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教育の考え方をお聞かせください。

授業に加わらない生徒(漫画を読むなど)が、 授業についていけずに退屈な時間を耐える。 なのに義務教育は成立し、子ども達に学力をつけてやらないと いけないのにそういう努力を放棄している公立学校がある。 「できない」子は放っておく、それが見過ごされている。 子どもの中にある疑問を顕在化させる=教えるということ。 疑問を持つことを知らずにいる生徒が多い。 ただ、現代の学校はエリートを養成すればいいという 方向がある。 時間をかけて待つ、努力のできる余地がほしい。 以上のことを読んで(乱文ですが) 「教育の目的」もしくは「学校の役割」をどう 考えますか? みなさんの教育観をお聞かせください。

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noname#77757
noname#77757
回答No.5

 私もある学校へ(地域の交流の日に。)百人一首を教えに行きました。確かに勝手な行動をしていた子がいました。  これは先生は大変だと思いました。知恵遅れ等を含め学力低下の子を親の面子で、落第をさせないで普通のレベルのクラスにしてると思います。  落第しても結局は同じです。皆についてこれません。悩む事はありません。先生のせいではありません。単元をこなし学期末には予定の教科書を終了してください。  一概に上記の事がそうではありません。別な方向から教えたら、理解できる場合があります。そんな子は時間外を設け指導したならどうでしょう?案外理解するものです。  私が、三平方の定理と、√と平方根について、尋ねた事がありました。そうしたら、そうなっているんだから理屈抜きに覚えるしかないと云った先生がいましたが、私は皆の前で恥をかいただけでした。  三平方の定理は直角三角形の場合、1辺が3:4:5で、それぞれの辺の面積も3:4:5と教えてもらっていたらと思う事がありました。  √と平方根も、数を自乗して得た数値に対する元の数と教えてもらっていたら、叉1.141421356237×1.41421356237=1.9999999999であるつまり2に限りなく近い数字であるが計算のとき大変だから、√2として計算した方が便利と聞いていら、と思いました。  ピタゴラス。ギリシャの哲学者、数学者と言う事を高校時代に知りました。どうして?何故こうなるの?と云うことも教えてほしい。自問自答もだいじです。  教室を、どうにもならないクラスを(A)クラス。もしかしたらクラスを(B)クラス。大丈夫クラスを(C)クラスにして指導したら、指導する方もらくだと思います。  先生も限られた時間の中で指導するわけだから、ついてこれない子に時間を費やしたくないのは、当たり前。先生方と教育委員会。父兄会で、語り合い、理解してもらい、指導するしかありません。  

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  • oahiopwh
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回答No.6

義務教育の一面は、 自分の能力を伸ばす機会が国民全員に均等に提供さていることである。 厳しいことを言えば、チャンスを活かせない生徒は落ちこぼれて当然である。 しかし、教育はそもそも未熟な子どもに対して行うものである。 よって、生徒がチャンスを活かせるように、教師は様々な工夫するように要求される。 ただ、人間相手のこと。 一人一人要求されることが違い、全ての子どもに最適に指導は難しい。 その中でも、自分の出来ることをがんばるのが教師の務めである。 >現代の学校はエリートを養成すればいい これはちょっとちがうと思います。 日本は単線型の学制。 →大学進学率は年々伸びて、だれでも大卒(エリート)になれます。 大卒がエリートと言われた一昔前からかんがえればですが。 ホントのエリートは養成学校なら、だれでも入学できない制度になっているのですよ。 義務教育の学校 →エリート養成というより、最低限のことを学ぶ学校。 この教育課程の内容をしっかり身につけても、エリートにはなれないと思う。 我が子はエリートにしたい親の気持ち=学校にエリート教育を求める これが、現代の学校問題の構図ではないでしょうか? これにより、 >時間をかけて待つ、努力のできる余地 がない社会世論が形成されており、 落ちこぼれた生徒は、再起を図る機会をもてないのではないでしょうか?

