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ゆとり教育からのつめこみへの回帰
ゆとり教育からのつめこみへの回帰 ゆとり教育によって学力が落ちたことの反省として、教科書が厚くなったり、授業時間が増えたりしていますが、結果的に詰め込み教育になっているのでしょうか? そもそも、学力が落ちた原因はゆとり教育になり、教科書が薄くなったからですか? 何かもっと複合的な原因があるように思うのですが、どうなんでしょうか?
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>永山則夫の番組を以前見て驚きました。小学校もろくに行っていなかったのに、監獄で数千冊の本を読み、独学で、英語の原書を読みこなすまでになっていったのです。この例についてはどう考えられるのでしょうか? ここに解答の一端が出ているのではないですか。昔から「習うより慣れろ」と言います。永山則夫は数千冊の本を読み、習ったのではなく、文章や物の考え方に徹底的に慣れたのですね。だから、人を説得させることができる文章が書けるようになった。彼がもしそれだけの本を読まずに、物の考え方や表現力に関する思索だけを監獄でしていても、テレビドキュメントを作ってみようかと思わせる人には成れなかったと思いますよ。 質問者さんは、どうも大人になってしまったご自分を中心にばかり見て、子供も大人と一緒だとの思い込みで物が考えられているように思えます。大人としての貴方にとっては貴方の理屈は全てその通りだと思いますが、子供が大人とは違うのだと言う視点が完全に欠落しているように見えます。 貴方はお子さんとトランプの神経衰弱という遊びをしたことがありますか。自分の番が来たら裏返しにしたトランプを二枚めくって、同じだったら自分の物にでき、違っていたら元通り裏返しにして、相手の番になる遊びです。この遊びは大人は子供には決して勝てません。子供は大人になったら最早失われてしまった能力をまだ持っているのです。大人は動機がなくては中々物を始めたり努力したり出来ませんが、子供には動機なしで努力できる才能が在ります。ですから、この記憶力抜群で、かつ動機なしで楽しめると言う子供にだけ与えられた才能を十分に利用して、いろいろなことを詰め込んでやることが、大人よりも遥かに本人の負担を感じさせずに可能なのです。例外的な子供を除いて、大人に取って「詰め込み」と感じていることが、子供に取って詰め込みではないのです。 >学力とは、3.14を知っていることでは必ずしもないと思うのです。 いえ、円周率が3ではなく3.14と知っていることが学力なのです。そしてそれを知ることは単なる基礎的な知識ではありません。九九を一々自分で計算しないで暗記しておけば良いと言う知恵も単なる基礎的な知識ではありません。そのような知恵や知識は人類が石に齧り付きながら血の涙を流しながら長いあいだ弛まない努力の結果手に入れて来た物です。例えば私達が日本語で普段会話をする時に使われる単語の数はせいぜい2千語ぐらいだと思います。ところが、多分一生一度も貴方の口から言葉として出て来ないかもしれない日本語を貴方は万の単位で知っているのです。そして、その一生使われなかった巨大な単語を貴方の裏に持っていることが、貴方を厚みのある人間にしてくれているのです。自分が口に出して使うだけのたった2千語の日本語しか知らない貴方を想像してみて下さい。人によっては一生その知識を使わなくても、3.14を知っている、三角関数を聞いたことがある、惑星と恒星の違いを知っている、ハンガリーの首都がブタペストだと知っている、そう言う一見何も役に立たないように見える知識や学力の総体が、貴方を厚みのある貴方たらしめているのです。 私は子供たちにその厚みを付けてやるために、なにも永山則夫のように監獄に入ってからはじめて「慣れる」ことを経験させてあげるのではなく、幾らでも知識が詰め込める子供のうちに大いに珠玉の知識を詰め込んであげて、大人になった段階で考え方や表現力を自分で「習う」ことが出来る人間にしてあげることが、大人達に与えられた義務だと思います。 貴方も今まで生きて来て、所謂「目から鱗が落ちる」と言う経験を何度もして来ていると思います。そのように、物の考え方だ表現力だと何度理屈を聞かされても、経験をしなくては判らないことが一杯在りますね。だから子供に理屈を教えるよりも、知識としての経験をさせなくては行けないのです。要するに、 「お若いの、くだくだ理屈を述べてないで、黙って言われたことをやっていろ。そうしたら、お前がそのうちに自分で物が考えられる人間になれるんだから」 というのが、大人の役割だと思います。だから、ときどきは適度に理屈を教えても、あまり理屈ではどうのこうの言い過ぎずに適切な教育ができる大人の存在が子供達に取って重要なのです。 >家庭間格差については、よく言われていますが、金がなくてもいろいろ工夫はできると思います。金がすべてだという言い方には、多少違和感があります。 「衣食足って礼節を知る」という言葉が在りますね。ですから、金銭的に余裕のある家庭の子供ははっきり有利なのです。また、この言葉の重みを咀嚼して下さい。家庭に余裕がないと、いろいろ工夫はできなかったということを人類は繰り返し経験して来たからこそ、この言葉が金言として残ったのですね。
