の意味を、仏教的、ヨーガ的観点から説明してみます。ただし、この場合の仏教とは、修行方法の書かれている阿含経典(アーガマ)に記されたお釈迦様の仏教のことで、修行方法の書かれていない日本の大乗仏教(法華経、等々の経典(説法師等によって書かれたといわれている)に依拠する)とは関係ありません。 人間は、動物的側面と、霊的側面とを持っています。 動物的側面では、性欲とは、種の保存と繁栄のための欲求です。 すなわち性欲は、第一義的には繁殖のためのものです。人間の生殖行動がいかに繁殖のために合目的に作られているかは、質問者の年齢を考えると、説明するまでもなくご理解いただけるでしょう。また、性欲は、生物学的には、つがい(夫婦)を構成し維持し、子供を含めたファミリを構成し維持するための「原動力」になっています。 この性欲は、いったいどこから来るのでしょうか? 仏教や、ヨーガでは、性欲が、生命エネルギ(クンダリーニ)から発生することを発見しました。そのクンダリーニが、性的・生殖的形態で表れたものが「性欲」です。クンダリーニは、尾骶骨付近で発生しますので、それに最も近い器官である生殖器に強い影響を与えるのだと思います。種の保存の観点からすると、個人個人は遺伝子を伝える媒体ですから、それでよいのだと思います。個体に性欲がないと、生殖活動が行われず、やがて種も滅びることでしょう。 また、性欲が強いということは、クンダリーニのエネルギが多いことを意味しますが、性欲が過剰ですと、人間個人としてはそれをもてあまし、支障をきたすこともあるでしょう。生物学的には、性欲が強いということは、多くの子孫を残す力となるはずでした。しかし、人間は、過去(先祖)の動物社会とは異なる独自の人間社会を形成していますので、過剰な性欲は、人間の社会規範と整合せず、反社会的行動を生じさせる側面を帯びてきました。そこで、その性欲をどのように解消したらよいか(消極的立場)、といった問題が生じるようになったのだと思います。 実は、クンダリーニは、性欲のみならず、人間が生きるための、強く生きるための原動力になっているのです。クンダリーニが、どのような方向で表現されるかは、個人個人の素質、仏教でいうところの個人の因縁によって様々です。 それが、悪い形で現れると、色情の因縁の強い人(男女関係のトラブルが多くそれで苦しむ人)となるでしょう。 世界的歴史的偉業をなした人や英雄といわれている人は、クンダリーニ・エネルギーの強い人で、性欲も強い傾向があります(英雄、色を好む、です)。クンダリーニ・エネルギーが強くても、それを良い方向に昇華・転換できない人は、凡人で終わるのです。 クンダリーニ・エネルギーを良い方向に昇華・転換する(積極的意味)には、強い高い理念と知性を必要とします(必ずしも知識ではありません)。 仏教やヨーガでは、性欲の源泉であるクンダリーニは、実は、様々な器官(チャクラ)に送ることができるのだということを発見しました。仏教やヨーガでは、そのための鍛錬を行います。それが、修行の一部です。 しかし、クンダリーニ・エネルギーを発現しても、霊的に制御された高い理念がなければ、その行き場がなく暴走して、破壊的にさえなります。オウム真理教の松本チヅオはそうだったかもしれませんね。従って、仏教では、霊的世界の理解と、霊的な高い理念を身につけ、徳を積むことから、修行をはじめるのです。 仏教的側面では、「性欲」そのものは、物欲等と同様に、コントロールの対象です。性欲は使われ方によって、良くも使われるし、悪くも使われます。性欲が出てきたら、瞑想し、その性欲を良く観察してください。この性欲は、どこから来るのだろう、と、また、その性欲が良く使われたらどうなるか、悪く使われたらどうなるかを、人の人生に当てはめて、思いめぐらしてください。 クンダリーニ・エネルギーは、創作活動や仕事に昇華・転換できれば、大きな業績を残ししたり、現在の3倍の仕事をすることができ、社会的にも大きな貢献ができ、有意義な人生を送ることができるようになります。 クンダリーニ・エネルギーは、人間の霊性の開発と霊的高まりにとっても、重要な原動力となります。 性欲がでてきたら、その源泉となっている、尾骶骨付近で発生しているクンダリーニ・エネルギーを観察してみましょう。そのクンダリーニ・エネルギーを、背骨に沿って上昇させて、霊性につながる頭頂まで移動させるよう、訓練してください。 この場でのクンダリーニに関するこれ以上の説明は、仏教修行の奥義にもかかわるので差し控えさせていただきます。興味をお持ちでしたら、様々な、チャクラと霊性の開発に関する本を探して研究して下さい。いまさらそのような勉強をしてもしょうがないとお考えになるかもしれませんが、人間は、輪廻転生するのですから、年齢に関係なく、次の人生で生かせます。

