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「ただ現在を生きろ」?
※このカテゴリでよいのか自分では判断がつきかねますので、もし何かお気づきでしたらご指摘ください。 「覚えていられないようなものは価値がない。どんどん忘れなさい。」 これは某ベストセラー本にある一節です。(文面は変えてありますが。) これが私には至極ひっかかってしまうのです。 ―「忘れてしまった、または忘れてしまっている、ようなもの」は自分の人生という大きなものさしの上では(長期的にみれば)価値がないものだ― 私はこのように解釈しました。つまり自分の記憶というものにも重要度に応じて 淘汰が起こりうるということでしょう。実際脳内神経のしくみからも、使われない回路(シナプス)はだんだんと消えていくのだそうですが。 しかし私は、単に電気信号が伝わらなくなったニューロン=自分にとって全く無価値であるが為、というのは当てはまらないと思うのです。本当は自分の求めている真理に触れているような大事な記憶であるのに、ただそれを永久保持するのが機能的に不可能なだけであって、一時期他のことに傾倒したばっかりに忘れてしまったことというのもあるはずではないのでしょうか?もしくはそういうことを考慮にいれてもやはり忘れたものはしかたがない、のでしょうか? それは個々の意思次第ともいえるでしょう。しかし、例えば義務的強迫的に覚えさせられたものの割合が高い人はこれに当てはまらないでしょう。 長文で申し訳ありませんが私にとってとても大きな命題なので意識してまわりくどく表してみたつもりです。こんな私の疑問にじっくり付き合ってくれる方の意見ぜひおまちしています。
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「現在を生きる」というこの意味が、どうもわたしの考えていることとはかなり違っているように思えます。また、貴方が若いからかも知れませんが、何を問題にして、何を問いかけているのか、どうも明確に分かりません。大脳の記憶のメカニズムなど、極端に言えば、この場合、どうでもよいことだとも言えます。 西欧中世のような世界であると、或る特殊な場や人々、時期を除いて、概ね、社会の変動は非常に緩慢で、文化や技術や知識や流通情報や流通物品なども、ほとんど数十年とか、数世紀という単位で緩やかに変化はしたが、あまり急激な変動というものはなかったのです。このような世界では、何を学ぶべきか、何を習得すべきか、何を覚えるべきか、何を心に刻めばよいか、何を価値あるものとすべきか、こう言ったことは、ほぼ自明的で、人生の生き方の技術というものは、大体、定まっていたと言うか、有効なモデルがあって、それに準拠して生きていればよかったのです。 しかし、現代のように、社会も文化も技術も流通物品も、流通情報も、知識も、世界観も価値観も倫理観も、何もかもが急速に変動し、状況が時々刻々変わって行く世界になると、良く生きるための技術とか智慧とか、モデルとかいうものは有効なものがなくなってしまうとも言えるのです。というより、実は、本質的に重要なものは、時代の状況や変動を超えて存在しているのですが、それが何か、見えなくなるし、分からなくなるのです。こういう世界では、処世の術は、くるくる変化し変動する状況に合わせて、次々に自分のありようを変えて行くというのが一つの方法としてあるでしょう。昨日有効であった知識や技術は、今日もう有効ではない。昨日そのやりかたでうまく商取引できたやりかたが、一夜にして崩れ、会社は倒産する。製造メーカーもどこにバグがあるのか分からない、というより、欠陥だらけのOSが、何百万と販売される。マニュアルを読みつつ覚えた操作方法や、機能や手順の名称が、新商品が発売になると、あっというまに別のものに変わり、また、新しいマニュアルを読まねばならないし、新しい用語や機能を覚えねばならない。印刷すると、千ページを越すマニュアルでも説明しきれない機能が付いたソフトが、多数販売され、それらが数年の内に別のものに次々に変化して行く。これはコンピュータの話ですが、ことはコンピュータのOSやアプリケーションだけではなく、大衆消費社会のなかで、作為的に過剰な情報を捏造し、商品を差別化と称して、くるくると入れ替わり立ち替わり消費者の前に提示し、欲望をかき立て、社会・経済・政治・技術・科学・情報の世界において、無数の明日になればすぐ別のものと取り替えられる物品や知識で溢れかえっているのです。そもそもこんな情報や物品、システムの氾濫などに人間は適用するようにはできていないのです。このような「空しい変化の氾濫する世界」で生きようとすれば、新しい情報や状況を受け入れるため、次々に過去の知識やスキルや規準や対応指針を絶え間なく変更させ、状況に空しくも追随し順応しなければならないでしょう。しかも、その順応も適応もすでに述べたように、一夜明けると通用しなくなって行くのです。従前の知識やノウハウでは把握できない新商品・新状況が、意図的に操作して作り出されているからです。 このような状況では、有効な知識は記憶に残っている、そうでない過去のものは、どんどん忘れて行くべきだ、ともなるでしょう。 人が自己の人生にとって何が重要か、生きる智慧とは何か、それらを、冷静に緩やかな過程で反省し、自己の心の課題とするのは、何か夢のような話にもなってしまっているのです。