noname#16365
noname#16365
回答No.4

先に「学校の役割」を。 学校は、教育の機会、教育の場を用意するにすぎないと思います。しかし、これは "教える側" の言い方で、ほんとなら、学べる時間、学べる場所が、少なくとも一つは用意されている、と言われるべきだと考えます。つまり、どこでどう勉強したっていいし、なにを学んだってよかったんです。学校で学べないことを、学校以外のところへいって学んできたってよかったんです。しつけは保護者の義務です。しつけにも教育もふくまれますが、勉学はふくまれません。 学校がする教育の目的は、勉学を通じて彼らの知識的価値を高めること、肉体的、精神的成長の "一助" になることで、学校がそれを "統括" するのは奇妙です。 また、もうひとつ。より広い社会へとつながっているならば (最近の小中学校は閉鎖的ですが!)、学校を媒介にして、家庭を出発点とした場合には体験できない社会との関わりを与えることです。これは教育でなく、単なる機会と環境の提供。ただし、こどもを主体に考えるなら、これも学べる場所、学べる時間と言い換えられるのがふしぎですよね。 学校の教育の目的ではなく、本来の教育の目的を言うなら、人間社会の善悪を教えること、ひとりで生きていける方法を身につけさせること、自我を育てること、だと思います。あとは、残りの人生をかけて、じぶんで成長していくでしょうよ。 すべて正しい自信はありません。でも、わたしの教育観はこうです。

  • stonerose
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回答No.3

 むしろ、授業に加わらない生徒の方が、義務教育を放棄している気もしますけどね。考えたけど、どうしても分りませんっつって、理解を求めて歩み寄ってくる生徒を放っているなら問題でしょうが、質問者様の文の様な自ら放棄する生徒は、学力が追いつくまで時間的な余裕を持たせる以前の問題か、それとは別の問題かと思います。 勉強を放棄したが故、分らない     ↓ 先生が時間を掛けて学力が追いつくまで待ってくれない     ↓ 教育する側の責任 これではあまりに飛躍しすぎのような気がします。 勉強は大事だけど、生きていく上で必要なのは勉強だけじゃないんだ。と言える事も学校の役割だと思います。みんなが横一列に並ぶように生徒のことを考えるのが、果たして教育者としての責務や慈悲と言えるのかどうか。 こういう生徒がいることが問題になるたびに教育の目的や学校の役割が疑問視されがちな風潮ですが、家庭の教育の目的や、家庭の役割を議論すること投げてはいけません。 上記のような生徒は本当に学校教育限定の被害者でしょうか???

  • bullfrog
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回答No.2

中学教員です。 であれば、落第という制度を設けるといいと思います。 文科省が各学年の標準的な学習内容についての試験を用意し、それで一定の点数を取らないとその学年の終了を認めず、何度でもその学年をやることになる。 これであれば、2年でも3年でも、時間をかけて努力をすることが出来ますよね。 でも、これをやったら保護者が文句を言うだろうなぁ。 学年の中で習熟度別に授業をしただけでも文句が出るわけですから。 みんな同じ教室で同じ授業を受けるという、悪い意味での「平等」を求めている人が多いというのが、問題なんだと思います。

  • apple-man
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回答No.1

>授業に加わらない生徒(漫画を読むなど)が、 漫画を持たせて登校させる親がどうか してますね。 >現代の学校はエリートを養成すればいいという 方向がある。  授業を普通に聞く子がエリートですか?  言葉が通じない子供は、牛や豚と同じです。 ちゃんと人間に育ててから登校させるところ までが親のやるべき最低限度のことです。  30頭の牛や豚に授業を聞かせようと するより、10人の人間に話をすることの ほうが常識的だと思います。    授業に加わらない生徒の親は、教育の 義務を明らかに放棄していますから、 そういった親への刑事罰から考える 必要があると思います。