デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった
次の議論が 《コギト 〔エルゴ〕 スム》のアンチョコだった。どうでしょう?
▲ (アウグスティヌス:《欺かれるなら われあり) ~~~~~~
『神の国』 第11巻 第26章
――人間精神の中に見られる三位一体の似像・・・存在・知識・愛――
わたしたちはたしかに わたしたち自身の中に神の似像(イマゴ・デイ) すなわちかの至高の三位一体の似像があることを知る。それは神の造ったものの中で神にもっとも近いものである。それはむろん神と等しくなく それどころかはるか遠く離れて 神と等しく永遠であるのではない。要約して言えば神と同じ実体ではない。けれども それが更新されて完成を目指すとき いっそう神に似るものとなるのである(*1)。
すなわち わたしたちは存在し その存在を知り かつその存在とその知識とを愛する(*2)。わたしたちはここにあげた三つの実在(存在・知識・愛(*3))に関して 真理の仮面をかぶった虚偽によって惑わされることはない。なぜなら わたしたちはこれらを外界のもののように 身体の感官によって接触するのではないからである。例えば 色は目で見 音は耳で聞き 香りは鼻で嗅ぎ 味は舌で味わい 硬さと柔らかさは手で触れて感じ取り さらにまた これらの知覚対象と同じではないが しかしこれらに酷似する映像に思考を向け 記憶によって保持し かつその映像をつうじて知覚対象への願望が呼び起こされるのである。けれども わたしが存在し わたしがその存在を知り愛するということは こうした実在的な像や非実在的な像(*4)をもとに遊び戯れる想像作用によっては 全然確実ではないのである。
これらの真なる実在に関して わたしはアカデミア派(*5)の議論を少しも恐れない。彼らは言う。《もしきみが欺かれているとしたらどうか》と。しかし もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在する( Si enim fallor, sum. )(*6)。なぜなら 存在しない者が欺かれることは まったくありえないのだから。それゆえ もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在するのであるから どうしてわたしが存在するというそのことについて欺かれるだろうか。というのも わたしが欺かれるとき わたしが存在するのは確実なのである。したがって 欺かれるわたしが たとい欺かれるとしても存在するのであるから わたしが存在することをわたしが知っているというそのことで わたしが欺かれていないことは 疑われない。
ここからしてまた わたしが知ることをわたしが知っているそのことにおいても わたしは欺かれないのである。すなわち わたしはわたしが存在することを知っているが そのようにまた わたしが知るというそのこと自体をも わたしは知っているのである。
そこでわたしは この存在と知識との両者を愛するとき この愛を同じ価値を持つ第三のものとして わたしの知っている両者に加える。というのも わたしがわたしの愛するものにおいて欺かれない限り わたしが愛するということは欺かれないのである。またたといその愛するものが真実でないものであるとしても わたしが真実でないものを愛しているというそのことは真なのであるから。
そもそも わたしがその両者(存在とその知識)を愛していることが嘘であるとしたら わたしが真実でないものを愛しているといって批難されたり抑えられたりすること自体 まったく不当なことではないか。しかしかの両者(存在とその知識)は真であり確実であるから それらが愛されるとき それらに対する愛もまた真であり確実であることを だれが疑いえようか。
さらにまた至福であることを望まない人はひとりもいない(*7)ように 存在することをこばむ人もひとりもいないのである。なぜなら 存在しないならば どのようにして至福であることができるだろうか。
(泉治典訳(註もほぼ訳者による) 1981 )
*1:いっそう神に似るものとなる: 『三位一体論』14・12-19参照。《更新》= reformatio 。これは《新生 renovatio 》に続いて起こる聖化の過程として考えられている。
*2:その存在とその知識とを愛する: 『三位一体論』9・2-5参照。
*3:存在・知識・愛: これは 記憶・知解・愛(または意志)に対応すると考えられる。
