善ということばの定義にもよると思うんですが、行為が利己的であるかとか人に害をなすかといった外面的なところでは善と偽善を判断することはできないと思います。というか不可能です。
分りやすく説明するのは難しいですが、あえて語弊を恐れずに言うならば、善とは端的に言うと「天国にいくための行為」だと言えると思います。
なんかキリスト教徒みたいな言い方をしてしまいましたが、要は人が人として生きるために大事だと思うこと。その究極のところにあるのが「善」という概念だと思います。
そして、価値観が非常に多元的で相対化してしまった今の世の中では「普遍的な善」「絶対的な善」というものはあまり人に自信満々にいえるものではないでしょう。
善とはあくまで個々人の内面に存在するものです。
繰り返しになりますが、外から客観的に善を発見することは不可能です。
偽善とは表面上善行であると評価されそうでも実は内面の部分としてそのような「善」の方向を目的としていないような行為のことだと考えられます。
人の心を読めるようにでもならなければ、それが善であるか偽善であるかを判断することは100%は無理だと思います。
つまりある行為が善行であるか偽善であるかを評価するのは本人によらざるを得ず、他人が「君の行為は偽善だ」というためにはあくまでその人の内面が相当程度理解できているという前提が必要であると思います。
戦争や政治というのは個人の内面ではなく社会的な「現象」でありますから、そこには善も悪も存在しません。評価できるのは利益があるか無いかだけです。
そして利害が発生することと善悪がそこに込められているということはまったく無関係なことだと思います。
ちなみにgoo辞書によると
ぜん 【善】
(1)よいこと。道理にかなったこと。また、そのようなおこない。
⇔悪
(2)〔哲・倫〕 一定の使用・行為・道徳・秩序などにおいて、人や物の性質(価値)がよいこと、望ましくすぐれていること。また、それらをよくあらしめる根拠。真・美とならぶ基本的価値の一。倫理学の対象とされ、人間のあらゆる営みが目指すところ、あるいは営みを律する義務の源泉とされる。
だそうです。
補足
>要は人が人として生きるために大事だと思うこと。 この部分を読むと外面的に判断できそうですけど。