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怒りとは
電車の中で化粧をしていたことに注意された 女性がそれに腹を立てて、注意した女性に 対し重症の大怪我を負わせました。 車内での化粧については条例でも立ち上がる ほどに問題化されていますが、それとは 別としても注意されることについては 道理的なことでもあるととは加害者もわかっ ているのに、注意されるとなぜこれほどまでに 怒りを著せるのでしょうか。
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普通、人の意識構造はたまねぎのように深いところから表面まで何層にも分かれています。 なので、何か行動を批判された場合、一番外側の皮について反省したり、納得いかない場合反論したりします。二番目より内側はおおむねそのままキープしたままで。 ところが幼児期の人格構造そのままに大人になってしまうと、多重構造にならずに、表面を批判されると全人格的に否定されたように感じ、自分を守るために全力を挙げて批判者を攻撃してしまうのです。
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- pioo
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>注意された女性 その人は、一方的に怪我をさせられたのでしょうか。通り魔みたいですよね。痴漢や暴行犯でも、注意するのは体力や力がないと難しいですよね。
- lenoir
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かなり古いコラム↓ですが。 どうやら「ゲーム脳」と言うキーワードが有りそうですね。 学校教育に何らかの不具合が生じているのではないでしょうか。 (家庭も含みますが)
お礼
ゲーム脳、初めて知りました。 URL拝見したのですが、コフートの「自己愛」を思い出しました。そこに他人の目は関係ありません。「化粧」という行為も多少ナルシズムの要素もありますし。それを注意される→現実に引き戻される→怒りという構造もあるかもしれません。 ご回答ありがとうございました。
- Drag-one
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ここで問題になるのは、重症の大怪我を負わせたことだと思います。 なぜそこまで腹が立ったのかは現場にいなければ分からないでしょうが注意された時に腹立たしい思いになるのは悪い事と知っていてやっている。つまり自分を大きく見せる、または強く見せる行為として利用している場合が有ります。(テリトリーの主張行為) 子供が悪ふざけをしていたり、悪いと知らないでマナー違反をしているのを見かけたら遠慮なく注意して良いのですが、この様な分かっていてやっている時は注意が必要です。 誰でも急いでいたり、重要な急用が突然起きるというアクシデントは有りますし違反と知っていても周囲に配慮した形で仕方なく行っている可能性もあります。 犬の散歩される方は分かると思いますが、テリトリーは人類も常に主張しています。虫の居所が悪いとこの原始的な行動パターンが所かまわず現れてくるのです。ご機嫌を伺いながらなだめるように注意しなくてはなりません。 刑事事件としてみれば怪我を負わせた側が100%悪い事になるかもしれませんが実際は注意した側にも配慮に欠けた部分が有った可能性があるわけです。
お礼
確かに周囲を省みず怒るのは、わざとやっているとしか思えない、部下皆の前で怒ることを快感にしているような困った上司などの感覚のなさについてもいえますが、ずっと我慢してきた上でのことなのか、衝動的なものなのか、被害者本人に聞かなければわかりません。同様に加害者も「なぜ自分だけ」という注目されたことは、皆の前で怒られた部下の恥ずかしさと同様であるかもしれません。 さて、「テリトリーの主張行為」ですね。 確かに関係性の希薄さは、テリトリー範囲を広げます。車内という密室の中ではその範囲の確保は無関係です。その心理もさながら、「注意」という言葉かけも侵入する。確かに怒りの派生させる大きな一つの要因ですね。参考になりました。 ご回答ありがとうございました。
- pioo