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- yuukiyuuki
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>ただ、例えば円周率を3.14にしようが、3にしようが、あまりたいした違いではないはずですし、四則演算に習熟すると言っても、本当は学校でやる時間などそんなに多くはありません。 >また、日本の小学校の6年生で学ぶものを外国の同学年でやるかどうかは、多分検討の余地があるでしょう。ある一定のことを学ぶのに2,3年の年齢のずれがあることが、そんなに習得や理解と関係するとはどうしても思えないのです。なにか、これについて、実証的なレポートなどはあるのでしょうか? その主観的な思いに何も言えません。 そろばん暗算一級でインド式九九(二桁×二桁)も出来ますが r*r*3.14をせずに四則演算を習熟できたなんて思えません。 近似値を3.14でなく22/7でなく、3でしかも電卓OKで済んだ人間と インド式九九が出来る人間と等価であるとも思えません。 手元に香港の教科書がほぼ全部そろっていますが各学年で 日本でいう「力の5000題」みたいなワークブックを配布しているようですね。 かなり歯ごたえのある問題ですね。 そろばんやると空中にそろばんのタマが浮かび、その空中のタマを動かして計算したり 二桁*二桁の九九を早くできたり、分厚いワークブックと共に授業を受ける子どもと 単純な計算しかさせられない子どもが同等とかも思えません。 そして単純な計算や手続きしかできない人間がその先どこで伸びるのでしょうか? まず、複雑な計算や手続きに慣れてもらう必要があるだけで、手間がかかるだけです。 大学で分数を教えるなどと言う話も聞きますが、この大学生は伸びるのでしょうか? ゆとり以前でも核物理学の入門や開平法(ルートの筆算)、ディメンジョンなどどんどん切られています。 心理学的な知見を知り世界の教科書と昔の教科書など見比べていますが 「いつでも挽回できる」代物とも思えません。 私は科学の先につながるような体系を再構築し、なおかつ子どもに受け入れられるようにする教授法を考えていますが どうやら質問者さんと合わないようですね。 >クラスの下位の生徒の学力に見切りをつけてしまい、上位の生徒に焦点を当てた結果、上 位の生徒もダメになりつつあるのが現状ではと思うのです。 下位の生徒に合わせたのがゆとり教育ですよ。 この辺りの認識も違うようですし、私からはもう何も言えません。 同じ質問に答え続けるのも何なのでこれで失礼いたします。
補足
ありがとうございます。 ただ、たとえば円の面積を求める必要は実際の仕事でよくあり、その時、3.14を使うのと3を使うのでは、概算段階ではほとんど結果に違いがないため3を使うということです。半径10mの場合、面積は、 1.10*10*3.14=314 2.10*10**3=300 であり、誤差は14平方mでしかありません。率にすれば5%ほどです。そのため、実務においては、ほとんど3を使っているという話も実を言うと聞くのです。 インド式九九にしても、そんなに効果があるのなら、なぜほかの国では取り入れていないのでしょうか?または、ひょっとして、自分が知らないだけで、他の国でも取り入れているのでしょうか? 基礎としての漢字の読み、四則演算などの大事さはよく分かります。しかし、それが定着しないことと教科書が薄くなったこと、授業時数が週5時間から4時間になったことなどがそんなに関連があるとも思えないし、現在の低学力に大きな影響力を与えているとは思えないのです。 >心理学的な知見を知り世界の教科書と昔の教科書など見比べていますが「いつでも挽回できる」代物とも思えません。 いつでも挽回できるとは自分も思っていません。ただ、小学校から中学にかけて、数年のずれが大きな意味を持つとは思えないということなのです。漢字の多くを小学校で学ばずにいれば、それは、小学校時代で本をほとんど読まないことになりますから、大きな影響を与えることになるでしょう。ただ、漢字の数が500から300になっても、あまり影響があるとは思えないということなのです。 >私は科学の先につながるような体系を再構築し、なおかつ子どもに受け入れられるようにする教授法を考えています。 科学の先につながるという意味が今一つ具体的に理解できませんが、多分仰る意味に自分も賛成です。