「人生の教訓」「生きる智慧」「何を支えとするか」「幸福を得るにはどうするか」「いま見直される仏法の真理」とか、出版社の営利目的としか思えない、それらしき低俗な本がまた氾濫し、「生きることの真の真実」の光を、氾濫する情報のなかに埋もれさせているとも言えるでしょう。 真に重要な価値ある「生の宝石の智慧」はどこにあるのか。それは限りなく探し求める「今の過程」のそのなかにあるのです。真に重要な、実存を生きる智慧は、暗黒の悩みと光への憧憬のあいだで、人の心の奥底に常に存在して消えることはないのです。それは、忘れるというより、未だ知っていないし、永遠に知ることもない知識・智慧であるのです。ソークラテースは「魂を気遣え」と言いました。また「汝自身を知れ」という言葉をいまに伝えました。人の実存にとって、真に重要なこと・生きる智慧・人生の宝石の結晶は、そんな簡単に忘却できたりするものではないのです。それは、暗黒の意識・無意識のなかで燦然と輝いているのです。その光は、時折のなにかの感動や、発見や、驚異において垣間見られるでしょう。そしてそのような「垣間見た」経験を忘却するとしても、また違う形で、あるいは記憶の想起という形で、心に甦って来るでしょう。そしてまた「現在に生きる」とは、最高次元の生き方であるという智慧もまた理解されるでしょう。「現在に生きる」とは、作為的営利的ランダムに絶え間なく変動してやまない状況に刻々と順応して、不要なものは棄てるという生き方ではなく、人生の過去も未来も、貴方自身も他者も、無数の異国の人々も、地球上の生き物も、そしてこの銀河なる宇宙がすべて、いまこの時、貴方において、生成し生き、躍動しているといういま=現在の生の謂いなのです。このような「現在に生きる」とは、何なのか、人は見出せないし、見失っているでしょう。しかし、このような「いま現在の生の全体性・充熟性」というものは、日々の多忙さや、変転してやまない状況のなかでも、心のなかに、ある時は微かな光を発する星として、ある時は、華麗なる宝石の花として、貴方の魂に生きてあるのです。貴方は、この星・宝石の花の或る意味で、かりそめの夢でもあるのです。人は遂に自己の心の星=宝石の光を実感しないままに、空しくも死んで行く存在かも知れないでしょう。しかし、だからこそ、「魂を気遣え」とソークラテースは言ったのです。多くの人は、複雑な修辞や難しい議論や、あきれるような膨大な知識を誇っている、情報や社会の変動は、それに順応できない人間を進歩の敗者として扱う。されども、そのようなプラグマティックな有益性・利益性・社会順応のための知識や技術とは、所詮、「知」を僭称する人間の傲慢に過ぎない。いま、生きてあることは驚異ではないか。この銀河の宇宙は神秘であり驚異ではないか。誰か、世界の創造の真実を知るのか、誰が我々がいずこより来たりいずこに行くのか知るのか。わたしは「故郷」を忘却した「無知」なる者にしかない。されど、空しき情報と風のごとき消え去るこの現代の喧噪と無意味の氾濫は、「知」にもっとも縁遠いものであろう。「永遠」そして「真理」というのは、この「いま」に生成しているものなのです。それに気づくか、気づかないかの違いでしょう。また気づいたとて、人は幸福を得るものではないのです。 わたしは、なお迷妄の世界を彷徨っている空しき旅人であるでしょう。わたしの旅は、心の、そして魂の旅でもあったと言えるでしょう。そしてなお迷妄にあるのです。『旧約聖書』伝道の書で、コーヘレトは言いました。「若者よ、汝の若い時に神を知れ」。そう、「神を知る」とは、貴方が「無知」であるということを知るということでしょう。そして「魂への気遣い」が心にある限り、何を忘れようと、真に重要なことは、幾らでも、この永遠のいまにあって、泉のように甦って来るでしょう。「求めよ」とイエスは言ったのです。「求めよ」、そうその時、永遠の命の泉の扉は、いつでも、このいまに開かれるでしょう。
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- pco1633
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その本は読んでませんので、質問文からのみお答えします。 私もO-jiroさんと同じ意見ですね。 人間の脳みそは確かに優秀ですが、だからってそんなに都合よく出来てるとは 思えない(笑)単に永久保持する事が機能的に不可能なだけでしょう。 でも、逆に考えますとある意味での真理も見えてくるように思えます。 それは、現代の風潮として「忘れる事」についてすごく罪悪感を覚える人が 多数いるってことです。 忘れてしまう事で救われる事ってたくさんありますよね?でも、なんだかんだで 忘れるって意識的に出来ないじゃないですか? それに「忘れてもいいんだよ、そんなたいして重要な事じゃない」なんて 誰にも言ってもらえない言葉じゃないですかね? そう考えていくと、その理論的な事柄よりもむしろ言葉そのものに私は 重要性を感じました。 一度その「某ベストセラー」読んでみたいですね。 最近本屋さんにも行って無いからたまに覗きにいってみようかな(笑) あんまり参考にならないと思いますが、ごめんなさいです。
補足
