• 締切済み

運命はあるんでしょうか。

ある哲学人間に運命はないと否定されました。 でも、流されて行き着いた未来も、自由に自分の行動で得た未来も、運命じゃないかと思うんです。 "運命が変わった"といった実感ができない以上、どうであれ運命はあるんじゃないでしょうか。もしくは、運命があると断定はできないから、運命はない、もしくは分からないとしかいえないのでしょうか。 この世の物がすべて物質で、きまった物理的化学的法則でうごめいているならば、決まった結果になるのは当然だと思います。 まぁ、私は霊的な何かを信じたい性質(たち)ですが… 感覚的でも哲学的でもいいので、 回答お願いします。 ここで、あなたの回答をもらうのも、 また、運命のような気がしてならないの…。 (なんちゃって

みんなの回答

回答No.20

運命とは「命を運ぶ」と書く。 命を運ぶとは、すなわち生きる行為。誕生してから、死亡するまで命を運んでいく。命を運んでいる時に起きるさまざまな出来事、つまり「生きている間に起きた出来事」が運命だと思います。

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうございました。 私も明日を生きる為に、 そう考えるようにはしていますが…真理があるとすれば、知りたいと思いました。

回答No.19

バタフライ効果の話が、前に出てきましたね。バタフライ効果(初期値過敏性)によると、決定論的な法則でも,初期条件がほんの僅かに変わるだけでも、その後の挙動に大きな差が生じ、そのため長期の予測が困難になります。これはカオス理論の考えから導かれたものです。 これは、要するに、短期の天気はある程度の高い確率で予測できるが、長期の予測はほとんど当たらないことを、数学的に解き明かしたものです。 運命も、この天気予報と同じようなものではないでしょうか。今日とか明日の運命はほとんど決まっているのかも知れないし、そんなに変えることも出来ない。しかし、一年先や十年先のことなんて誰も分からないし、毎日の行動によって未来がどうなるか、絶えず揺らいでいるのかもしれない。 人間に自由意志というものがあるならば、未来の運命は変えることが出来る。全ての運命が決まっていれば、人間の生きる意味がない。それでは、神が創った単なるロボットでしかない。そんな神のように全知全能なる存在は、物理学用語でラプラスの悪魔と呼ばれる。全知全能なるラプラスの悪魔は、ミクロな物理法則を確率論的に取り扱う量子力学の登場によって、ひとまず退散した。 しかし、アインシュタインは、神はサイコロを振らない、と言う。科学は常に新しいパラダイムに置き換わる可能性を秘めている。また、いつ、このアインシュタインの考えが復活するかもしれない。あの宇宙項、ラムダのように。 一ついえるのは、人間は絶対に死ぬ運命にある。しかし、その日がいつ訪れるのかまでは分からない。 敬天愛人という西郷隆盛の言葉があります。西郷さんは、天を敬い、人を愛することで、自分の悲劇的な運命でさえも、天命として受け入れることができたのかもしれない。 私は余り不変の運命を信じたくはないが、ゆる~い宿命みたいなものを感じて生きていたい。

adaypajimy
質問者

お礼

下の方まで読んでくれて、ありがとうございます。 今の私に、アインシュタインの言葉は痛烈ですね。 今、わからないものを考えるのは悪い事ではありませんが、結論を急ぐのは悪い事だと感じました。 でも、もし水槽の中でサイコロを振るとして、同じ2つの環境("落ちる高さや落ちた時の角度が同じで、床とサイコロが同じ物質でできていて、サイコロを構成する分子数が等しくて、温度も湿度も同じで、空気を構成する分子数が同じで、そのひとつひとつが同じ方向に動いている環境")があったならば、 他に、物理的影響を与える条件がなければ、サイコロは同じ目をだすと思います。同じ経過(軌跡)で同じ結果になる。ならば、その水槽が宇宙ならば、運命は決まっているとしか思えません。 まぁ、私も"運命の人"に出会いたいです…

  • pcbc
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.18

気持ちはよくわかります、『運命は絶対ある!私は幸せになる運命だ!』と考えたら気持ちいいですよね。 その哲学人間は、哲学的な目で見ただけだとおもいますよ。哲学は、原因結果を重んじるんですよ^^ 私の見解としては、この時点でこれからどうなっていくのかという点では、運命はあると思います。けど、運命は変えれるとも思っています。 よい運命を信じて全力で生きるか、よい運命を信じないで全力で生きるかの違いだと思います、もちろん前者のほうがいい結果を生みそうですよね。 運命っていうのはそういう物だと思います。 しかし、なにもしようとせずに何かを得れると思っているのは、いけないですよ。

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうござます。 変えた運命も運命なら…と考えるから、 私は混乱しています。 何かをして得るつもりです、今のところ。 また、それも運命ではないでしょうか。

回答No.17

たとえ現時点では判らなくても 長い一生の中では 人は運命を感じることは あるものだ. と思っている.   そのほうが楽しいと思いませんか? いくら平凡な人生を送っている人であっても.    