manabu3345
質問者

お礼

ありがとうございます! なるほど・・・性欲とは凄いですね! いろいろ教えて頂き感謝します。 これから取り組んでいこうと思っています。 ありがとうございました!!

その他の回答 (11)

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  • ベストアンサー率21% (8/38)
回答No.11

 性欲があるのは素晴らしいことだと思います。だってだからこそ熱く情を交えることができるのですから。性の奥義を極めんとすれば更に充実した夫婦生活が送れる!神との感応ともいうべき悦かな…素晴らしき天からの贈り物といえるでしょう!…

manabu3345
質問者

お礼

そうですね。そこには闘志が込められているのだですね。 ありがとうございました!!

noname#17334
noname#17334
回答No.10

>若き頃に、性欲にはほんと悩まされました。 私は、悩まなかったというと嘘になりますが、マスターベーションはよくやりました。 やったあとなぜ鬱になるのか、それだけが不思議でしたねぇ。 とにかく、20歳前後の頃の性欲は、今にして思えば狂気の沙汰。 中学生の頃は、近くの女子寮を望遠鏡で覗いたり、まさに軽蔑すべきことと 僕にやらせたのは、ひとえに脳下垂体と出口を求める性欲のなせるわざ。 ただ、排泄欲求ならそんなに手の込んだ妄想をともなわなくてもいいものを とにかく性欲くんときたら、無駄な想像をかきたてて衝動的な行動を喚起するもので まぁ、ほんと過去を振り返ってよく私は警察の厄介にならずに生きてこれたなぁ と思うのですね。 性欲も恋愛も抑圧されると燃える点では同じですね。 学生時代は、恋人が出来てすべては平穏なうちに収まりましたけど、19歳の頃の 一年間は、女の子には酷いことをしたなぁと思います。 デートに誘った相手すべてと寝ることを考えてましたから・・・(;;) 手当たり次第誘って手当たり次第にフラれてました。そりゃそうです。童貞の熱き欲望が むき出しだったみたいなもので、 何の因果か毒牙にかかってしまった私の最初の恋人。彼女によって、私と性欲との 長い戦争が終結にむかったわけです。 しかし、お互い若いといいながら、彼女はよくもまぁ当時の獣のような私の性欲の 相手をしてくれたもので・・・本当は深く感謝しなくちゃいけないものを、女は邪険にすれば するほどすがってくるものだ・・・などと勝手な解釈してました。 鬼畜ですねぇ。 >ある人に言うと考えすぎだとよく言われたものですが、 考えすぎです。でもすべての創造活動はリビドーが源泉だとフロイドが言ってます。 昇華という美しい言葉を、昔道徳の教科書で読みました。 保健体育だったかもしれません。 >自分の心の中に自分で言うのもなんですが、尊厳な心と野獣のような心が二つあるようで、 女性を女神のように思ってしまう癖がぬけません。 性の行為が尊いとは思いません。ただ、これほどまでに相手がかわると感動が違うものだという ことは、若いうちは経験がなくてわかりませんでした。 野獣の心は、今は飼い犬のように大人しいです。 >意識的には尊厳な心の方に過大な味方をし、 性の尊厳でしょうか、官能の美学というべきでしょうか。私も官能のもたらす美しい世界は過大評価 しがちですが、それは実は綿飴のように、中身はほんのわずかで、それが過大に脹らんだもの なのかもしれません。 恋ははかないものです。官能の究極は死に似ています。 >野獣の心に対してと言えば、まるですぐ近くにあるのに、意識的に無視しようと必死でした。 野獣は餌をあたえたらいいのです。恋人をみつけたらそれですむ話です。 >野獣の心に全てが支配された時も数多くありましたが、 わたしは、どうしたら恋人ができるか、そればっかり考えていました。いちど恋仲になったら やりまくって嫌がられましたけど、女はそれでも離れていかない・・・うーん人生とは不思議な ものだと思いました。 >今となってはたいぶ飼い慣らした感じがしています。 野獣はいつでもベッドのうえで白きたおやかな女体のうえで解き放ってやれば、それなりに 活躍の舞台が得られて納得するものです。 >年をとるにつれ、野獣の心に対して寛容さが芽生えたような感じで、 というか性欲が減退してきただけだと思うのです。 >素直に受け止めることができているという状態でしょうか。 