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生と死の分かれ目
哲学と言っていいのか甚だ疑問ではありますが、つい先だっても大きな列車脱線事故があり、その前は大地震、海外では津波による大災害、そして記憶にまだあたらしいテロ。そればかりではなく個人においても、交通事故や病気等等。 いったい生と死をわけるものは何なんでしょうか? そんなことただの偶然、又はたんに寿命なだけ。そういうことを考えること自体おこがましい人間の性といってしまえば身も蓋もないのでしょうが。 かんがえずにはいられません。
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人はいつの日か死ぬ生き物であります。 ご質問は、普通に健康に生まれた人が、自分の意図によらずして不慮の生命の危機に遭遇した場合、生と死の分かれ目を決めるものは何か、とのお尋ねと受け止めて、私見を申し上げます。 生と死を分かつのは、ただ運に尽きると思います。 その人のそれまでの生き様(信仰を含む。)は一切関係ありません。 生命の危機的状況に遭遇することそのものが、運だと思います。(大事故に遭った人々においても、生と死に分かれる次の段階の運不運があるようですが。) 人の人生の確率を運というのだと、養老孟司さんは言っております。
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- hiro686868
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よく、天に耳を傾けよ、というような内容の啓示や訓えがあったりします。個人の判断は理性的判断が主なため、「距離が近い」「疲れない」という理由のために事物を選択していく傾向にあります。これに対し、「今日は左から降りようかな」や「そばを食べてから行こう」などの思いが生まれてくることが生死を分けることがあるようです。これは、宗教的には先人や天使、神の導きと言えるでしょうが、実際に「今日は左に行っておけ」という言葉や、雰囲気がまとっている時があります。 一般的に、これを直観と呼ぶかは別としましても、事物の遂行には、目的-手段 という過程をとりますから、目的(職場へ行く)-手段(電車) という一次的段階のみで動くことがやはり人間多いため、問題は、手段の選択にあり、電車で行くか車で行くか、の迷い、先だっての脱線事故では、左から降りたら4車両目で死の可能性は低かったと新聞でも亡くなられた両親がいっていましたが、右から降りるか、左から降りるか、のような判断が、様子が変だ、何か自分にまとわっていて何かを起こしている状態(トランス)であるのかを自ら察知する必要があると思います。 この比較からいうと、トランス→行動は、没我状態であり、神との合一であると言われます。「今日はそばを食べてから行こう」は空腹が催す場合が多いはずですが、「なんとなく」という雰囲気がまとわりついている場合、それは神や先人の導きと考えて良いでしょう。 慌ててしまう場合が人間良くありますが、それは人間が時間の奴隷になってしまっているからだといえると思います。時間に遅れると遅刻になり、会議で叱咤される、という理性的・習慣的な判断が、先人や神のまとわりを振り払っていることが多々あると思われます。 質問者への回答としては、神や先人のまとわり、理性での判断によらないトランス状態の認知によるもものということになり、心理学やアドバイスでは「気持ちをリラックスさせて」という場合、これは忘我を示唆しているといって良いと思います。この状態の時、ひらめきがやってくる、ということになり、生死を分ける場合は、感覚に従うということのほうが、様々ある生死の分け目の話のなかで優位であると思います。
- kazuyamakazuo
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本で読んだことがあります 精子が卵子に受精したときから人の生命は出来、そして死に始めている 時が立つごとに人はしにかけている 時がたつたびに細胞が死に続ける そして最後の細胞が死んだとき人は死ぬ 死とはあるひとつの過程である 参考になるかどうかわかりませんが・・
お邪魔します。 ご質問の意図と少しずれるかもしれませんが、 医療技術の発達は、胎児の先天的障害を早期発見し 優生学上?、技術的に人工中絶を可能にしています。 日本では法律上、母体保護の為の中絶は日常的でしょう。 安楽死や尊厳死、一概に否定できません。 私たちが生死を決定しなければならない日が来るかもしれません。 そのためにも、考えることは大切ですね。
- sinfonia
