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「復讐するは我にあり」と「復讐するは我なり」の違い
「復讐するは我にあり」という本がありますが、これを文法的に解釈するとどうなりますか? 「我にあり」という意味がわかりません。 そもそも意味がはっきりしません。 復讐するのは私だ、という意味でしょうか? 「復讐するは我なり」の違いを教えてください。
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「復讐するは我にあり」という言葉は、 新約聖書「ローマの信徒への手紙」12章 19節(文語訳)を引用したものです。 現在よく使われている新共同訳聖書では以下のように訳されています。 --- 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 --- つまりここで使われている「我」という言葉は主、神を指しているのですね。 復讐は人がすることではなく、神がすることだ、ということです。 ですから、人が復讐をする、といった意味合いは、 少なくともこの新約聖書の一節にはありません。 復讐は神のすることだとしたら、それでは人はどうすればよいのか。 続きの20~21節には、このようにあります(同じく新共同訳からの引用)。 --- 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。 そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 --- 敵が飢えていたら、「いい気味だ」などと思ってしまうところですが。 敵に「食べさせ」「飲ませ」るという行為は、そう簡単にはできないことですね。 佐木隆三の「復讐するは我にあり」を読んだことはありませんが、 聖書が言わんとすることを汲み取って、 つけられたタイトルなのではないかと思います。
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#1です。質問者様のサイトをお借りして恐縮至極ですが、#5さんが再度、閲覧されたら、教えて下さい。#5さんのとおりの用法とすると、#2さんのおっしゃる意味に近いのでしょうか。チャットサイトでもないのに 申し訳ありません、yoshinobu09さん。只、非常に勉強になります。
- garamond
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漢文訓読から来た言い回しです。 「~は私のやることで、他人や神様のやることではない。」 という意味合いです。 私は「Man proposes, God disposes.」という格言を 「為すは我に在り、成るは天に在り」と訳します。 「有り」ではなく「在り」です。 また、この言い回しにおいて「復讐するは」というのは「復讐する【という行為】は……だ」であって「復讐する【の主語】は誰それだ」ではありません。ですから「人」+「なり」(断定の助動詞)とは全く別物です。
#1です。他の方の回答を見て、気になっていろいろと調べました。確かに、他の方がおっしゃる様に本の内容からすると聖書の暗喩と思われます。従って、先の回答は取り消しとさせて下さい。只、小説の内容との関係からすると、色々な解釈は可能ですが、小説から離れて、「こうなった因は我にある」といった用法は一般に使用されていることは確かです。失礼いたしました。
- otasuke009
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参考URLに解説があるのですが、少々わかりにくいようです。 (古典)文法上は「我にあり」=「我なり」と解釈することも可能なのですが、かなり珍しい用法です。 私としてはこの意味は「復讐する(使命)は私にある」という感じがします。殺人者が神を気取っているような意味合いではないでしょうか。
「復讐するは我にあり」は読んだことはありませんが、一時話題になったルポルタージュ的な小説で、ある殺人犯をモチーフにしたものだったと思います。 ここで、「我にあり」は、復讐する相手は、誰でもない、社会でもなく、周囲の人間でもない、他ならぬ自分であるのであるという強調表現であると思います。 さらに言えば、「我にあり」の「我に」は「自らの性(さが)や行為の中に今日の自分となった因がある」ということであると思います。よく、日常会話でも、「こうなった因は我にある」という使い方をしますね。同様の用法と思います。