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ドイツの歴史について
普おう戦争でプロイセンはオーストリアに勝ったのになぜ、北ドイツ連邦の中にオーストリアを組み込まなかったのでしょうか。よろしくお願いします。
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オーストリアを統一ドイツに組み込むというのは、オーストリア帝国を解体して、そのドイツ人居住地域(地域名としてのオーストリア)のみを統一ドイツに組み込むことです(大ドイツ主義による統一)。 というのも、NO.2の方がおっしゃるように、オーストリア帝国にはドイツ人以外の民族が含まれていたからです。 しかし、NO.1の方がおっしゃるように、オーストリア帝国を解体できるほど圧倒的に勝ったわけではありません。 そこで、小ドイツ主義による統一となったのです。 そもそも、ドイツ主義とは大にしろ小にしろ民族運動であり、多民族国家であるオーストリア帝国の王家にとっては危険なことでした。 大ドイツ主義であれば、それは帝国が解体されることですし、小ドイツ主義であっても民族主義の高まりはオーストリア帝国内の民族主義を刺激し、帝国の解体を誘発しかねないからです。 また、小ドイツ主義によるドイツ統一はプロイセンの強大化をも意味しましたから、やはり、いずれにせよドイツ統一はオーストリア王家にとって認められないことです。 オーストリア王家にとって、もっとも嬉しいのは、ドイツ地域にあっては緩やかな連合体の中で中心的地位を占め、ドナウ地域にあっては多民族国家の王室として君臨することです。 戦争に負けてしまいオーストリア王家は小ドイツ主義によるドイツ統一をしぶしぶ認めましたが、大ドイツ主義による統一を許すほど負けたわけではありません。 すなわちドイツ地域によるプロイセンの優位を承認し、自らはドナウ地域の王家であることに専念することにしたのです。
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- aminouchi
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s-wordさんは世界史を勉強中なのでしょうね。とすると、ドイツ統一のところで大ドイツ主義と小ドイツ主義という言葉をきいたことがあるはずです。 単純に言えば、大ドイツ主義とはオーストリアを中心として(もちろんオーストリアを含めて)ドイツを統一しようとするものであり、小ドイツ主義とはプロシアを中心としてオーストリア抜きでドイツ統一をしようというものでした。 ここで、普墺戦争はドイツ統一の主導権を争うものであったことを忘れてはいけません。つまりこの戦争の勝利によってプロシアはドイツ統一の主導権を握り、オーストリアを排除することに成功するわけです。とすれば当然のことに、オーストリアを北ドイツ連邦に組み込むはずがありません。 なお、蛇足ですが、当時のオーストリアはハプスブルク帝国でもあって、ハンガリー(マジャール人)チェコスロバキア(チェック人とスロバキア人)などドイツ人以外の住む地域も支配していました。つまり、大ドイツ主義によりドイツ統一を行うと、ドイツ人以外の地域も含まれてしまうことになるのです。
お礼
>ここで、普墺戦争はドイツ統一の主導権を争うものであったことを忘れてはいけません。つまりこの戦争の勝利によってプロシアはドイツ統一の主導権を握り、オーストリアを排除することに成功するわけです。とすれば当然のことに、オーストリアを北ドイツ連邦に組み込むはずがありません。 なるほど、その点を忘れていました。そう考えるとプロイセンにとってオーストラリアは不穏分子だったんですね。ご回答ありがとうございます。
- cse_ri
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戦争に勝ったから、相手の国を占拠する...戦争ってそんな簡単な問題では ないんですよ。 当時のプロシャは、周囲に多くの敵国を抱えていました。 たまたまオーストラリアに勝ったのですが、あまり手ひどくやっつけすぎて しまうと、こんどは別の国が警戒感を持ってしまいます。 例えば、プロシャの七年戦争では周囲の国全てが敵国となり当時のプロシャ軍 は大苦戦をするハメになりました。戦いに勝った後の戦後処置が悪いとこういう 事態を引き起こしかねないのです。
お礼
>戦争に勝ったから、相手の国を占拠する...戦争ってそんな簡単な問題では ないんですよ。 当時のプロシャは、周囲に多くの敵国を抱えていました。 なるほど、そういう事情が背後にあったんですね。領土を広げるより自国の国家建設に重点を置いたのですね。お返事ありがとうございました。
お礼
お返事ありがとうございます。当時のプロイセンとオーストリアの力関係や、他民族の動向など深く理解することができました。オーストリアが複合多民族国家ということも思い出しました。プロイセンに破れたオーストリアはバルカン半島に目を向けていったのですね。どうもありがとうございました。