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ドストエフスキーの「罪と罰」
ドストエフスキーの「罪と罰」の中で語られている「罪」とは何なのですか?また「罰」とは何なのでしょうか?どなたか詳しく教えてください。おねがいします。
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- frogg
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僕が思うには、ドストエフスキーにとって、 罪と、そして、罰、とは、因果律に結ばれた 二つの概念ではなく、ひとつの物を、そのまま 差したのだと思います。 そのひとつの物、とは、彼の観る、人間そのもの の、そのままの在りよう、だったと。 彼の処女作を思い出してください。 「貧しき人々」ですよね。 その後、流刑にあい、彼はそこで様々な人間の 形をした絶望を目の当たりにする訳ですが、 彼がそこで見たものとは、宇宙の根源まで行っても 癒えない、人間というものの深い悲哀だったので はないでしょうか。 「罪と罰」の中の場面で、ラスコーリニコフが ソーニャと二人きりで、ベッドの上に座り、 聖書を読む所がありますよね。 その時のラスコーリニコフの心裡のささやきを、 ドストエフスキーは冷徹に描く・・・、隣の部屋 に、ちゃんと或る人物を置くのを忘れず。 また、大地に接吻をする場面でも、更に、最終章 でも、ラスコーリニコフは、あくまでも醒めた ままの状態にしたまま、ついに、彼は、そのまま この大きな小説を閉じてしまいます。 これらは、いったい何を意味するか、と、考えると、 そこに、僕は、ドストエフスキーという人の、 直な、また、或る意味で、生な、人間存在そのもの が持つ、いわば「原罪」、或いは、「実存」という ものへの、非常にはっきりとした眼差しを感じます。 つまり、「天使」や「神さま」をそのままに感受す るソーニャのような存在を肯いながらも、しかし、 それだけでは到底救い得ない人間の深い悲哀、絶望 というものを、彼は、まるごと、そのままの形で荷 おうとするかのように、苦悩や紳吟、天ではなく、 この地において、神ではなく、この人間の魂において、 いわば、地獄の自己救済という、大変リアルな カオスに沈黙の予定調和黙示する、そのように、 感じられます。 例えば、マイスター・エックハルトは、人間の魂の 内側においてこそ、神の魂は最もよく自らを 露わとする、と言います・・・無論、ドストエフスキー も、このロマ書の言葉に一人涙することの出来た 人だった事でしょう。しかし、彼はその道を取らなかっ た。 僕には、「罪と罰」がそのまま、彼の「愛」だった、 そんな風にも感じられます。
- i-junkie
- ベストアンサー率33% (25/75)
先に回答いたしましたinformation-junkieです。まずお詫びと訂正なのですが、前回「キリスト正教」となっていましたが、「キリスト教」と「ギリシア正教」が混じっていました。ここは「キリスト教」ということにしておいてください。申し訳ありません。 さて、「罪と罰」ですが、もちろん刑法上の「犯罪と刑罰」ではあるのですが、「罪」は「人の定めたおきてを踏み越える」だけではなく、さらに形而上的な意味合いとして「神のおきてにそむく」ことでもあると考えられます。ラスコーリニコフは、自尊心にもとづいて行動を起こしたが、それは「神のおきてにそむく」罪でした。「罰」は、ほぼ定説となっているのは、犯罪の直後からまざまざと実感するようになった人類との「断絶感、分裂感」ですが、それに加え、神による「罰」の最高形態である「愛の不能」もそうであるという論もあります。つまり、愛が不可能なところでの愛への渇望です。
- i-junkie
- ベストアンサー率33% (25/75)
「罪と罰」…、キリスト正教に由来していたと思いますが、忘れてしまいました。ドストエフスキーの作品の翻訳者、江川卓の「謎とき『罪と罰』」を読めばたいへん詳しく分かると思います。私も機会があれば読み直してみますが、ぜひご一読をすすめます。