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教育とは??

私は今、学校の教育に疑問を抱いています。 なぜかというと、学校の授業があまりに機械的で、受験対策の事しか教えてくれないからです。  勉強と言うものは、決して受験のためにあるものではないはずです!! では、何のために勉強(学校の)をするのでしょうか?? 将来のためなんて言われても、未来なんて分からないもののために勉強するなど、私にはできません。 もっと、勉強の必要性を感じられる、理由を持っている方。教えて頂けませんか?? また、子どもを教育する立場の人間はどうあるべきなのでしょうか?? どうしたら、生徒は勉強することに楽しめるのでしょうか??

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 はっきり言って質問者は甘い、甘すぎるレベルの者が背伸びしているだけである。 文面から判断したところでは恐らく高校生だろうが、その立場の者は「教育」の窓口にすら立っていない段階にある。  「学ぶ」とは「学問するスタイルを模倣すること」であり、それは大学の後期から修士課程でようやく手にすることのできる行為です。高校や大学の一二年次までは「学ぶ」ではなく「習う」段階です。  また質問者はかなりの近視眼的価値観の持ち主でもある。「将来のためなんて言われても、未来なんて分からないもののために勉強するなど、私にはできません」とは役に立たないものは不要であるとの実利主義的な価値観であり、これに基づくなら哲学や基礎科学の分野は質問者にとって全く無意味な存在となってしまう。  物事には二つの側面がある。一つは「何をすべきか」であり、もう一つは「それは何によるものか」の部分です。病院を例にして説明しましょう。  医師は患者に対し適切な治療を施します。これが「何をすべきか」との部分です。では医師や医師を志す人はなぜその職業を選択したのでしょうか?。これが「何によるものか」つまり「動機となる背景」であり、そこに「正解と誤答」の明確な区別があるともいえません。ある人は「一人でも多くの人命を救い健康な状態に戻して社会復帰を手助けしたい」と答え、別の人は「お金が儲かるから」と答えるでしょう。でもこの二つの答えの是非を第三者である質問者にも私にも答える資格はありません。この問題の性質として「本人が考えて答を出す」以外にはないのです。  恐らく質問者は「問題には必ず答がある」との無批判な形でしかこれまでの時間を過ごしてきたのでしょう。このシェーマを先ずは疑うことから始めねば学問することなど無理です。とはいえこの質問をこうした場で敢えて問う姿からは幾何かの可能性の発露も感じられます。受動的姿勢のままでは本質的に学ぶ事などできないとの考え方であれば是非とも大学の門を叩いて下さい、僕たち大学教員は質問者のような高い問題意識をお持ちの方をいつでも歓迎致します。そのためには大学に入学するための手段である「基礎学力の向上」に全力を注ぐことが間は質問者にとっての最重要課題です。より高みで物事を究めるにはその場に行くしかありません。  「どうしたら、生徒は勉強することに楽しめるのでしょうか??」とは質問者のような段階にある者が口にする言葉ではありません、十年早い、喝!

noname#159730
質問者

お礼

ありがとうございます。 参考にさしていただきます。

その他の回答 (4)

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率64% (1056/1648)
回答No.4

おもしろさとか、楽しさというのは、自分で見つけるしかないもので、先生にも誰にも教えようがないと思います。どうすれば勉強を楽しめるか、というのは、どうすれば野球を楽しめるか、どうすればサッカーを楽しめるか、という問題と同じで、楽しめる人には楽しめるし、楽しめない人には楽しめないとしか言いようがありません。結局、他人が教えられるのは、野球のやり方、勉強のやり方だけです。

