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サイコロの出目は六分の一か?

宜しくお願いします。ここに新しく製造された偏りのないサイコロがあるとします。未だ一回も使用していません。私がそれを拾い上げ転がしたとします。其のとき出た目は果たして六分の一の確立で出たものだったのでしょうか?

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  • shkwta
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回答No.22

この問題はいくつかの答が考えられます。たとえば、 (1)『すでに結果がわかっていて、しかも今後二度と行わないことについて確率を考える意味はない』 冷たい答ですが、サイコロを振って2が出たとして、結果が2で確定しているわけですから、何らかの必然で2になったのであり、もはや確率を考える意味はありません。 確率は、多数の試行のうち、ある事象がどれだけの割合で起こるかを示すものです。 (2)『サイコロを振る前から、確率は6分の1でなかった』 サイコロの製造法はわかりませんが、たとえばある機械では必ず1の目を上にしてサイコロが出てくるとします。そして、試行者の指の筋肉のつき具合や、運動神経の働き、手の動かし方のくせなどにより、「1を上に向けて置いたサイコロを振ると4が出やすい」といった傾向があるはずです。したがって、サイコロを振る前から、確率は6分の1ではなかったといえるでしょう。 (3)『サイコロを振る前は、確率は6分の1であった』 確率は情報に関係があります。ある情報を知っているか知っていないかが確率に関係します。たとえば、この製造機械では必ず1の目が上になってサイコロが出てくると知っているかどうか、この人は1を上に向けて置いたサイコロを振ると4を出すことが多いと知っているかどうかが確率に関係します。  確率=特定の事象の頻度÷起こりうるすべての事象の頻度 上の式でわかるように、「起こりうるすべての事象の頻度」は知識により変化します。ある製造機械が必ず1の目を上に向けてサイコロを出すという知識があれば、1以外の目が上になって置かれた可能性を排除できます。  いま、そうした情報が一切与えられていないとすれば、起こりうるすべての事象はもっとも広くとるしかありませんので、確率は6分の1となります。 (4)『実は、どの目が出るかは事前に決まっていた』 試行者の中枢神経系と末梢神経系、筋肉の状態は物理法則に支配されています。私がいまこう考えているというのも、何らかの必然性がそこに働いています。したがって、試行者が手をこう動かしたということも、神経系や周囲の状況までふくめてすべての相互作用の結果であり、何らかの必然であったと考えられます。ただし、どこまで必然であったかとなると、究極にはカオスとか揺らぎとか量子力学的な不確定性原理とかが関係するような気がしますし、それらを知識や情報の問題として捉えるのか、あるいは自然の本質であると捉えるのかとなると複雑な問題であると思います。 (5)『確率を考える時点によって、確率は変わる』 たとえば、サイコロが手を離れた瞬間で考えれば、他の皆様から既に回答があるように、あとはサイコロは力学に従うだけですから、どの目がでるかは既に決まっているといえます。手から離す直前で考えれば、そのときの指の配置や運動方向で、ある程度出る目の予測ができるかもしれません。サイコロを手にもった時点でも、神経の働きなどの必然性を考えると、多少は決まっているのかもしれません。このように、確率を考える時点があとになるほど、確率は1に近づき、時点が前になるほど、確率は別の値(たとえば6分の1)に近づきます。 --------------------------- どの解答が正しいのか、あるいはほかに解答があるのか。興味はつきませんが、質問者様としてはここに寄せられた数十の解答の中から、気に入ったものを選ぶということでもいいし、あるいはもっといろいろな条件を厳密に定義して、数学的な問題に仕上げてもいいし、サイコロを振るロボットみたいなものを考えて試行実験してもよいし、そのあたりは自由に態度を選べばよいのではないかと思います。どっちにしても、質問者様の文だけからは回答に限界があり、より深いところまで追求しなければ問題としての意義がはっきりしないように思います。

noname#15641
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。実は今回が初めての質問だったのですがこれだけたくさんの方からご意見をいただき たいへんありがたいと思っています。これも必然なのでしょうか。

その他の回答 (28)