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうございます。 私もSFは大好きですが、この質問も、ある小説を読んだのと、ターミネータ3を見て色々考えて質問をしてみました。運命が変革できようとも出来なくても、見えない未来を今望むものにするまでですね。

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.16

私は運命論者です。 最近も小さなことで大きな運命の岐路に立たされたことを実感しました。タバコがきれたので、いつもの自販機に買いに行った。でもたまたまいつも吸っているタバコが売り切れていた。さて、別の自販機に買いに行く。でもちょっと待てよ、これは健康のためにタバコを控えろと(運命に)警告されているのかもしれない。いつもの自販機がある道を引き返し、別の自販機につながる岐路で立ち止まり私はふとそのように考えました。私は今運命の岐路に立っている。私は今こそ己れの運命を決めようとしているのであーる!大いなる直感に耳を傾けるべきときではないか。いつもは親のようにこうるさい小言をムシしてきたけれど、自分のために「売り切れ」の状態を示しているのであろう。…そのままずいぶん悩んで…結局タバコを買ってしまいました(笑)。 しかし買わずに家路につく道すがら事故にあって死んでいたかもしれませんよね。それも運命なのです。いや、どっちにするかとハムレットのように悩んでいた時間、私は死の機会から逃れていたのかもしれない。今まで意志の力は運命を決めると思ってきたけれど、結局その意思すら運命が指令をだすのだと思いました。 大脳が身体に神経ネットワークを使って行動を起こさせますが、その神経たちを司るのは「心」であり、その心を支持するのは「魂」であると思っています(きっぱり)。つまり「身体」は「魂」の端末であり、その全ての司令官は「運命」であると思います。 すごい数の人がこの地球上に乗っかっています。一歩外に出ればそのまま会えない人とすれ違う。つまり「袖触れ合うも何かの縁」ですね。そのまま一生すれ違ったままの人もいれば、そのときはわからなくても再会し、もしかしたら人生のパートナーとなるかもしれない。天災などの不可抗力以外の運命、他者との出逢いなどによる人生の影響もひとつの運命としたとき、誰かにとってのひとつの運命は最大公約数の運命をも決めるのだと思えます。その無限に広がりゆく事象と色彩とは、さらに彼らにとって「他者となる誰か独り」にもその影響を与えているわけです。例えばそれは池に石を投げたときの波及のようなものでしょう。違うのはその波紋が広がって消えるのではなく、核となる存在(自分)にも還っていくのではないでしょうか。 実際上に生きていくうえで、人はひとりでは生きていくには困難です。無人島などで食べるものの資源が多ければ一人で生きていくことは可能でしょう。天災くらいが運命を左右するものでしょう。つまり複雑な社会がより複雑な運命を作っているのではないか。人との関わりを多く求めればそれだけ運命に翻弄される可能性も生じる。でもだからといって、あえて孤独に身を投じても、社会とはどんなものかという概念がすでに存在しているのならば、自分の運命も想像の中では投影できるわけです。では生まれっぱなしの赤ん坊は運命を享受できるのか?ウーム…。 「惨劇は突然に姿を現すのではない。日常の中で密かに用意されている」という言葉があります。運命という響きやイメージとは大仰に感じられますが、実は日々の小さな何かの積み重ねからそれは突然実体を伴ってくるのですね。いつも無意識にほったらかしにしておいてから、それが肥大化して立ちはだかったとき大きな衝撃となるのでしょう。逆に言えば自分が幸福とするものも同様に自分に還ってくるのです。それは池の波の例のように。 話はそれますが「運命」ときくと特定の性質の人を表す「運命の女(ファム・ファタール)」という言葉を連想します。古今東西、映画や小説で語り告がれてきましたが女性のタイプではなく一つの概念でしょう。男の人生を狂わす女というのはえてして悪い女というイメージですが、単に自分に素直であり、つまりそのコアの回転が他の女性と違い強烈ですから、その求心力に巻き込まれた男性側の悔し紛れの呼称ではないかと思います。 「運命と天命」については私も同感です。でも微妙に違うと考えます。前は「運命は変えられる、でも宿命は変えられない」と思ってきましたけれど、今は「運命も宿命と同じであって変えられない」と思います。運命は意思(先のタバコの例)のひとつでいかようにもなるように見えるけれど、例えるならば孫悟空が金東雲に乗っかってすべての世界を見てきたと思っていたら実はお釈迦様の手のひらの上だった、というように、結局運命は宿命の手中にあるのでないでしょうか。運命と共にある私たちは大きな存在の上で右往左往しているわけです。とすればそんなふうに無駄な労力使わず「運命に流される」方がラクかもしれません(笑)。 ご質問者さんのお礼に書かれている「>悲痛な運命に、真理で対抗できるわけで」という言葉は非常に興味深いと思います。ご質問者様の想うその真理とはどのようなことか、ということをお聞かせくだされば幸いですが、私にとってのその真理とはやはり「意思の力」です。つたない「ヒト」という存在が、神々のチェスゲームの駒のように翻弄されるとき、唯一持たされたその武器をふるいながら運命に抗う姿っていいなあと思います。