そういう油断が実は最も怖ろしい。野獣を飼いならしたと思って目を離すとあるとき とんでもない逆襲にあいます。 植草先生の事件など極端な例ですが、犯罪にいたらずとも、恋はいつでも分別ある 大人の男を高校生に引き戻します。 >しかし、自分の中でまだ完全に決着はついていません。 おそらく、決着をつけるのは官能の充実しかないでしょう。死を恐れることと官能の充足は 実は無関係ではないと思います。 肉体的にも、精神的にも深い愛で結ばれて、人ははじめて野獣と尊厳を和解に導く のでしょう。 >このまま時が過ぎればどうってことなかった一つのように思うのが常かもしれませんが、 そうではないです。老いと死の不安に立ち向かううえでも、内なるアポロとデイオニスソスの 対決は、エロスの甘い官能の坩堝でとかして融和させるしかないです。 もともと、コインの裏表のようなもので性欲というものがもつ二面性に過ぎないのですから。 私自身それでは納得がいきません。 >そこで今となって、新たに考えてみようと思っています。 御立派な心がけです。 >なぜなら、未だに溜まった時は現実だからと、まさに飲食のように処理しているからです。 恋人や奥さんとやったらいいです。 あるいは恋人や奥さんを排泄の道具に使っているとしたら、それはまさに性の冒涜です。 いますぐ、悔い改めるか、本気で愛せる相手を見つけるべきでしょう。 >私自身これでいいとは思っていません。 そうです。いいわけがないです。 >本当は飲食のように処理するものではないのではないか、 意義ありです。飲食も娯楽として楽しむべきです。人として生きているのですから 食事は、愛する人と楽しむべきです。なるべくなごやかな雰囲気で笑顔で楽しんで 食べるべきです。飲み物は楽しみです。 自分の嗜好にあった飲み物を備えておいて喉を潤すのも自分なりの嗜好で楽しむのです。 >人生の娯楽や、いい言葉が思いつきませんが、人間の楽しみだけに >終わるものではないのではないのかと思っています。 言葉の意味付けの問題でしょうが、私は娯楽というもにこそ人生の真髄があるという 気がします。 娯楽映画、娯楽作品、娯楽施設というと何か、文化とは一線画した低俗な大衆性を 意味する感じがしますが、エンターテイメントというのは、生きる意味そのものです。 松尾芭蕉が看破したように「人生は旅」なのです。 旅を修行やお遍路さんのように行として捉えるのもいいですが、旅は経験し楽しみ 味わうものです。五感全部を駆使して味わうものです。 人生も実は、感情という感覚を体感するプロセス自体に意味があるのだと私は思います。 >もちろん生殖のためだという考えだけではない、それ以上の【なにか】がある 当然です。たとえば (1)女の奪い合い (2)嫉妬と執着 (3)征服欲 などのマイナーな感情のみならず 性向による一体感、溶け合う感覚、官能の陶酔などは精神と知覚の合一が もたらす境地にほかなりません。 カタルシス(精神の浄化)がそこにはある。 ただ、残念なことに毎回陳腐化したセックスにはそういうものが必ずしも得られる わけではないということはありますが。 >ように感じるというか、そう思いたいところです。 賛成です。 >これ以上なにがあるのか!というお叱りの言葉はなしで、 ただ、いつも思うのですが、性欲とか性の官能とか、セクシーな楽しみとか ってもともと個人的なものであって、みんなで議論したり共感したりする 類のものではないですね。 エロチシズムというのは個人差の激しい世界だと思います。 >性欲=生殖、性欲=娯楽、性欲=楽しみ、性欲=【なにか】という、 >新しい発想、見方を学びたいというのが今回の質問です。 エロチシズムというのは、個人の性欲を賛美する官能の表現世界です。 芸術家はそれをテーマに作品を造ることも可能ですが、一般人はベッドの上で 女性を相手に性行為として体現するしかないです。あるいは、妄想の世界で 遊ぶというのも可能です。 >回答者様が答える際に、私がもう知っているかもしれないと思った回答でも >お聞かせください。新しいヒントが得られるかもしれませんので。 エロチシズム論はいくつもあります。でもこれは個人差の激しい世界であって エロチシズム自体が何度も申し上げるように共感や共鳴とは無縁の孤独な 世界に咲く花だという気がしてなりません。 >では、よろしくお願い致します。 お答えになっていなくてすみません。