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>注意 (1)心を集中させて気をつけること。気を配ること。留意。 「細心の―を払う」「健康に―する」 (2)警戒すること。用心すること。 「横断の際は車に―しなさい」 (3)傍らから気をつけるよう教えること。忠告。 「―を与える」「服装を―される」 (4)〔心〕 精神のはたらきを高めるため、一つの観念やものに意識を集めて他のものを抑制する選択的集中の状態。 (5)柔道で、選手が禁止事項を犯したとき、審判員から受ける宣告の一。禁止事項を犯した度合が、さらに犯せば「警告」となるとき、あるいは二回目の「指導」を受けたときに宣告される。相手に有効を取られたのと同じになる。 電車の職員の人が、化粧で客に注意はできませんよね。職員が仕事中に、みんなの前で化粧するのはどうかと思いますが。 サービス業ですし、むしろ、電車内での暴行や、脅迫を取り締まったほうがよくないですか。 今の時代、化粧品の匂いがいやで、倒れるような人は電車に乗っていないと思います。単なる化粧など風習です。わざわざ人に注意するようなものではありません。 別に、注意する必要のないことだと思いますが。
お礼
質問の例としてこのような例を挙げるべきではありませんでした。テーマは「怒り」についてです。電車の中で何が不快になるかということを質問しているのではありません。 せっかくコメントをいただいたので私の考えを述べますが、あなた個人は化粧をする事に関して格別不快ではないと感じるのだということはわかりました。私は不快です。混んでいるときなどいつファンデーションを服につけられるか不安だからです。 同じ電車賃を払って同じ空間を共有している以上、他人の不快感も理解すべきだと思います。その平均値として形にしようとしたのが条例ですが、何を不快とするかは個人差はあるのも事実ですが、「化粧」の件も含まれています。そうした客観視もできずに暴力に訴え出るというのは見ているこちらも「不快」です。 「>電車の職員の人が、化粧で客に注意はできませんよね」 なにがいつ、法案化されるともわかりません。その場合注意することも職員の義務です。 「>単なる化粧など風習」 化粧は人前でするものではないというのも「風習」です。いや「でした」かな。 「>化粧品の匂いがいやで、倒れるような人は電車に乗っていないと思います」 すごい、断定できるんですね(^^;。女性は化粧もひとつのTPOですのでしないわけにはいきませんが、する場所をわざわざ電車の中でする選ぶ必要はないと思います。私なんて手の内を明かしているようで(笑)、とてもじゃないけれどできませんよ。もっとも人前でできるのは娼婦だけだという説もありますが。質問の仕方が悪かったですが意図としてはこのような温度差が暴力になぜ容易に結びつくのか、その心理とは?という疑問です。質問の趣旨に対するご回答もありませんし、今回アンケートカテのほうで聞かれた方がよかったと思います。 「>むしろ、電車内での暴行や、脅迫を取り締まったほうがよくないですか」 ですから今回その「暴行」がおきて加害者が取り締まられたわけです。 補足ですが、今哲学カテゴリであなたのご質問がありますが、回答者に対するお礼を見かけ、あくまでも私の感覚ですが、ちょっと尋常ではないものを感じましたので今後私の質問には回答を控えて欲しいと思います。 ご回答ありがとうございました。
- gunto
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注意した人の言い方がどうだったのか? 化粧してる女性は「何が悪いの?誰かに迷惑かけてんの?」って意識が強いから、「何をあんたが偉そうに正義ぶってみんなの前で私に恥をかかすのよ。嫌なら窓でも見てたらいいじゃないの」ってとこでしょうか? 怒る、怒らせるはその人同士の言葉がどうだったか、表情がどうだったかが問題だから、その場に居ないと何とも言えないのが事実じゃないのかな? もしも凄い剣幕で「あんた、ここは電車の中よ。止めなさいよ!バカなんじゃないの。この礼儀知らず!」ともしももしもですよ言ったとしたら、殴らないまでも怒るんじゃないですかねえ? だから現場に居ないとわかんないんですよ。当事者の問題は。 それに簡単に道理的と言うけど、化粧してる事がそんなに悪いかなとも思えない。そりゃあよい事であるとは言えないけど、イビキグーグーかいてるおじさんやおばさんの方が人に雑音として、迷惑かけてるわけでしょ? じゃあその注意した女性は、もしもギャーギャー大騒ぎしてる、いかにもやばそうな少年が10人居たとして注意すると思う? 女だからと安心して注意したのでしょ? だから正義でも道理でもないんですよ。 いびきだってすごく迷惑。 「いびきをしないで下さい」とは誰も注意しないけど、化粧してる人見て「道理的に許せない」ともしも鬼の首をとったように注意したとしたら、やっぱり不愉快なんじゃないの? 矛盾してる。 勿論殴るのは駄目ですよ。何たって傷害罪になるのだから。その辺は想像力欠如してると思う。 道理的価値観なんてみんな違うんだから、押し付けるのは良くないでしょ。 そのふたりはお互いに想像力足りない、つまりこう出たらこう刺激するとか、見られるとかを考えないと、いろんな考え、感性の集まる人間の中では危険。 注意されて怒ったのは唯むかついた。それだけです。 「道理ぶってふざけんじゃないわよ!」ってとこかな?