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうございました。 考え方が異なりますが、そのままの意味ですね。 「悲痛な運命に、真理で対抗できる」というのは、 例え運命が決まりきっていても、哲学的な意味で真理(原理や法則)を知りえたならば、悲痛なものが和らぐということで使用したのだと思います。 ある漫画の受け売りですが、 神聖な事柄を無視して物事を解釈して真理かどうか知りませんが、幸福と不幸を解釈してみます。 この世に"白"という色があるのはなぜかというと、 白という色以外に黒とか青といった色があるから、 白が白だとわかるのだ…とあります。 では、何故この世に悲しみがあるのか… それは楽しみがあるからです。 楽しみがないならば、悲しみはありません。 この世に山があるのはなぜでしょう。神様が山になった…といったような解釈では、無心論者には通じません。私も納得ができません。 しかし、山がある理由として、"この世に谷があるから"という理由は万人がうけつけるのではないでしょうか。凹んだ部分があるから出っ張る部分絶対にあるわけです。これは覆されない真理だと思います。 なんでもないことですが、二元論的に 悲しみも楽しみも、幸福も不幸も、山も谷も、その理由が反対のものが存在するということが、哲学的に解釈できたとき、人は悲しみを"楽しみの別の一面"と見ることが出来れば、無駄に悲しみを詮索するような必要はありません。 そういった意味で、このような真理は、考えようによって、良い方向に問題解決を図る事ができます。 このように悲劇は原理(真理)を知る事で対抗できるのではないでしょうか。 運命が決まっていたら絶望する人もいます。しかし、 運命が決まっていても決まっていても、生を満喫できると思います。天命の類ですね。 ガンで余命1年であるとして、医者から知らない方が良いと考える人と、知った方が良いと考える人の違いでは無いでしょうか。私は恐怖と絶望で打ちひしがれると思いますが、後者の立場をとりたいと思っています。 真実を知りたい欲求があるんですね。

  • yoh001
  • ベストアンサー率34% (24/70)
回答No.15

adaypajimyさん、こんにちは。 こんな思考実験をしてみました。 大きな、大きな、らせん階段をイメージします。 そのらせん階段をその中心軸を通って縦に大きな壁を設定します。 僕達は、今、このらせん階段を一歩一歩登っています。 さて、壁が目の前に来ました。 ドアがあります。ドアには「死」と書いてあります。 肉体を脱ぎ、そのドアをくぐりました。 あの世の世界です。くぐったドアを振り返りました。 「ご誕生おめでとう!」と書かれています。 今まで肉体を持って暮らしていた時のことを、 高精度高速ビデオテープで再現し、反省させられます。 そして、ここでの暮しが始まります。 ここでの世界は、 自己の想念が瞬時に目の前に現象化する世界です。 美しいものを思えば、美しいものが眼前に出現します。 残虐な意識であれば、残虐な状態が出現します。 人それぞれ、天国であり、地獄であるわけです。 心の同波長の者どうしがいっしょに暮らす世界です。 さて、螺旋階段を登り続けます。 また、壁にやってきました。ドアがあります。 またまた「死」と書いてあります。 これから始める人生計画を指導者の助言を受けて練ります。 これが、運命。 細かに計画を立てる人もいます。大雑把な人もいます。 宿命といえるまでに固く設定し、 他の生命と約束することもあります。 でも、運命は与えられた自由意志で変更していくことも 可能です。 強く決心し、勇気を出して、肉体を纏うためにドアーをくぐります。 内心、イヤ、イヤの人もいます。 ですから、生まれたら「オギャー」と泣くのでしょう。 でも、だいたいはすぐに、 くぐる前のあの世のことと以前のこの世のことは、 記憶喪失の状態にさせられます。 今回の修行の邪魔になるからです。 様々な心の波長の違う人たちと一緒に暮らすことになります。 これが心の修行なのです。 ドアを振り返るとやはり「誕生おめでとう」と書かれていたのでしょうが、 この世のお父さん、お母さんに 「誕生おめでとう」と祝福されて泣き止み、ニコニコします。 僕達はこうして、人間の形態レベルにある間は、 螺旋階段を一歩ずつ、 永劫の未来に向けて、 心の進化をし続ける「生命」なのです。 僕達生命は、みな兄弟姉妹なのです。

