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応援の哲学

昔から、少しだけ疑問に思っていたのですが、それはプロ野球の応援団のことです。彼等の応援の流儀は、余り好きになれません。とにかく、うるさいと思います。観客は、彼等の騒音は気にはならないのでしょうか? 北朝鮮の美女軍団なんかも、観客は、応援団を見に来たわけではないと思うのですが、選手よりも目立っている気がします。 選挙の応援に対しても何だか腑に落ちないものを感じています。特におばさんや年寄りの人に多いと思うのですが、投票のお願いをする心理が分かりません。 そこで、応援の哲学的な意味について、何か見出せないかと思い質問しました。 まだ私の中で上手くまとまっていませんが、以下のような感じを手がかりにお願いします。 応援とはそもそも何か? 応援の手段は制限されるのか? 応援とナショナリズムの関係は?

質問者が選んだベストアンサー

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  • corpus
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回答No.4

応援とは一人ではできないのでしょうか?一人でするのはそれは祈りだったんですね。もしかしたら、私は勘違いしていたかもしれません。みんなで一斉にやる応援というものが違和感を感じるということだったんですね。私もどちらかというとみんなで何かするというのは好きではないのですが、どこかでつながっていたいと感じるのもあるような気がします。最初のうちは一人で大声を出すよりも多くの人で声を出したほうが相手に届くという原始的なやり方だったのかもしれませんが、今の応援はそれだけではないような気もします。心理学で同調というものがあります。アッシュの実験というのが有名です。調べてみてください。面白いと思いますよ。それからSYNCという本も面白いです。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 アッシュの実験ですか、調べてみます。 私が応援が嫌いなのは、何か権威主義的なものをそこから感じるからかもしれません。 選挙とかで、テレビの音が聞こえないと、いらいらします。 選挙の応援の仕方も進歩しないんのだろうか。 今の選挙の応援の仕方はどれくらい有効なのだろう? みな応援好きなのかな。

anima-mundi
質問者

補足

アッシュの同調実験、興味深いものでした。違和感を持っていても周りを見回して誤った判断をしてしまう人の何と多いことか。確か、水木しげるの作品だと思いますが、一つ目の国のお話を思い出しました。 養老猛司の逆さ眼鏡でも買いに行くかしら。

その他の回答 (4)

noname#14582
noname#14582
回答No.5

スポーツを真剣にやった経験はありますでしょうか? スポーツにもよるとは思いますが、 たくさんの人の声援が耳に入るのはとても励みになります。 男性のスポーツマンもきれいな女性たちに応援されると張り切るといっています。だから美女応援団とかチアリーダーなんかがいるのではないでしょうか。 またある大学の運動部で補欠メンバーに応援に力をいれさせたところその部は成績を上げたそうです。 これらに大してスタンドでそれぞれが声もなく祈るというのは実際のところ選手には届かず何の力にもならないのです。 たとえ応援している人たちが自己満足で応援していたとしても、声や音を出し選手の耳に入れば選手は応援されていると実感を持ちます。 チアリーダーや応援団は直接選手に向けての応援もしますが、お客さんに対して「一緒に応援しましょう」ということのほうに重きをおきます。 気持ちよりも応援規模の大きさの方が実際の効果につながるからです。 応援は気持ちというよりも策略ですね。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 部活でスポーツをやたっことあります。 しかし、応援によって結果がどうのこうのというのは、選手個人の気持ちとして決して納得できるものではありません。北朝鮮の美女軍団のおかげで選手達が活躍しているとも、到底思えません。 ナチス式の敬礼を行う運動会… 全体主義的な部活動教育… うるさい野球の応援団… うるさい選挙カー… 不祥事、リコール、裏金作り、みんなで応援。みんなで隠蔽。 個人の倫理よりも組織への忠誠心がこの国の形を決めてきたのかな。 個人の正義よりも組織の正義を応援する風潮、何か嫌だわ。 一億一心火の玉になりて、ぼくは竹やりをもち天を指す。 大企業にはもだまだ不祥事が眠っている。 寝た子を起こすものは非国民と呼ばれる日が続くある残暑の昼下がりのこと。