お礼
ご回答者様にとって質問での「道理」が私の主観として捉えられたのでしょうか。 が、現に「道理」としたのですからその通り、化粧はマナーに欠けるという私の「道理」であります。 確かに現場で最初から最後までみなければわかりません。それこそ電車事故のように複合的な原因を調べねばなならない必要があります。 「>いかにもやばそうな少年が10人居たとして注意すると思う?」 これについては同感です。「勇気」について考えるときこのような例えを用いてきました。「多数」に対する異議申し立ては、それだけ大きな権力や恐怖であるとき生かされうるべきだと思います。しかし事件に対する抗弁としては見当違いかなと思いました。 注意した人はその瞬間そのようなことは考えてはいなかったかもしれない。また考える必要はなかった。加害者にとってはとにかく不愉快、被害者にとっては晴天の霹靂、といったところでしょうか。 逆に言えば「怖そうなおにいちゃんたち」は1人1人が10人束にならないと何もできないかもしれません。赤信号皆で渡れば…理論ですが、それに比べ、「他人が言ってくれるだろう」と誰も何も言えない風潮よりも、相手が1人でも「言える」勇気のある人もいます。マナー違反どころではなく、道端で殴られている女性がいても平気で通り過ぎる世の中ですからね。 「>道理的価値観なんてみんな違うんだから、押し付けるのは良くないでしょ。」 だからケンカや戦争が絶えないのでしょうね。 私的には眠っている人がこちらにもたれかかってくるのは、いびき以上に嫌ですね。もし注意できるのだとしたら「俺はかいてない」「私はもたれかかってない」と言えますものね。化粧を注意することよりももっと難しいしもっとトラブルになりやすいことかもしれません。 ご回答ありがとうございました。
- freeway55
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NO.1さんと同意見です。 幼児性が強く残っている人は、自分の行動や意見を注意されると、それを人格否定と感じることが多いです。 このことは、議論をするとハッキリします。 議論は、何らかの解決案を出すために、複数の人が過去の知識や経験から意見を出し合う場のはずですが、感情的になる人は必ず居ます。 また、会議が終わった後でも、怒っている人を見かけることがあります。 多くの日本人は会議が下手で、理論的に会話を進められないようです。反論が出ると、喧嘩になります。 その女性も、単なるマナーを注意されただけでも、本人にしてみれば存在価値が無い・・・くらいに罵倒されたと感じたのだと思います。
お礼
確かに日本人は議論下手、交渉下手といわれますよね。加えて外交もそうですが。 概して他説もあるように、やはり日本人は幼稚性が高いのでしょうか。 それがマナーなのか、ということについてよりも、もしかしたらあまり親から躾けられていないのに見も知らぬ人に怒られたという驚き、恥などもあるかもしれません。が、暴力に飛躍するという端的さはやはり現代的怒りの現れ方の特徴なのかもしれません。 ご回答ありがとうございました。
- kikiki99jp
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わたしはなんとか評論家ではありません。 ことあるたびに、得体の知れない何とか評論家がでてきますが。 さて、注意されるとなぜ逆切れされるのか。それはそのような行為をするものがたくさんいるのになぜ自分だけに視線をむけられるのか。ということではないでしょうか。ほかに多くのひとが同じことをしているのに、なぜ自分だけ。という他人と同じことをしていれば、たとえそれが世間でゆるされない行為でも、自分も許されるという意識が働くのでとは。 没個性社会の日本の伝統的なげかわしい現象ではないかとおもいます。 みんなですれば恐くない。出るくぎは打たれる。 ではでは。
お礼
「個」に対する指摘を指摘された個人が社会のせいにする、という広がりは、すでに「個」だけの問題ではなく社会全体の問題ですよね。 「逆ギレ」という言葉が浮上し、社会問題となっていますが、「怒り」という非常に個人的な感情でもあるに関わらず他者への依存を感じました。 注意したくともできない、あまりにも危険だから・・・とあるニュースキャスターがコメントしてましたが、それも「誰かが言ってくれるだろう」という社会心理の現れではないかと思います。 ご回答ありがとうございました。
- coverfly
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あなたに質問です。 『あなたの顔で変ですね』 と言われて、あなたは怒りませんか? 多分、怒るなり不快感を覚えるでしょう。 その事と同じです。
お礼
きっとご回答者様の場合がそうなのでしょうね。私の場合もしそれが納得できるものでしたら私が素直になるか、もしくは怒りを覚えることでしょう。 回答ありがとうございました。
お礼
たまねぎという喩えはなるほど、と思いました。 境界性人格障害は過去に自分が誉められた、認められたというような肯定的経験が少ないために、少しの刺激でも怒りを感じさせられるようですね。 逆に「たまねぎ」の核の方へ向かえば向かうほど実は表層的になっているのではなく、身分化されたままのドロドロとした状態になっているのでしょうか。いちばん外側の部分は、かろうじて適応的となっているが実はすごくもろいのでは?というイメージを「たまねぎ」という喩えで考えさせられました。 もっとお伺いしたいところでしたが、またの機会にまた質問させていただきます。 ご回答ありがとうございました。