manabu3345
質問者

お礼

なるほど・・・本当にありがとうございました!!

noname#50219
noname#50219
回答No.9

性器の潔癖さが、駆け引きの焦点になってるんじゃないかな。性器は道徳に高いので、恥かし沸点がひくい。ポテンシャルが高く、すぐに反応する。 つまり、性欲は、道徳を要求すると言うことです。 それだけ精緻な力学が、精を司る器官にはあるのでしょう。 精力絶倫って、いい響きじゃないですか。 道徳の高さが、性欲を満たし(恥かしくない性)解放するのではないかと思います。 心身、性感帯として、精進。 道徳を備えた野獣は、いわゆるなんですか、ヒーローと言うんでしたっけ?

manabu3345
質問者

お礼

そうですね。なるほど!ありがとうございました!!

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.8

私の知っている一つの方向だけからの情報ですが、私は専門家ではないので後で専門書をご自分で読まれるといいと思います。 「チャクラ」ってお聞きになったことはありますか? 人体には7つのチャクラがあるといわれています。 「第一のチャクラ」;脊髄の底部(尾骨)で感情的、精神的な健康の基盤 「第二のチャクラ」;下腹部からへそにかけての部分(性器その他)で人と関係を持つ必要性、それに物理的な環境をある程度コントロールする必要性と通じ合っているエネルギーをつかさどっている。 このチャクラの気(エネルギー)は個人としてのアイデンティティーを持つ事、そして自分を守るために外部との心理的環境を作り出すことを可能にしてくれるそうです。 又、私たちが外部の世界やそこにある肉体的な誘惑(セックス、お金、中毒物質、あるいははかの人々)との関係において自分がどれほどの強さで生きていけるのかつねに評価し続けていけるためのチャクラだそうです。 他のチャクラは 第三;みぞおちの部分 第四;心臓 第五;のど 第六;眉間(いわゆる第三の目) 第七;頭頂 でこの七つのチャクラはそれぞれ医学的にホルモンが出るところと一致しているそうです。 第二のチャクラから出るエネルギーは創造のエネルギーであり子孫をつくったり、生存に必要な基本的本能や直感を与えるだけでなく、音楽や芸術、詩歌や建築物などを創造したいという欲求を持たせ、科学や医学というかたちで、自然について調べてみたいという好奇心を与えるそうです。 それぞれのチャクラは精神的、肉体的につかさどる部分(役割分担)があり、それを支配するエネルギーとして働いているようです。 このチャクラはヨガの解説書にも詳しく載っており、書店の精神世界のコーナーに行かれれば、何らかの情報が得られると思います。 性欲も性のためだけでなく、ほかにもその強大なエネルギーを利用する方法があるようです。 昔、ヨガの行者が苦しい修行の末、到達してマスターしたのがその方法だと思います。 今では色々な方法でその情報を手に入れることができるので恵まれていますね。 私も専門的にはよく分からないので是非色々な本から情報を仕入れてみてください。 何かの参考になれば幸いです。

参考URL:
サンマーク出版;七つのチャクラ キャロライン・メイス著
manabu3345
質問者

お礼

チャクラというんですか!凄いですね! 必ず読んでみます!! ありがとうございました!!