そういった再構築が必要だと自分も思います。 いろいろ回答をしていただき、それに対して自分でも考えて、また新たな視点が浮かんできました。現在の低学力は、社会的な体制と関連があるのではないかというものです。昭和の時代は、技術が目に見えていました。真空管などはその典型で、電気回路をそのまま実現したのが真空管であったように思うのです。しかし、今、IC、それもLSIは、あまりに集積が進み、そこに実現されている論理も、膨大ですし、書き換えができ、LSIそのものがソフトで動作を変化させることが可能になっています。中には、ダイナミックにインターネットを通して書き換えができるようになっているものも多い様子です。 こういう状況の時、自分自身の感覚がある意味頼りにならなくなり、権威に頼るようになっているのが現状ではないでしょうか?権威に頼る結果、自分自身の力を高めるよりもその権威との関係性が重要になり、結果的に権威に盲従することになる。 これが、東大薬学部の2年生が6×3-4÷2=( )という問題ができなかったり、東京6大学の学生30人ずつにやらせて14%もの学生ができなかったという週刊朝日の今年2月の記事につながっているのではと思うのです。 究極的な意味での知性の検証が現実にはどんどん個人にはできなくなりつつあり、その結果が権威に盲従することになっている。そして、それが、知性の弱体化を招いているのではと感じるのです。
- yuukiyuuki
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>永山則夫の番組を以前見て驚きました。小学校もろくに行っていなかったのに、監獄で数千冊の本を読み、独学で、英語の原書を読みこなすまでになっていったのです。この例についてはどう考えられるのでしょうか? 心理学の知見というのは95パーセントがそうなら正しいと言えるのです。 残りの5パーセントはその論文では汲みきれない「何か」があるのでしょう。 数千冊読み独学で原書を読みこなすことの似たことがごく日常で普通に観察できるのでしたら 一般論として論じられますが そうでないならただの特殊例です。 それがなぜ特殊なのか汲みきっていない以上他者に「後からでも挽回できる」というのは危険なことです。 また 他の感性を会得すれば、別の感性の習得ができなくなるなどの発見されています。 詰め込むことが完全なる悪という風潮がありますが 考えれば考えるほど習得が遠くなることもあります。 これは心理学の書物からわかるだけでなく 科学の分野でも万有引力や無限大や性の抑圧という概念を受け入れなかった科学者は ガリレオやカントールやフロイトを執拗に攻撃しました。 普遍と受け入れられた知見から飛んでいるから これらの新しい感性を習得できないのでしょう。 年齢を重ねて、自分の中で結晶化した知見とつながらない話は受け入れられないのです。 重ねて言いますがこの話は心理学のみならず科学の発達の歴史からわかります。 だから早めに慣れさせる必要があるのです。 質問の形を取っているようですがもうすでに質問者さんの中で結論は出来ているのでしょうか? そうでしたら私からは何も言うことはありません。
補足
ありがとうございます。 自分で結論が出ているわけではありません。そういう印象を与えてしまったのなら申し訳なく思います。 ただ、例えば円周率を3.14にしようが、3にしようが、あまりたいした違いではないはずですし、四則演算に習熟すると言っても、本当は学校でやる時間などそんなに多くはありません。 また、日本の小学校の6年生で学ぶものを外国の同学年でやるかどうかは、多分検討の余地があるでしょう。ある一定のことを学ぶのに2,3年の年齢のずれがあることが、そんなに習得や理解と関係するとはどうしても思えないのです。なにか、これについて、実証的なレポートなどはあるのでしょうか? 現在のいわゆる低学力について、自分は、非常に危機感を持っているのです。そして、みなさんが低学力というものをどう捉えられているのか知りたいのです。 低学力問題はどんな形で表れていて、その原因はどんなものがあるのか、それを知りたいのです。 学力とは、3.14を知っていることでは必ずしもないと思うのです。もちろん、基礎となる、ものを単に記憶する力、足し算や引き算を即座にやる力などを鍛える必要があるのはよく分かります。そして、その部分が崩れると、いわゆる学力は付きようがないのも事実でしょう。しかし、それが単に教科書が薄くなったからとか、授業時間が少なくなったからだとは、どうも思えないのです。 学力の基礎が崩壊してしまったのは、何かもっと違う理由があるのでは、そして、だからこそ、応用力、読解力などが重視され、結果的にそれらもダメになりつつあるような気がするのです。つまり、現象的に言えば、クラスの下位の生徒の学力に見切りをつけてしまい、上位の生徒に焦点を当てた結果、上位の生徒もダメになりつつあるのが現状ではと思うのです。 ただ、では、なぜ、下位の生徒が見放されたのか、上位の生徒はなぜ伸びないのか、果たしてこれが低学力というものの正体か、そういった疑問が尽きないので、皆様のご意見を伺いたいのです。