noname#159730
質問者

お礼

ありがとうございます。 参考にさしていただきます。

回答No.3

>私は今、学校の教育に疑問を抱いています。 なぜかというと、学校の授業があまりに機械的で、受験対策の事しか教えてくれないからです。  勉強と言うものは、決して受験のためにあるものではないはずです!! はい。残念ながら、法律上では、教育を受ける(被教育者)側が勉強の目的について決定する権限があり、教育法・一般法の制約を超えない範囲で、被教育者の意思が尊重される。 したがって、受験対策のための学校の授業・・であることは問題ではありません。 要は、勉強の目的については、教育を受ける側の意思が前提なので、『勉強は受験のためにある』という認識には何ら問題はない。  もっとも、質問者の意見も尊重されうるもので、圧倒的多数が、学校教育に受験対策を要請する場合が多い以上は、そうなる必然性がある・・と断言できるだろう。 >では、何のために勉強(学校の)をするのでしょうか?? 将来のためなんて言われても、未来なんて分からないもののために勉強するなど、私にはできません。 何のために勉強するのか?というのは、勉強しながら自分で見つけるものに過ぎまない。 それ以上それ以下でもない。 分からないもののために勉強できない、というなら、勉強しないでも良い 自己責任でご自由に・・・ >もっと、勉強の必要性を感じられる、理由を持っている方。教えて頂けませんか?? 教えることは出来ない。それを学ぶことが質問者の責務である 仮に教えることが出来る人がいれば、その人は人間ではないだろう >また、子どもを教育する立場の人間はどうあるべきなのでしょうか?? どうあるべき?などという抽象的な質問に回答できるほど簡単な問題ではない これも回答できる人がいれば、超人であろう  真剣に考えている人は大概がそう回答するだろう これを簡単に回答する人は、教育を理解していないだけの話で、そういう質問をする質問者も教育を理解するに程遠い、と断言できるだろう >どうしたら、生徒は勉強することに楽しめるのでしょうか?? 苦痛に耐えて、勉強で得られるものに大きな刺激を受けて、その刺激が麻薬にようになった時 もしくは、その刺激を想像して、その刺激のために苦痛に耐えうるようになった時 勉強は楽しめるものではない・・・それを要望することがそもそも間違いである。 これも断言できる 総括  無い物ねだりに過ぎない。それが許される年代であるか?という問題について質問者自身が思慮するものである 以上

noname#159730
質問者

お礼

ありがとうございました。 参考にさせていただきます。

noname#177363
noname#177363
回答No.2

仰る通り、勉強は受験のためだけにするものではありません。 >将来のためなんて言われても、未来なんて分からないもののために勉強するなど、私にはできません。 逆だと思います。未来はどうなるか分からないからこそ、勉強はしておくべきなんです。 仮に今、特に夢やなりたい職業がないとしても、来年、再来年になったら、あるいは大人になってから、「こういう自分になりたい」「こんなことをしたい」と思うようになったりするかもしれません。人間はいつまでも同じ気持ちでい続けることはほとんどありません。今は嫌な物でも、何かのきっかけで好きになったりすることもあるんです。 だから将来、どんな自分になるか分からないからこそ、目の前にある学校の勉強はした方がいいのです。 それから、中学高校の勉強は、科目や内容によっては受験のためだけと言えるものもありますが、社会に出て役に立つこともあるし、知らないと恥をかくような常識もあります。 また、受験のためだけと思えるものや、実生活に役に立たないのでは?と思うようなことでも、勉強する側にプラスになることがあると思います。 中学生や高校生の頃は、脳の吸収力と柔軟性が非常に高い時期です。その頃に、たくさんいろんなことを考えたり、問題を解くだけでも、脳にとっては成長に必要な訓練になると思います。 個人差はあると思いますが、20~30歳を過ぎれば、覚えたいことも簡単には覚えられなくなり、どんどん忘れっぽくなります。しかも脳が若いうちに「訓練」をしていなければ、衰えるのは早いと思います。 今のうちにどんどんいろんな勉強をして、いろいろなものに興味を持ってください。それがいつか、自分を助けてくれるはずです。 それから、学校の勉強が嫌なら、本をたくさん読んでください。何か興味のあるものならジャンルを絞ってもいいですし、特になければいろんな本を読んでみてください。 いろんなことを知るのが勉強ですし、本(活字)を読むのは国語の勉強の基礎です。現国なら、本を読むだけでも成績が上がるはずです。 まあ、とは言っても、勉強はしたくないというのが普通ですよね。私も好きな科目は楽しかったですが、嫌いな科目は本当に嫌でした。でも、そうやってちゃんと勉強をやらずに、大人になってからもっと勉強をしておけばよかったという人はたくさんいます。 どうしても勉強が嫌なら、せめて学校の授業だけはちゃんと聞きましょう。授業を聞くだけでは全てを覚えられませんが、聞かないよりずっとましです。授業を聞いてる中で、何か興味がわくこともあるかもしれません。 外国の貧しい国では、勉強したくても勉強できない子供がたくさんいます。世界の人口から見れば、そういう人の方が多いはずです。 勉強できる環境にあるだけでも、実はしあわせなことなんですよ。勉強は「しておけばよかった」ということはあっても、「しなければよかった」ということはないはずです。頑張ってください。

