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日本の教育について
小中高大と、日本の教育では授業というものがあり、義務教育でなければそれにでないと単位が認められません 非常に漠然とした質問になりますが、なぜ日本の教育では授業がこうも大事なものとみられて必要とされるのかが質問です 私は、主に高校や大学といった義務教育でない教育の場で、進級や進学等に必要な学力がつくのなら授業など必要ないと思います そもそも、勉強というものは自力でやることが基本でしょうし、勉強のできる人にとっては授業など効率の悪いことですし、相性の悪い教師や教え方のうまくない教師などの授業が強制されるのはなぜでしょうか 単位に授業の出席数が関係するのはどうも気に食わないです あるきめられたテストなどで、点数が取れればそれは学力のある証拠なので単位を認めて、自力で学力がつけれない人だけが授業を受けるという仕組みになっても問題ないと思うのですが もし授業の出欠席に自在性が出れば、苦手強化等もはかりやすくなるため利便性も増すと思いますし、授業に出てもその単位認定のテストで点が取れない生徒や学生はそもそもの学力がないということなので、その学校から退学させるという制度であったとしても、たとえば日本の入学試験だって生徒の学力のないものはその学校に入学し在籍することを認めないという点では同じであるため全く問題ないと思うのですが… 日本の教育が現在の形を維持する理由、もしくは私の考え方に誤りなどがあればぜひ教えてください
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- TANUHACHI
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何か誤解をされている、と感じました。 僕は大学で特任教授を務めさせていただいております。小中学校と高校そして大学は「学校」の位置付けが教育体系の中では異なる機関です。 小中学校は「義務教育課程」を履修(とはいっても単位の取得はありませんが)する機関です。「学校教育法」には「義務教育の目的」として第21条に詳細な規定があります。 第21条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成18年法律第120号)第5条第2項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。 1.学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 2.学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。 3.我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。 4.家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。 5.読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。 6.生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。 7.生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。 8.健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。 9.生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。 10.職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する 能力を養うこと。 が記されています。 これに基づく形で「小学校における義務教育の目的」及び「中学校における義務教育の目的」がそれぞれ第29条及び第45条に規定されています。以下はその条文です。 第29条 小学校は、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すことを目的とする。 第45条 中学校は、小学校における教育基礎の上に、心身の発達 に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする。 これに対して「高校」「大学」は義務教育の機関ではありません。個人が任意で教育を受ける場です。従ってそこは、イヤな言葉ですが、全ては自己責任の形となります。 単位を取得するためには定期試験を受けることが必須となりますが、その前提要件として「講義及び演習の出席日数を満たす」ことも求められます。端的に言いますが、講義や演習に出席していない者が答案を提出することが出来るでしょうか。少なくとも大学の定期試験は全て論述の型式です。講義内容を理解していない限り答えることすらできないのです。 質問者様がこの疑問を呈した背景には「全てを数値化できる」「成績はその数値に依拠する」との絶対的信念ともがあると感じられますが、実際には数値化できない部分の方が大きい。また「苦手科目の強化」を目的として他の教科目は無視しても良い、などとの御言説には正直なところあきれ果てて返答に苦慮せざるを得ません。 高校でも大学でも進級にあたっては当該年度に履修すべきとして取得単位に規定があるのはなぜだとお考えですか?。 学年が上がるにつれて専門領域の科目が増えます。そしてその専門科目を履修するにはそれまでに蓄積した学力が求められます。この場合の学力とは単なる知識を指すモノではなく、それに基づいての思考能力も含まれます。 本質的な意味での「学力」は自らが学んだ学問領域の成果をどの様な形で社会へと還元していくかを問う力です。「私はテストで高得点を取りました、だからこの会社は私を採用すべきです」などと会社の面接で主張しようものならば、その場で追い返されることも明白です。またそうした人間ばかりが集まった会社には将来への伸長性は望めません。 人間は学ぶことによって成長する生き物であることを先ずはお考えになること奨めます。
- born1960
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そもそも、小中の義務教育以上の高校は個人の自由でいくものです。 で、授業が必要ないと思われる人は行かなくていいわけですね。 自分で勉強し、大検を受ければいいわけです。 もっとも、そんな人が何のために大学へ行くのかよくわかりませんが(笑) もしも高校の授業に出る必要がないと思ってる人が、大検をとって大学入試に合格し・・・そういう人は大学の授業に出る人なのでしょうか? ようするに、最終目的が良い企業に就職したいのであれば、高校、大学で最小必要単元の授業に出席するという「社会性」がなければ、企業は採用してくれません。 なので、自分自身で起業するなり、自分の才能で勝負できる芸術家(音楽・美術・文筆業)などは、高校以上の学歴は必要ありません。
- tanuki4u
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ある一定以上のレベルの プロダクト(卒業生)を産み出すのに効率的である。 ということで、この150年くらい一般化しているのが、学校教育システムです。 効率的というのは社会全体としてのコストであり、個別に「高コストでもかまいません」というのを許しているのが、イギリスとかの貴族が「パブリックスクールまでは、家庭教師に習いました」というやつ。 苦手強化等もはかりやすくなるため利便性 というコストが高いので社会全体としてのシステムとして学校教育システムを導入している。
- sanori
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こんにちは。 もしも、特殊な事情がない大半の児童や学生に、授業への出席義務が課されなくなったらどうなるか、ということを考えてみるとよいと思います。 人間というものは選択肢があるとき、楽な方の道を選択しやすい傾向・性質があります。あなたのようにそうでない人もいますが、一部です。 ちなみに、最近ですが、校則や法律などのルールの必要性についての作文のアイディア出しに困っていた学生に対して、ヒントとしてこんな感じの回答をしました。 ・見通しの良い田舎の交差点で、歩行者もクルマもいないのに、赤信号でなぜ止まらないといけないのか。 ・19歳まではタバコを吸ってはいけないが、20歳になった途端、1本どころか毎日何十本も吸ってもよくなるのはなぜか。