  • 4313kiyo
  • ベストアンサー率25% (4/16)
回答No.29

そもそも確率というのは、ある事象を何度か行っていくうちに、「その事象が次に起こることを予想できないだろうか」というふうに、人間が勝手に考えて生まれた学問です。 では、確率という学問が定義されていない時に戻って考えてみましょう。 回答への返答を読んでいくと、質問者さんは(偏りの無い正六面体のさいころを無作為に放り投げる=出目はそれぞれ六分の一であろう。)が自明のことでは無いとするといったことが書かれていました。 つまり、現時点でこの「新しく製造された偏りのないサイコロ」には「その事象が次に起こることを予想するためのデータは存在しない」と考えれます(これがサイコロであることも、面が6つあることも関係ないと考えるわけですから。)  次に、サイコロを振ることを考えます。というより、考える必要はありません。質問者さんも、サイコロの持ち方や振り方まで突っ込まれるとは思っていなかったでしょうし、適当に持って、適当に投げたことにします。 で、結果として、なんか目が出たとしましょう。これが、「新しく製造された偏りのないサイコロ」にはじめて与えられたデータなわけです。 さて確率というのは、序で述べましたが、未来予測です。昔の人が、出てきたデータをもとに、次にこのサイコロを振って、出る目を予測できないだろうか?と考えたわけです。すると、(出た目)/(行った回数)=1/1が得られます。これが、はじめてデータから得られた"次に同一事象を行った場合の確率"なわけです。 次に、行った回数を、何度も何度も繰り返すと、(出た目)/(行った回数)が、1/6に近づいて行きます。これは大数の法則と呼ばれますが、昔の人は、1/6に近づいてゆく理由を考えました。6つ面があり、すべての面に同じ条件が備わっていれば、次に○○の目が出る確率は1/6ではないかと。 いまでこそ、地球には重力がある、サイコロの確率は~なんて当たり前ですが、なにもない状態からこれを発見するのはとても難しいことなんですね。 確率ってのはこんな感じで、人間が勝手に予想したものなんです。人間が勝手に定義しただけですので、質問者さんが、そのサイコロを振って出た目そのものが、「六分の一の確率で出た」とは言えないんです。神を信じない人は、「出るべくして出た。」神を信じる人は「神のみぞ知る」としか答えることができません。 確率は未来予測だということを覚えておいてください。

noname#15641
質問者

お礼

たいへん、ご親切にご回答いただき誠にありがとうございます。 すなわち 自明でない私には予測不能 >いまでこそ、地球には重力がある、サイコロの確率は~なんて当たり前ですが の<いま>の自明のひとにとっては 予測可能 としか言いようがない? どうもありがとうございました。 また何かありましたらよろしくお願いいたします。

noname#15641
質問者

補足

無知な人間は「想像」できるが「予測」はできない。 という結論でよろしいでしょうか? 数学の専門家に方、宜しくお願いいたします。

  • hanako171
  • ベストアンサー率31% (31/98)
回答No.28

質問内容通り、これは確率の問題ではなく、確立の問題 だから、数学的には解決しないのではないでしょうか。 (「質問」でも「回答に対するお礼」でもmineosanは  「確立」とおっしゃっているのだから。) 突き詰めれば、サイコロが振られた状態以前に、置いて あった状態があって、それ以前に、素材がこねられてい る状態があって、それ以前に、地球の中に埋まっている 状態があって、・・・それ以前に、ビッグバンがあった としよう、それ以前は?? だから、「其のとき出た目は」唯一絶対の全知全能の神 様だけが知っている。知っていた。ということで納得い ただけませんでしょうか。

noname#15641
質問者

お礼

ご回答いただき誠にありがとうございます。 「一回限りの試行、私の無作為、完全なサイコロ」に限定して 私がサイコロを拾い上げた瞬間に「出目は六分の一であろう」と言えるかどうか。 (私は無作為なので振り出す手の動きなど何も確定していません。)

回答No.27

>他の方で、手を離れた瞬間にマクロの世界では出目は確定しているという御意見が2,3ありましたが、逆に確定していないというご意見でしょうか。 #26の冒頭で「(投げた後の話ではなくて投げる前の状態も含めて)」と断わっています。 「手を離れた瞬間」にマクロの世界では出目は確定していると言える、と思います。 「2,3のご意見」と同じです。(と言うか、同じことを#14でも申し上げました。PCが変わったのでHNも変わっていますが) では何故「量子力学派」と言ったかといいますと、これも#26で述べましたが、条件は置いてあるサイコロの向きだけではなく、人間の行動(その他諸々)も含まれる、そして投げるまでの人間の行動までは因果律に縛られない、と思うからです。 繰り返しになりますが、これから無作為に投げるなら確率は1/6、手を離れた瞬間に結果は確定、と言うのが私の見解です。

noname#15641
質問者

お礼

重ねてご回答いただき誠にありがとうございます。 サイコロが製造された瞬間から、作為がなければ(因果律にしばられなければ)いつでも出目は六分の一である、と理解してよろしいでしょうか。間違っていたらご指摘いただければと思います。 本当にどうもありがとうございました。

回答No.26

#21です。 と、言うことであれば(投げた後の話ではなくて投げる前の状態も含めて)、ある条件(例えば拾う前のサイコロの置き方による投げる瞬間の面の向き)について言えば同一とは言えませんね。 でも、当然条件は1つだけではなく、しかも互いに関連しあっています。 例えば投げる人の力加減と言う条件は、投げる瞬間の向きが上を向いている方が有利の場合もあるし下を向いている方が有利な場合もある。 ある人が手の上で”コロコロ”とする力加減は、置いてある時に前を向いている面が有利かもしれないし、不利かもしれない。 つまりは、どの面が出るかは「同様に確からしい」もしくは「同様に不確からしい」と推論されるわけです。 さて、そもそものご質問は「其のとき出た目は果たして六分の一の確立で出たものだったのでしょうか」と言うことでした。 (その言い回しが適当であるかどうかは別にして、仰りたいことはわかります) ここまで来ると、それは因果律を認める古典物理学に立脚すれば「必然であった」と言えるし、それを認めない量子力学に立てば「確率的に起こった結果だ」と言うことになるのではないでしょうか。 私は量子力学派です。 マクロの世界で量子力学は考える必要がない、と言われるかもしれませんが、投げる人の力加減は確定していない、と言う意味で。