早速の回答どうもありがとうございます。 >現代の風潮として「忘れる事」についてすごく罪悪感を覚える人が 多数いるってことです。 ここすごく考えさせられます。受験勉強とか仕事上のマニュアルとか、皆一度は気が乗らないようなことでも覚えさせられますよね。モチベーションはその対象を拒絶しているのに「大学にはとりあえず入らなきゃ」とか「自分の専門外だけどおぼえなきゃ食べていけない」とか無理やり事後的に理由付けをさせられる― またその逆ですごく興味のあることに取り組んでいても、あるときふと「あれ?なぜ私はこんなことをしているんだろう?」と思うことがあります。プロスポーツ選手なんかはだいたいまずそれが好きでなければやっていけないような世界で生きていると思いますけど、どんな人でも大小違いはあれど個々にモチベーションスランプを経験しているでしょう。好きで始めたもののはずなのに気づくと義務的になっている、こともありえるのではないでしょうか。 「大切なのは同じことを長く続けない、ということだ」 私の父はよく自己啓発的な本を読むのが好きなようでしたけれど、彼のメモにこのような言葉が記してありました。たぶんこれは、自分の意欲の源泉でさえ忘れてしまうのだから<状況が許してくれるのなら>対象が自分の中で義務化されないうちに、次の意欲対象を探せ、ということだと解釈しました。本当に正直に生きるってことはこういうことなのかもしれません。 ただ、私はpco1633さんのいうように「忘れるって意識的に出来ない」というのにも疑問が残るんです。インプットの方は意識的にある程度操作できる、じゃあデリートはどうなのか。これもあくまでその内容次第ですけれど、たとえばすごく嫌なことがあってそれを忘れるために、意識して他のことに没頭する人と思いつめて原因を特定しようとする人に分けると、たぶん前者の方が忘れやすいでしょう。ここが私を惑わせている、のです。 よろしければまたこれについて意見を聞かせてください。
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お礼
正直どんなに言葉を慎重に宛がおうと努力しても、これを書いている時点での私の気持ちは表現に窮してしまいます。伝えられるか分かりませんが、ただ、現在の私はこれを読んで衝撃を受けている、ということだけが唯一確からしいです。 starfloraさんの考えに触れたのち、私はただ単に情報過多な世の中を要領よく生きる処方上であがきそしておどらされていただけなのかもしれない…そのように疑うようになった自分がいました。 そして、決して大げさな表現などではなく、たとえるなら「私が必死に探していた行方知れずの人の後ろ姿」をとらえられたように思います。(その人こそがstarfloraさんであるなどというおこがましい意味ではありません。) というのも、以前私はまさしくstarfloraさんの考えを、感覚的にではありますが体現できていた時期があったのです。それは8ヶ月ほど前までのことで、その期間自体は、ほんの2か月間かそこらというすずめの涙ほどの時間でしたが、20歳の私にとっても、ひときわ光り輝いていたといえるのです。毎日生きるのが楽しかった、などという陳腐なイメージではなく、もっと自分の中のもの―脳然り、血液然り、筋肉然り、五感然り―が鋭利に研ぎ澄まされ、私という実存を駆り立て、どこからか全てを見つめている見えない何か、を内にも外にも感じることができていたのです。 もう少し私のことについて語るのを許してください。(何度も書きますがけして自分のことを劇画チックに伝えようとしているのではありません。あくまで一番近い表現を模索した結果です。) 私が、そういう考えを体現できたのは、あるきっかけがありました。それは物理的刺激などではなくその逆、いわばお告げのようなものなんです。それは誰かといえば前述した私の父です。(私の父は私が高一のとき癌で他界しています。) 彼は何もいいませんでした。けれどなぜか怒って私を諭すかのような眼をしていたようです。その画は現在でこそ歪んでいるかもしれませんが、とにかく怒っていたということだけは覚えています。 因果関係はわかりませんがそれ以後しばらく私は、上述のような感覚を「捉まえて」いることができたのです。 こうしてstarfloraさんのような思慮深い他人を知ることができたことをとりあえず感謝したいです。私が恐れ、同時に憬れていたもの、それをこそ私が「忘れて」いたものだった気がします。 ※質問の内容からとことん外れてしまったこと、そして自己顕示欲丸出しのつまらない私的閉塞的なlong taleになってしまったことを詫びます。しかしここまで赤裸々に綴ったのは私なりのstarfloraさんへの精一杯の礼の形だと思ってください
補足
すみません。個人的に詮索したいというわけではないのです。 文面から察するにstarfloraさんはかなり成熟した大人の方だとうかがえるのですが、なにか特別な環境にいる(あるいは、いた)方なのでしょうか。便宜的処世術としての「生きること」と真理を純粋に追い求めようとするスタンスとをここまで言葉で表現でき、そして両方わきまえているような貴方のアイデンティティーが、その節々に見受けられます。 よろしければこの場をつかって、あなたがこれまで考えてきたことや勉強したことなど貴方が許す範囲で構わないのでいろいろ深い考えをご提示いただけませんか? ※質問―回答という構図を脱しているし、その必要も義務もないといわれればそれまでですが…。