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.7

トートロジー的に回答すると、性欲は性欲以外の何物でもありません。 ですがこれではご不満でしょう。 強いて言うならば、性欲が強い人は死の恐れが強いのではないかと思います。 死の恐怖を克服すると、生死を超えた自由さに辿り着いて、その段階になると、性欲と呼ばれていたものが実に自然でありふれたものであると気付くのだと思います。

manabu3345
質問者

お礼

なるほど・・・ありがとうございました!

noname#13805
noname#13805
回答No.6

人間の本能として (いや、生物すべてに共通する本能として) 大きく2つのものがあるとされている。性欲と食欲である。食欲は個体の維持を目的とし、性欲は種の継続を目的とする。  普通に考えて、人の一生は大雑把に言えば、誕生以来食欲によって個体を成育させ、個体が完成したあかつきには、性欲によって次世代に生命を引き継ぐと言う形式になろうか。もちろん、引継ぎ後の旧個体は崩壊の途につく。  実は、純哲学論的にいうと、個体が完成した後にそのまま性欲によって自己の生命を次にバトンタッチする道以外に、自己の生命を次の新しい飛躍へと導く方法がある (いや、すでにその方法を実行している者が確かに居るであろうから、正確には『実践哲学論的』となるが)。その方法に気付くことで、性欲の存在意義がガラッと変わる。何せ、完成された個体が更に次の飛躍を目指せるなら、とりあえず次世代への生命の引継ぎも無分別になされることがなくなるからだ。  すなわち、最初に、人間が持つ2つの本能をあげたが、じつはもう一つ忘れてはならない大事な本能がある。そう、睡眠欲だ。ではこの睡眠というものは、人の一生においてどのように位置付けられるのか。単純に考えれば、眠れば意識を失い、目覚めれば意識を取り戻す。もう少し具体的に言うと、人間の自意識(自分というものが確かにこの世に存在していることを自覚し、この世のさまざまなものを認知できる精神)が、睡眠によって現れたり消えたりするということである。つまり、人間の自意識・精神は、その人間がこの世に誕生して以来、睡眠を繰り返すことによって次第に形を整え、より強固な存在として形成されていくのである。食欲が肉体を育成するものであるなら、睡眠は、その肉体を踏み台にして(覚醒した)精神を育成するものといっても良い。  しかしお分かりのように、我々のほとんどは、食欲によってこの世に完成した肉体を現しても、いまだ睡眠による精神の完成を成していない。すなわち、我々の覚醒した精神・自意識がこの世への定着に成功していると言えないのである。我々は、相変わらず睡眠によってこの世に現れたり消えたりする陽炎(かげろう)のような存在に留まっているのである。そのような陽炎のような淡い精神のままで、たとえ切磋琢磨して能力を高めようとしたり、対人的な関係として人格を形成しようとしても限界があるのは当然である。  多くの者は、眠りによって自分がこの世から消えてしまうことに、何の疑問も抱かないし、もちろんそれに抵抗することもない。消えてもまた再びこの世に戻れる(目覚める)ことに安心しているからである。しかしその肉体を踏み台にして行われる目覚めは、次第に肉体そのもののエネルギーを消耗していき (すなわち睡眠のたびに肉体はリフレッシュされるが、そのリフレッシュの度合いが段々低下していく)、最後にはエネルギーを使い果たして再び目覚めることはなくなる時が来る。  もし我々が生命の次のステップを踏もうとするのなら、自分の自意識・覚醒した精神の完成を目指すしかない。それは、自分(自意識)がこの世から決して(一時的にでも)消えてしまわない、確固した存在になることを目指すということである。これは何を意味するか。これは、我々に 「眠りに抵抗せよ」 と要求することを意味する。眠って自分がこの世から抹殺されてしまうことに抵抗せよと言うのである。  「眠りに抵抗する」 あるいは 「眠りを我慢する」 ことは、現代医学によれば、はなはだ我々の健康に良くないこととされている。しかしそれを実際実行してみれば分かるが、眠りを強く我慢した後、結局打ち負かされて眠った場合、その睡眠は非常に深くなり、抵抗せず眠った場合に比べて、我々の肉体が非常に高いレベルでリフレッシュされることに気付くのである (これは医学的実験でも証明されているが)。  かくて、我々は、眠りへの抵抗を繰り返して行くうちに、次第に抵抗力がつき、徐々にではあるが、眠りから完全に解放された覚醒的存在へと近づいていくのである。そして、目覚めている時の自分のすべての行動、刺激は、この眠りへの抵抗のためにあることに気付き、性欲は(そして食欲も)、覚醒のための刺激として利用出来る程度に自制可能となるのである。  さて、あなたが完全に覚醒した精神を手に入れた時に、そこに何が待ち受けているか。多分その時にはあなたは、文字通り「新生命」となっていよう。 (注:当主張では、「睡眠」というものと「眠り」というものを区別している。「睡眠」とは眠りに陥ったあと、肉体がリフレッシュされて再び意識が目覚めるまでの一連の状況を指す。「眠り」とは単純に、意識が消えて肉体の新陳代謝のみとなることを言う。)  