noname#15641
質問者

お礼

他の方で、手を離れた瞬間にマクロの世界では出目は確定しているという御意見が2,3ありましたが、逆に確定していないというご意見でしょうか。

  • acacia7
  • ベストアンサー率26% (381/1447)
回答No.25

物理的にサイコロは古典的な世界で運動していると考えてよいでしょう。 つまり、運動の初速や位置が決まればその後の運動は確定するということです。 物理的に「偏りの無い六面体」であろうとそうでなかろうと、初期の位置と運動が与えられれば、地表面での停止位置が決まるわけです。 万が一、同じ位置から同じ運動で投げるディーラーが存在したらそのディーラーは同じ賽の目を出すことができるのです。 それは「六分の一」ではありません。 これに対し、「無作為の投擲の結果偏りの無いサイコロ」であれば、「無作為に投擲する」という前提がなりたちさえすれば、それ以前に何度、目を出していようと、確率は「六分の一」です。 で・・全然関係のない突っ込みですが・・・「確立」と「確率」は違うのでご注意あれ。

noname#15641
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。つまり、一回限りの試行において、私の手を離れる瞬間のサイコロの面の位置関係も出目の要因になる(私は無作為です。)とすれば私の手から離れた後、それぞれの出るだろう目は同条件ではないということでよろしいでしょうか。

回答No.24

賽の目の確率を言うときは、「この賽は10,000回ふったときの1の出目は0.145321,2の出目は0.167223,3の出目は0.162341…でございます」というのがスジですよ。 それ以外はありません。

noname#15641
質問者

お礼

どうもご指摘いただきありがとうございます。

  • postro
  • ベストアンサー率43% (156/357)
回答No.23

さあ、今こそあなたは自分の見解を述べる時だ!! このままあやふやで終わりにしたら、たくさんの回答者の方々に失礼だよ。

noname#15641
質問者

お礼

舌足らずで申し訳ありませんが、(偏りの無い正六面体のさいころを無作為に放り投げる=出目はそれぞれ六分の一であろう。)が自明のことでは無いと思ったからこうして質問したわけなんです。私の手からサイコロが離れた瞬間(どんなに力を入れようとも)、それ以前の要因は全て無視してもよい(まったく因果関係が無い)と言い切れるのかどうか、そこが無学な私がお聞きしたかったところなんです。(一回限りの試行です)

回答No.21

つまり、あなたのおっしゃりたい事は、 ある所に置いてあるサイコロをあなたが拾い上げて振ろうとした時、これを作為なくごく自然の動作で行えば、例えば、置いてあった時に下を向いていた面が上に来る、そう考えれば既に置いてあった時の状態が<条件>を同一のものとはしていない。 たとえ振る前に手の中で”コロコロ”っとやったとしても、その”コロコロ”っとやった結果上を向く面は置いてあった状態が影響しているはず、故に<条件は>同一ではない。 という事でしょうか?

noname#15641
質問者

お礼

はい、そういうこと事です。できましたらご見解をお願いいたします。

回答No.20

>振り手の私に作為はなかったとして、それぞれの目の出る条件は同じであった(例えば私の手を離れる瞬間のそれぞれの面の位置関係は<条件>にはならない)と考えてよろしいということでしょうか。 「離れた瞬間」と言う表現を「離れる瞬間」と言い換えれば答えになりますか?

noname#15641
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。例えばサイコロが手から離れる瞬間、ある面が上の位置にあったとします。そのある面が上にあったという事実は偶然的であったということでしょうか。振り手の私には作為はありませんが。

  • doahodesu
  • ベストアンサー率57% (233/402)
回答No.19

命題の仮定が成立していません。 「確率」は理論上の値であり、実験データではありません。 本来「偏りのないサイコロ」は存在しませんが、それを「あるとします」と仮定されています。 次に投げるという試行において、理論上の確率を考えるとき、「サイコロがどの面を向いていたか、投げ手の癖などがどうであろうと、同一の初期条件(確からしさが等しい)であるとします。」と仮定すべきです。 この場合に限り「確率」を考えることができます。 こういうことではなくて、投げ手の癖や初期条件の違いを考慮した場合、無数に条件が存在するはずです。 その無数に存在する条件の一つを固定できるとする仮定ならば、その同一条件の下で全く同じ試行を繰り返せるという意味なので、これ以降の確率は6分の1ではないでしょう。 その試行を非常に多くの回数繰り返せば、偏りがでるはずです。 たぶん仰りたいことは後者の方だと思いますが、この場合例えば1の目がでる割合は計算できませんので、「確率」で論じることができないということを、他の回答者の方が仰っているのです。

noname#15641
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。つまり、六分に一ではない、ということをお聞きしたかったのです。どうもありがとうございました。

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