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秀頼は自らの姓を「豊富」と表記した?
先日、吉野の勝手神社に行ったら、神社の縁起を書いた看板に「社殿は豊富秀頼が慶長9年(1604)に改修したのが・・・」と書いてあって、「豊富」に傍点が打ってありました。傍点は「間違えではありません」という意図で打たれていたのだと思いますが、なぜ「豊富」と表記してあるのかは不明でした。ネットで見てみると吉野水分神社も「豊富秀頼の再建・・・」としているようです。なぜ「豊臣」ではないのか。この事情を知っている人、教えてください。
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宇喜多秀家が自分の姓を浮田と書いている書状(関ヶ原でまける前)なんかもありますので、なんていうか、その辺は学のない当時の武将にとってはアバウトな感じだったんじゃないでしょうか。 太閤記でも前田利家が豊臣利家になってます(利家の場合は理由がありますが)。 豊臣が豊富となっているのは *神社に昔から伝わっている縁起書のようなものにそう書いてあったからそれに準拠した *臣よりも富の方が縁起がいいので、そうした *秀頼が神社に寄進する時に、豊臣ではなくて豊富という表記を使ったのでそれに基いている あたりが可能性が高い気がします。 豊臣家が滅亡した後になって書かれて発刊された「太閤記」では豊臣の表記で統一されてますので、神社の豊富表記は幕府の意向は関係ないとも思われます。神社が意図的に臣から富に変えたんでは、逆に幕府を挑発してるような気もしますし。でも確証を持ってはいえません。
- buchi-dog
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行政機関のホームページでも、「豊富」と表記していますね。単なる間違いではなさそうです。 神社や役場に由来を問い合わせるのが確実ですが、恐らく「江戸時代になってから、滅亡した豊臣家の援助を受けたことを憚り、わざわざ字を換えることで徳川幕府への忠誠の証とした。その伝統が今も続いている」ということではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 後の江戸時代に表記を変えたというのはありうることですね。でも、勝手神社の看板は「こちらが正しい表記だ」という主張のように感じられるのですが・・・。
お礼
「秀頼が神社に寄進する時に~」というのは、神社の主張としては説得力がありますね。ありがとうございます。さらに知っている方があれば、お待ちしていますが、お二方の意見を参考に自分でも調べてみます。