noname#159730
質問者

お礼

ありがとうございます 参考にさせていただきます。

  • parts
  • ベストアンサー率62% (6366/10151)
回答No.1

学生さんか・・・まあ、誰もが通る道ですが、受験対策しかしないか、それとも別の勉強もするかは、学校の特色やその地域の親の需要にも関係しますから、一概には言えないのですよ。 受験を目標とする親や子供が多ければ、ある程度学校は受験中心で、科目とカリキュラムを組むのです。 その上で回答します。 Q/では、何のために勉強(学校の)をするのでしょうか?? A/一般論で答えますね。それが学生の本分であり、義務だからです。納税の義務、勤労の義務、教育の義務の3つの義務。そして、その逆に勤労と教育には権利も伴います。即ち、学生が教育を受けるいわゆる勉強をするのは、この国においては義務でも権利でもあり、少なくとも中等教育までは受けるべき義務となります。 だから、勉強するのです。その先において、勉強をするかしないかは、その人がどういう大人になりたいか、どう生きたいかによって変わります。これが、教育を受ける権利でもあります。 Q/将来のためなんて言われても、未来なんて分からないもののために勉強するなど、私にはできません。 A/私は、質問者様の親でも、親族でもないとたぶん思いますので、率直に書けば義務教育なら、そこまでは嫌でも受けなさいというのが最初に出る言葉です。 その後、自分が何を望むかは、育ててくれているご両親や家族とご相談下さい。ただし、この国に生まれた以上、義務は果たさなければなりません。これは一生追わなければならない義務です。 学校へ行かないなら、働いて勤労し、納税する義務が伴うのです。これがこの国のルールです。 もしも、私の親族で知っている人ならこう言うかな? 未来が分かるなら君は、本当に勉強をするのかと? そういう人は、きっと未来が見えるなら、その未来を頼りにして、勉強をしなくなるのではないかと思うのです。はっきり言えば、占いが出来る。宝くじで一等も簡単です。未来が見えるというのは、そういうこと。 未来が分からない人は、逆に勉強をするのですよ。何故なら、今学ぶことが未来にとって良い影響を与える可能性があるからです。知識は、例え生涯使うことがなくとも、価値はあります。何故なら、万が一使うことが出てくれば、その知識は自分の命を延ばす可能性が高いからです。例えそれが、数学の微分積分でもです。 私がここで、回答できるのは、その知識を今までに貯めた結果です。現実のビジネスでも私は、この知識や経験を生かして働いています。質問者様は、これから、どうしたいですか? 見えた未来を使って、一生遊んで暮らしますか?見えないから、やる気がしないニートになって、親が死ぬまでは親に面倒みてもらい、親がいなくなったら、自分も孤独死しますか? これは、私が想像する質問者様にとって最悪の未来です。未来は現実として見えるものではありませんが、今までの経験や知識から、状況を判断し、延長線上にある未来の自分を、予測することはできます。学校が、偏差値教育で受験対策しかしないなら、試験などでこの高校や大学なら合格する見込みがあるという、紙などが配られませんか? それと同じで、ご自身に社会での経験を当てはめれば、自分の未来は自ずと分かるのです。 後は、それをどのように勉強と結びつけるかです。 Q/勉強の必要性を感じられる、理由を持っている方。教えて頂けませんか? A/まあ、私は今からでもまだ勉強し直そうかと思うことは山ほどあります。学ぶという探求心は、産まれたときから誰もが持っていますからね。 まあ、それはともかく必要な理由は、人として大人として社会を生きるためです。 例えば、産まれたときから、オオカミに育てられれば、人は人の社会に戻っても、オオカミのように行動します。人というのは、人として人に育てられなければ、形は人でも中身は別者になるのです。 それと同じで、勉強はしっかり学ぶ者とそうでないものでは、考え方の価値観が変わったり、言っていいる内容の理解が出来ない場合がしばしばあります。 