manabu3345
質問者

お礼

深いですね!何度も読み返しました。 参考になります。本当にありがとうございました!

noname#31063
noname#31063
回答No.5

性欲=情動ですね。 普通は犬や靴に起こらないもので、一応情動の守備範囲内で性欲は起こる(守備範囲が特別広~い方除く)。 いくら知識や理性があっても情動(感動)が起こると、それは強力な執行力をもたらし理性は引きずられ被害者となります。理性が我慢だ、平静だ、良心だと努力するよりも、情動は楽々やってのける力持ちな努力家で負けます。 つまり活動的な人は情動が主人で、理性は飼い犬程度が普通なのですが、そこはそれ、助け舟に“老化現象”がやって来ます。 経験も助っ人足り得るのですが、何と言っても老化ほど性欲を自在に操る奏者は居ないなと実感する日々です(←完全に枯れてないはずだが)。 理性の主人に老化で鬼に金棒(笑)、情動が泣こうが、「頑張りまっせ」言おうが、情動なんぞ引きずり回して涙まみれ、血まみれにすることも平気にするのでございます。それもきっと“愛”…。

manabu3345
質問者

お礼

ありがとうございます! >理性の主人に老化で鬼に金棒(笑)、情動が泣こうが、「頑張りまっせ」言おうが、情動なんぞ引きずり回して涙まみれ、血まみれにすることも平気にするのでございます。それもきっと“愛”…。 愛ですねw

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

抑圧されていたものの【発散】という視点も可能かもしれません。 発散させる為に普段は抑圧されている、という見方もできるでしょう。 あまり若いうち(自我の確立前)から発散させすぎると、抑圧の力が弱まるために正常な発散ができずらくなり、歪んだ方向や方法で発散させざるを得なくなる傾向が強い。 という事にもつながるように思います。 余談ですが、「英雄色を好む」という言葉がありますね。 性欲を抑えるべき時や所では押さえて、英雄たるべき事に心血を注いで来たため、その方面での英雄になり、そういう人は性欲が抑圧されている度合いが大きいので結果として発散の仕方も強烈に(程度・範囲などで)なる、ということでしょう。

manabu3345
質問者

お礼

「英雄色を好む」 なるほど・・・発散ですか、確かに理にもかなってる感じがします。参考になります!

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

欲ですよね。食欲、睡眠欲、色欲(性欲)、名誉欲、など、みんな欲というのですね。この欲がなくなった状態は肉体の死ということですから、生きるということはこれらの欲と旨く付き合っていくという意味ですね。特に、色欲については結婚して家庭をもつということで調整するということですね。少し性欲が強い人なら奥さんにそれなりの女性を選ぶということでしょうね。これを間違えるとひずみが出ますね。奥さんとの間では自分の心にターブを作らなければ、罪悪感など起きないでしょうね。二人で楽しく過ごせばいいんですね。性欲に関してはそれだけのことですね。欲との旨い付き合いは肉体的な人生を有意義にするということだけですね。

manabu3345
質問者

お礼

ありがとうございました! 性欲は性だけに通じているのでしょうか?名誉欲など、性欲のパワーが混ざっていたりしないんですかね? ふと思いました。

回答No.2

性欲は難しい問題だと思います。これはやさしく迫ってきますが、これを満たしたあとには、いつも罪悪感を感じます。それで、遠ざければ婆子焼庵のような公案もありますね。僕も確答は分かりません。

manabu3345
質問者

お礼

そうですね。でも、ありがとうございました!婆子焼庵調べてみました!

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