- yuukiyuuki
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>それに、そもそも、低学力の生徒ほど、伸びる余地が大きいので、教育がうまく行っていれば、入学時の低学力はかなり改善するものです。 そんな話はありません。 低学力の生徒ほど伸びる余地は小さいです。 空間把握などは幼少期に伸びるのですが、これが10才を超えるとかなりの努力を要します。 後になるほど、伸びるのに努力が必要で、失敗も多いです。 いつでも同じように能力が付くものではありません。 ゆとり教育で不等号や方程式が後回しになりましたが 後になるほど苦労するでしょう。
補足
ありがとうございます。 低学力の生徒ほど伸びる余地が少ないとは思えないのです。一定の感覚があれば、あとは環境と努力次第でいくらでも伸びるのだと思います。 そもそも、学力とは何かという問題があります。学校の成績がいいことが学力だとは、どうしても思えません。 永山則夫の番組を以前見て驚きました。小学校もろくに行っていなかったのに、監獄で数千冊の本を読み、独学で、英語の原書を読みこなすまでになっていったのです。この例についてはどう考えられるのでしょうか? また、あとになるほど方程式や不等号の理解が難しくなるとは、思えません。発達心理学の見地から言って、特定の発達段階で特定の能力が付くのは事実でしょうが、方程式や不等号の理解が数年の期間で早まろうが遅くなろうが、影響があるとは思えないのですが、なぜ、遅くなると苦労すると言えるのでしょうか?
- Saturn5
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ゆとり教育は骨太であれば理想できなのですが、そうでないのに 無理矢理「ゆとり」を作っているのが問題だったと思います。 大きな欠点は以下の2つでしょう。 (1)反復練習より考え方を重視 九九、四則演算を軽視して、考え方を重視しています。 考え方は算数(数学)で最も重要なことではあるのですが、 四則計算ができないと正しいアプローチが見えてきません。 (2)読み書きより表現力の重視 国語では読み・書きではなく「表現力」を重視しています。 しかし、これは基本の読み書きのうえに成り立つことです。 上記は、学習指導要領を作る文部科学省とそれを適用する 学校の問題でした。 しかし、一番大きな問題は家庭の問題です。 ゆとり教育になる以前から比べると平均的な学力の低下よりも 学力の二極分化が進んでいる印象を受けます。また、それは 保護者の経済力とかなり密接に関連しています。 小。中学校が週休2日制になって、裕福な家庭の子弟は 塾やサッカー教室などの自分にプラスになる学習ができますが、 そうでない家庭の子は暇つぶしにゲームセンターに行ったり、 しかできません。これが長期間になれば大きな学力差になって いくのです。 教育は平等であるという基本理念から、以前のように土曜日も 学校を開くべきです。労働条件の問題で、例えそれが無理でも、 土曜・日曜は地域の子供達にプラスになるような講座や運動場の 解放があるべきだと思います。
補足
ありがとうございます。 結構お詳しいかたのようですね。 >ゆとり教育は骨太であれば理想できなのですが、そうでないのに 無理矢理「ゆとり」を作っているのが問題だったと思います。 ここでいう「骨太」とはどういうことですか?よく小泉純一郎政権で「骨太の方針」とか表現していましたが、実質的な意味はないような印象を受けていました。教育における「骨太」とはどういう意味なのでしょうか? 考え方や表現力の重視は自分はよいことだと思います。また、それを支える四則演算の反復練習や漢字の読み書きも確かに重要でしょう。ただ、基礎を充実とだけ言っていも、単に時間を多くとればいいのかという問題もあります。考え方や表現力の重視とは、一定の方法論、つまり、教科書の工夫が伴ったものではなかったのですか? 家庭間格差については、よく言われていますが、金がなくてもいろいろ工夫はできると思います。金がすべてだという言い方には、多少違和感があります。 ただ、土曜日の学校開放はいろいろ工夫の余地があるのは同感です。
- yuukiyuuki
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そうですね。 昔なら進学できなかった能力の持ち主まで 高校大学にいって平均を下げているというのがあると思います。 それが「学力が落ちた」原因の一つと思います。 あと、教育というのは一人前の学力(工場の工員でもQC活動で文章作成・数的処理など学力を必要とするものがあります)をつけることが目的で 今のゆとり教育で一人前になれるかどうかあやしいですね。 世界に誇る一人前の教育を目指すならその分量までは教科書を厚くするべきでしょう。