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確かにああした事故を思うと、生死の境目を考えたくなりますね。 私も小さい頃、震度7の地震にあって命を落としかけました。 母が助けてくれなければ死んでいたと思います。 そんな母は家族で一番健康に気を遣う人でしたが、一番先に病で 亡くなりました。 生死の境目を探すことは出来ません。偶発的なことも多々ありますし。 先の事故でも先頭車両に乗っていても助かった人、2両目以降に 乗っていたのに助からなかった人。境目は無いに等しいと思います。 運としても、運命としても、「起こり得ることだ」と頭に入れつつ、 日々を精進するしかないんだと考えます。
- tokytime
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人は、魂(これがその人の本体)と肉体で出来ているとおもいます。そして魂の欲求と判断と体験によって自分自身の個性や文化や環境を決定し、引き寄せていると思います。人は生まれ変わり、その経験から学び、判断力を養い、より霊的に向上して行くと思います。自分が経験することは、すべて自分で引き寄せたことです。幸も不幸も全て過去の自分(前世もふくめ)に何らかの原因があります。 では、不幸に生まれた人や不運な事故にあう人は、何か悪いことをしたのでしょうか。いいえ、そんな単純な問題ではありません。この世で一見不幸に思えることは、本当に魂にとって不幸なのでしょうか。不治の病や難病や困難にめげずに立派にのりこえて魂を磨き、見事に亡くなっていく人は大勢います。 もし、魂が永遠で繰り返し向上を目指して生まれ変わ るならば、自分の向上のために、人生にわざと困難を設定して果敢に立ち向かう人がいるかも知れません。あなたがもし、ゲーム好きなら、何の変哲もない平穏無事なゲームより困難や手ごわい敵キャラが出てくる、やりがいのある、腕が磨けるゲームを選ぶのではないですか。 人生とゲームを一緒にしてしまうのは、問題ですが、言いたいことは、私たちの判断を超えたもっと大きな宇宙の法則ともいうべき力が働いていると言いたかったのです。成るべくしてなる。つまり、運不運はなく、すべて、原因があって結果があるのです。その結果も最終ではなく、一見不幸に見えることが次の(来世かもしれません)大幸運を引き寄せるかもしれません。ですから、亡くなった方がたとご家族の悲しみは、痛いほど良く分かるのですが、人生一度きりではないのですから、何とか乗り越えてその貴重な経験をプラスに生かして、悲しみだけに彩られた人生ではなく、何かを見つけて、力強く生きていって欲しいと思います。それが亡くなった方への一番の供養にもなると思います。私たちも常に魂の永遠を信じて向上につとめましょう。
- 8942
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人は本当に死ぬのでしょうか? 例えば私が死にますよね。その死体があります。 でもその死体は、もう私ではありません。私の形をした肉です。 屁理屈でしょうか? 客観的には死でも主観的な死は無いような黄がするんですよね。じゃー今から200年ごのお前はどうなってるんだといわれるとわかんないですけど。 ぶっちゃけ肉体ってのは魂の入れものでいいじゃ中と思う今日この頃。
- code1134
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(先ず、脳死とか記憶喪失とかはここでは一応置く事にします) 確かキケロだったと私は記憶していますが、もしかしたら、他の思想家の弁かもしれません。何れにせよ、古人曰く「死は存在せず」と。 この格言の意味する所は(質問者や私、果ては現天皇を含む)人間が死なないと言う事ではなく、例えば、痛いとか、美味しいとか、感じている時は「死ではなく生」であり、その一線を病気や怪我や人によっては自殺により、越した時が「死」で「死んだら、生を意識出来ない」ので「(自らの)死(に対する意識)は存在しない」と言う事なのです。 ですから、4/25のJR福知山線の脱線事故の犠牲者は(なくなった遺族の方には失礼ですが)幸いとも言えます。 それは犠牲者107名の粗全員が即死されたが故に、苦しみを意識する事が絶無だったからで、この点が日航機墜落事故の犠牲者とは決定的に異なるのです。 なんか、禅問答みたいですが、極論をカキコめば「生まれた瞬間から死へのスタートは始まり、止まらない」のですが、それを四六時中考えたら滅入るだけですから、「(例えば)明日恋人と久し振りのデートが控えている」とでも思い込ませて、ワクワクしつつ眠りに就くのが得策と言うものですよ!!