*4:実在的な像や非実在的な像: 《実在的な像 phantasia / 非実在的な像 phantasma 》。いづれも直接の知覚像ではなくて 内的な再生像である。両者の区別については 『三位一体論』11・2・4以下 12・2・2参照。
*5:アカデミア派: 『アカデミア派駁論』2・4・10以下参照。ここに言うアカデミア派はアルケシラオス(前315-240)に始まる第二アカデミアをさす。
*6:Si enim fallor, sum.: デカルトのコギトに対比される有名な命題。『至福の生』2・2・7 『ソリロキア』2・1・1 『自由意志』2・3・7 『真の宗教』39・73 『三位一体論』15・12・21 『エンキリディオン』7・20など参照・
*7:至福であることを望まない人はひとりもいない: キケロの『ホルテンシウス』(『断片』69-70)の核心としてアウグスティヌスが学んだ命題。『三位一体論』13・3・6参照。
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お礼
正直どんなに言葉を慎重に宛がおうと努力しても、これを書いている時点での私の気持ちは表現に窮してしまいます。伝えられるか分かりませんが、ただ、現在の私はこれを読んで衝撃を受けている、ということだけが唯一確からしいです。 starfloraさんの考えに触れたのち、私はただ単に情報過多な世の中を要領よく生きる処方上であがきそしておどらされていただけなのかもしれない…そのように疑うようになった自分がいました。 そして、決して大げさな表現などではなく、たとえるなら「私が必死に探していた行方知れずの人の後ろ姿」をとらえられたように思います。(その人こそがstarfloraさんであるなどというおこがましい意味ではありません。) というのも、以前私はまさしくstarfloraさんの考えを、感覚的にではありますが体現できていた時期があったのです。それは8ヶ月ほど前までのことで、その期間自体は、ほんの2か月間かそこらというすずめの涙ほどの時間でしたが、20歳の私にとっても、ひときわ光り輝いていたといえるのです。毎日生きるのが楽しかった、などという陳腐なイメージではなく、もっと自分の中のもの―脳然り、血液然り、筋肉然り、五感然り―が鋭利に研ぎ澄まされ、私という実存を駆り立て、どこからか全てを見つめている見えない何か、を内にも外にも感じることができていたのです。 もう少し私のことについて語るのを許してください。(何度も書きますがけして自分のことを劇画チックに伝えようとしているのではありません。あくまで一番近い表現を模索した結果です。) 私が、そういう考えを体現できたのは、あるきっかけがありました。それは物理的刺激などではなくその逆、いわばお告げのようなものなんです。それは誰かといえば前述した私の父です。(私の父は私が高一のとき癌で他界しています。) 彼は何もいいませんでした。けれどなぜか怒って私を諭すかのような眼をしていたようです。その画は現在でこそ歪んでいるかもしれませんが、とにかく怒っていたということだけは覚えています。 因果関係はわかりませんがそれ以後しばらく私は、上述のような感覚を「捉まえて」いることができたのです。 こうしてstarfloraさんのような思慮深い他人を知ることができたことをとりあえず感謝したいです。私が恐れ、同時に憬れていたもの、それをこそ私が「忘れて」いたものだった気がします。 ※質問の内容からとことん外れてしまったこと、そして自己顕示欲丸出しのつまらない私的閉塞的なlong taleになってしまったことを詫びます。しかしここまで赤裸々に綴ったのは私なりのstarfloraさんへの精一杯の礼の形だと思ってください
補足
すみません。個人的に詮索したいというわけではないのです。 文面から察するにstarfloraさんはかなり成熟した大人の方だとうかがえるのですが、なにか特別な環境にいる(あるいは、いた)方なのでしょうか。便宜的処世術としての「生きること」と真理を純粋に追い求めようとするスタンスとをここまで言葉で表現でき、そして両方わきまえているような貴方のアイデンティティーが、その節々に見受けられます。 よろしければこの場をつかって、あなたがこれまで考えてきたことや勉強したことなど貴方が許す範囲で構わないのでいろいろ深い考えをご提示いただけませんか? ※質問―回答という構図を脱しているし、その必要も義務もないといわれればそれまでですが…。