補足
ありがとうございます。 能力はふつう誰でも学校教育に関しては十分に持っていると考えているので、昔に比べて多くの若者が進学しているから低学力になったとは思えません。 それに、そもそも、低学力の生徒ほど、伸びる余地が大きいので、教育がうまく行っていれば、入学時の低学力はかなり改善するものです。 また、学力測定に使われている資料は普通小学生から中学生です。高校生のものが使われることもありますが、そんなに多きな比重を持っていない様子です。 もっと学校とか塾の現場からの、具体的な話をお聞きしたいのですが。
補足
ありがとうございます。 なかなか本質を突いたお答えですね。なるほどなと感じました。 >「お若いの、くだくだ理屈を述べてないで、黙って言われたことをやっていろ。そうしたら、お前がそのうちに自分で物が考えられる人間になれるんだから」 確かにそういった面があるのはよく分かります。そして、仰る通り、子供には理屈なしにものを楽しんで覚えていく能力があるのもわかっているつもりです。何々ごっこをやって楽しむなどはまさにそういう能力ですから。 ただ、自分が漠然と感じている低学力は、どうも、そういったものではないような気がしているのです。低学力という形で質問を始めてしまったことがある意味、うまくなかったのかもしれません。 社会全体の知性への信頼の崩壊とでも言いましょうか、単なる短期的な利益優先の姿勢とでも言いましょうか、そういったものが自分の感じる低学力という問題なのかと、今、思い直しています。 学力を「生きていく力」と定義し、それに対して学習指導要領が作られていきましたが、現実には、夢を思い描けとだけ強調され、現実の生活を分析するすべはほとんど取り上げられなかったはずです。 様々な知識を持っていることが、思考の厚みを出すということはよく分かります。しかし、本当にこれで幸福なのか、これでいい状態なのか、といった視点が欠けているように思うのです。人間が集団でいるとき、その集団で自然に守るべき規則が決まっていくはずです。それが基本的には正義というものでしょう。 しかし、現代は、その正義という感覚さえ偽装されているというか、インチキになっているように感じるのです。サブプライムローンの問題などがその典型で、あれは大掛かりなアメリカ財界による世界中の国々に対する詐欺であったように思うのです。しかし、実際はそういったことが問題視されない。このような風潮が、現代の知性の衰退を招いているように思うのです。 別の言い方で言えば、教育と現実に生活を作っていく力、判断力のようなものが分断されているということなのかもしれません。 >「衣食足って礼節を知る」という言葉が在りますね。ですから、金銭的に余裕のある家庭の子供ははっきり有利なのです。また、この言葉の重みを咀嚼して下さい。家庭に余裕がないと、いろいろ工夫はできなかったということを人類は繰り返し経験して来たからこそ、この言葉が金言として残ったのですね。 確かに有利ということは全体としてあるのでしょうね。そして、貧しさが世界の歴史を振り返ったとき、いろいろな困難を招いてしまったということは、よく分かっているつもりです。戦前、日本陸軍が戦争に走ったその一つの原因は農村の貧しさにあったことも、ある程度は実感しているつもりです。 しかしだからと言って、金銭的な貧しさがすべてではないように思うのです。最も重要な要素はべつにある。多分それは母子関係、または、家庭関係のようなものではと思うのです。確かに、貧しさが小学校から学校へ行くのではなくて労働に結びつくような場合、「衣食足って礼節を知る」ということに結びつきにくいのはわかります。しかし、日本の現状は、多分、かなり異なると思うのです。 日本の現状を見た場合、いわゆる一般市民よりもエリート層にこの低学力問題が象徴的に表れているような感覚があります。 高学歴なものが却って知性を裏切っているというか、そういったことが実際には起こっているのではと思うのです。 知性はモラル、または、一種の感覚によって支えられるものだと以前は考えていたのですが、現代は、感覚そのものをだます技法が格段に進歩した結果、モラルや感覚と言ったものに頼るだけでは知性が機能しなくなりつつあるのではと感じるのです。そして、知性こそが人間を人間有らしめているのならば、現状は、かなり良くない方向に進みつつあるのではと思うのです。 何か、教育制度とか、教科書の厚みとはかなり離れた話題になってしまったのですが、小学生から大学生に至る人々の勉強に対する姿勢というか勉強というものをとらえるその仕方が、上に述べたようなことを反映しているように思うのです。