僕が思うには、ドストエフスキーにとって、
罪と、そして、罰、とは、因果律に結ばれた
二つの概念ではなく、ひとつの物を、そのまま
差したのだと思います。
そのひとつの物、とは、彼の観る、人間そのもの
の、そのままの在りよう、だったと。
彼の処女作を思い出してください。
「貧しき人々」ですよね。
その後、流刑にあい、彼はそこで様々な人間の
形をした絶望を目の当たりにする訳ですが、
彼がそこで見たものとは、宇宙の根源まで行っても
癒えない、人間というものの深い悲哀だったので
はないでしょうか。
「罪と罰」の中の場面で、ラスコーリニコフが
ソーニャと二人きりで、ベッドの上に座り、
聖書を読む所がありますよね。
その時のラスコーリニコフの心裡のささやきを、
ドストエフスキーは冷徹に描く・・・、隣の部屋
に、ちゃんと或る人物を置くのを忘れず。
また、大地に接吻をする場面でも、更に、最終章
でも、ラスコーリニコフは、あくまでも醒めた
ままの状態にしたまま、ついに、彼は、そのまま
この大きな小説を閉じてしまいます。
これらは、いったい何を意味するか、と、考えると、
そこに、僕は、ドストエフスキーという人の、
直な、また、或る意味で、生な、人間存在そのもの
が持つ、いわば「原罪」、或いは、「実存」という
ものへの、非常にはっきりとした眼差しを感じます。
つまり、「天使」や「神さま」をそのままに感受す
るソーニャのような存在を肯いながらも、しかし、
それだけでは到底救い得ない人間の深い悲哀、絶望
というものを、彼は、まるごと、そのままの形で荷
おうとするかのように、苦悩や紳吟、天ではなく、
この地において、神ではなく、この人間の魂において、
いわば、地獄の自己救済という、大変リアルな
カオスに沈黙の予定調和黙示する、そのように、
感じられます。
例えば、マイスター・エックハルトは、人間の魂の
内側においてこそ、神の魂は最もよく自らを
露わとする、と言います・・・無論、ドストエフスキー
も、このロマ書の言葉に一人涙することの出来た
人だった事でしょう。しかし、彼はその道を取らなかっ
た。
僕には、「罪と罰」がそのまま、彼の「愛」だった、
そんな風にも感じられます。