  • corpus
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回答No.3

スポーツをしたい人がいるから、それにつづいて応援をしたい人が現れるのか?それとも、自分が応援をしたいがためにほかの人にスポーツをさせるようにしむけるのか? 将来、スポーツをするロボットは現れるか?将来、応援をするロボットは現れるか?どちらを人々は望むのか? 私は応援ロボットは出ても応援する人は消えないと思います。どちらかというとスポーツロボットのほうがスポーツをする人を滅亡させるように思います。(これには異論があると思いますが…) 応援をすることによって勝敗が変わるか?勝敗には無関係である。それではなぜ応援をするのか?それでも勝敗に関係のある気がするからである。ここに占いと似たものを感じる。予測できないことには脚色を加える。予測できないからといって何も出力しないのではない。 応援(チアリーディング)の大会があります。これは普通に何かを応援するときの応援と本質的に違うものか?何かが違う。しかし物理的運動は同じではないか?それでは、物理的運動によって応援を記述することはできないのか?応援は心の状態か?私は交通事故を起こすことによって野球の応援をすることはできるか?応援は社会的な約束のもとにあるのか?この仕方は応援ではない、これこれは応援である、など。日本では少なくとも交通事故を起こすことによって野球の応援をできないが、ある社会ではそれが応援になってしまうこともあるのか?論理的には可能である。しかし、どんなことをしてもそれは応援になるのか?応援をしないということが応援をすることだ、というような。あるいはまさに自分が選手になることによって応援をする、というような。どうも応援にも制限があるような気もしてきました。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 私は生まれてこの方、応援というものに参加意識を持ったことがほとんどありません。 私の中では冷めているのとも少し違うのですが。 応援よりも、人のために祈るような気持ちの方が、私としてはよりフィットする。 みんなで何かをすることがとことん嫌いな、戦後生まれの奇形? 個と社会が分離した共産主義者か社会主義者? 伝統や社会とのつながりが希薄なのは、戦後教育のせいか、それとも親の放任教育のせい? 細木数子の唱える儒教的な道徳が流行る今日この頃。 一種の宗教の代替として道徳おばさんが、何年かおきにテレビに現れる。 ギボ愛子にも細木にも共感を覚えるが、かといってそれに従うのにも苦痛を覚える。ここまできたら、そんなもので楽をしたくないと言う意識。今さら従いたくないのよ。 封建的、儒教的な道徳や社会風習に従うことで、アナーキズム魂が汚染される気がする。時間と供に考えない大人になるのが嫌や。だけど思考停止の快楽の誘惑はとても強い。易きへ流れるエントロピーかな。

回答No.2

>応援とはそもそも何か? 自分が好きなチームを応援するということは、つまり自分自身を応援している錯覚だと思います。自分が応援するチームが勝てば気持ちいいし、負ければ悔しくなるし、それは自分の責任がないお遊びのように見えないこともないです。自分自身の人生で、自分の責任を持って闘うのではなく、遠くから見てその緊張と戦いを楽しむ…。本当は、もっと自分の人生でも頑張りたいのに、それができない。その代わりをスポーツで我慢する…。そう皮肉なことも言いたくなります。 >応援の手段は制限されるのか? 応援も過ぎると、試合自体に支障をきたすので、そのときは制限されると思いますよ。サッカーとかよくありますよね。 >応援とナショナリズムの関係は? ナショナリズムは、応援というよりか、集団性の問題だと思います。一致団結!ですよね。自分たちがよければいいという狭い考えに近いと思いますよ。 これだけ騒いで、大げさに金かけて、盛り上げているんだから、頑張りなさいよ!という気持ちがあるのかな。とにかく盛り上げればいい…というよりも、自分が盛り上がりたい、日頃のうっぷんをはらしたい、ストレス解消したいという気持ちがあるのかもしれません。 テニスにしても、ゴルフにしても、アメリカの野球にしても、日本の野球に比べたら全然静かですよね。もともとスポーツは、神聖な儀式の延長にあると言われています。そういう歴史がある西欧は、スポーツは静かに観るものであり、儀式ゆえに厳格なルールを守る背景があると僕は思います。 それに対して日本には、そのようなスポーツの歴史はほとんどないし、(あるとしたら、たとえば流鏑馬とか剣道とか)スポーツというより祭りの感覚だと思います。昔に比べたら、確実に祭りは少なくなっているだろうし、西欧の個人主義社会に比べて、日本は昔から集団を重んじる民族&歴史があるゆえか、チームになって戦うことを望むような感じがします。昔でいう戦合戦みたいな…。(戦後の高度成長もそのような心理があるように思います、一致団結!みたいな) 野球やサッカーとか、スポーツという名のゲームを祭り感覚で楽しみ、日頃のストレスを発散し、自己投影で錯覚を楽しみ(映画とかも同じ心理ですよね)、そしてまた同じような日常生活に戻っていくんでしょう。やはり、現代の祭りだと僕は思います。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 政治はマツリゴト、日常の破壊と再生。 古代の祭祀も非日常の演出。 非日常も毎日続けば退屈。気分はもう戦争。 昔も今も、退屈との戦いの中で生み出される刹那のきらめきのようなものなのかしら。 娯楽に溢れ、道楽三昧な退屈な日常。劇鬱。 飲む、鬱、飼う。 養老猛の本に確か次のようなことが書いてあったような…「ほとんどのサラリーマンは退屈な日常が破壊されればいいのにと望んでいる」 退屈な日常と戦争とナショナリズムの関係…

回答No.1

例えば高校野球で地方大会では 自分の出身校を応援して 甲子園では地元の県のチームを 応援します。 オリンピックでは日本を応援するでしょう。 結局は自分なんです。エゴです。 自己を投影しやすい選手、チーム、芸能人を 応援することによって、その人が勝つと 自分が勝ったように錯覚して快感を得るんです。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 騒音おばさんも、肥大した自己とでも呼ぶべきもののなせる業なのかしらん。 日本人は、比較的に応援が好きな国民性なのかな。 スポーツにおける熱狂と自意識の過剰、拡大に残暑の厳しさを覚える今日この頃です。 異臭おじさんに、騒音おばさん… 応援おじさんにも彼等に近い美学を感じるのは気のせいかしら。

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