その理解を得るために学ぶのです。後は、どこまでその学んだことを生かすか、生かせるかの話であり、その人の努力次第です。 Q/また、子どもを教育する立場の人間はどうあるべきなのでしょうか?? A/さあ、今のままでも教育を受けたいと思っている人がいれば、教育する立場は何もしなくて良いでしょう。その逆に、みんなが楽しく学べる環境を作り、教えたいと思う教育者に学べば、その人に育てられる教え子は、教育を受けたいと思うでしょう。 卵が先か鶏が先かというのは、ご存じですか、それと同じです。質問者様が学びたいか、それとも先生が教えたいかの話です。両方がそっぽを向いていれば、交わることはない。お互いが、少しでも心を通わせれば、それだけで変わるかもしれません。 質問者様が、それに悩んでいる今、そういう学習の分野に興味があり、変えたいと思うなら、それを研究する人になれば、よりよい教育を探せるかもしれません。それには、勉強が必要です。 Q/どうしたら、生徒は勉強することに楽しめるのでしょうか?? A/先に述べたように、生徒が楽しむのか、先生が楽しむ機会を与えるのかの問題です。 例えば、私はコンピュータ関係の仕事をしていますが、あるプログラムを書くとして、Aさんはあまり乗り気ではないが、私はそれをするのが楽しいと思う。これは、その人が、どこにワクワクする感情、喜びを感じるかによります。 恋愛のテレビドラマが好きな人は、それを観たがり、それを見ることが楽しいが、刑事ドラマは嫌いかもしれません。刑事ドラマが好きな人は、恋愛ドラマを見るともどかしくイライラするかもしれない。 即ち、好きなもの、またはそれぞれの目標がどこにあるかによって、楽しめるかどうかは変わっていきます。ただ、一つだけ言えることは、楽しむにもある程度の努力がいるということです。 テレビを観るにも、テレビを買わないと観られない。電気代を払わないと電気が使えません。 即ち、そのために努力をしているのです。今、学生さんだと、それらはたいてい自分ではない誰かが、与えてくれるため、努力をしないと楽しいことができないとは直接的には思えないはずです。ただ、現実には物事の全ては対価があってこそ成立するのです。それを、知らない人ほど、楽しさが大事であり、自分から楽しみを目指す努力をしない傾向にあるのです。 まあ、ある意味対価を与えれば、勉強をする可能性はありますが、そもそも、基礎教育においては対価を与えると、教育格差に繋がり、社会が不安定になる恐れがあります。 そのため、義務教育は等しく受ける権利となり、義務となっています。jこの国は、恵まれていますからね。 それを、受けた上で、その先には対価の伴う勉強になるのです。この対価は勉強をしなければ、良い職業に就けない可能性が高くなったり、肉体的な労働が増える確率が高まります。 勉強をして多くの知識や資格を持てば、社会的な地位が高くなる可能性があるのです。ただし、それらの対価は学歴ではなく、最終的に人間性などに対して払われます。 そのため、いくら勉強が出来ても応用力が無ければダメですし、いくら良い大学を出ても態度が傲慢なら、評価されません。といったところでしょうか? まあ、勉強というのは、本来社会に適応した人を作る工場のようなものです。 だから、義務教育があるのですよ。もしも、それが無くなれば、今の社会概念が根底から崩れてしまう可能性もあります。それぐらい、大事なものなのです。 逆に言えば、この教育で多くの理解者や信頼してくれる卒業生を排出すれば、理想の社会に近づけることも出来るかもしれません。こんなことを教える先生はいないでしょうけど。松下村塾は、その一つだったのです。 楽しみたいなら、自分から楽しいと思えることを探し、努力しないといけません。それを、億劫に感じていると、最終的には、勉強以外で得られる楽しみも、得ることが困難になるかもしれないのです。

noname#159730
質問者

お礼

ありがとうござました。 参考にさしていただきます。

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