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうございました。 たしかに… NHKの番組で、ボケ防止の為におばあさんが、算数ドリルや幼稚園児のような本を読まされていました。 これを、幼児に帰っていくと見遣ることができますから、人間はサイクルがあると感じる事もできますね。老人というか人は生まれた時点で、死の門に着々と進んでいますが、逆に赤ん坊は生の門をくぐってくる。そして成長して知恵を蓄えるが…大人になればやがて衰え、物事を忘れて、歩けなくなり、赤ん坊のようにおむつをつける…そして死の門をくぐるといった、輪廻を感じますね。

  • mickel131
  • ベストアンサー率36% (36/98)
回答No.14

この世界は、偶然によって動いている世界だ、と思うか、何らかの因果関係によって出来事が起こっている、と考えるか、どちらをとるか、ということじゃないでしょうか。私は後者です。全ての出来事は、本当の自分から、肉の自分へのメッセ-ジと捉えます。  人は、自分を肉だと信じ、この肉の世界でなんとか幸せになりたい、喜びを見出したいと願っています。  人はまた、「自分は正しい。間違っていない。」と強く思っていますし、そう思いたいと、思っています。  しかし、私たちはみな間違っている。 ここが出発点です。 私たちは、本当のことをほとんど知らない。無知で、欲にまみれていて、エゴの塊。苦しんでいる自分さえ、無視して、己に鞭打って馬車馬のように生きている毎日ではないでしょうか。その私たちの心からは、真っ黒な破壊のエネルギ-が流れているのです。全宇宙にヘドロを撒き散らしているのです。エネルギ-は仕事をします。人類1人1人が撒き散らした悪のエネルギ-は、自らに矢を射る結果となって、帰ってきます。それが、これから人類が遭遇していく天変地異です。本当のことを忘れ去ってしまった私たちは、それを通してしか、気付いていくことができないのです。私たちはみな、本当の姿に帰っていく大きな「 意識の流れ 」の中にある、そう思いませんか。そして、天変地異で肉の命を失っていくとき、何を思うかがとても大事なのです。人間は肉ではありません。永遠に存在するエネルギ-です。苦しんでいる自分は間違っている。苦しいのは、私たちが、本来の心から離れ、間違ったエネルギ-を出している、ということなのです。それを本当の自分が、肉の自分に伝えているのです。病気も事故も、突然起こってくる不都合な出来事も、私たちを苦しめるためのものではありません。あなたは間違ってますよ、気付いてください、とやさしい波動が流れています。それは、本当の自分から、肉を自分と思っている自分への、メッセ-ジなのです。  運命は、心を原因とし、波動が現象化されたものですが、運命を良くしよう、とする生き方は、さらに苦しみを作り出していきます。運命をよくしようと思わなくても、自分の心を見て、自分の心の間違いに気付いていく生き方をするとき、あなたは幸せに気付いていきます。  参考になったら幸いです。

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうございました。 肉の器に納められた魂というエネルギーとして、この世の理不尽を釈明したよりよく生きる方法ですか。大きな世界を感じますが、それが運命であるならば、絶望にも希望にもなるでしょうね。

回答No.13

あるかないか確認できないものを考えることほど、愚昧なことはありませんよ。 まあ、答えとしては半ば有り、半ば無いというところですかな…。

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.12

運命はあってもなくても一緒です! 未来を100%予知できる人という人がいたとしましょう。この人に100回予知してもらって100回とも予知が的中したとしてもそれは絶対に予知を外さないということにはなりません。101回目で外すかもしれないからです。屁理屈に聞こえるかもしれませんがこれは重要です。 人の運命を見ることができるというこの人も101回目に予知を外す。これは仮に運命が存在していたとしてもこの人が101回目に予知を外すという運命だったのです。 つまり運命が存在していてこれから先のことはすべて決まっていたとします。 こうなると運命として先のことが決まってるなんて嫌だ!運命を変えたい! そう思う人はきっといますよね?安心してください^^ 仮に運命を100%言い当ててそうな人があなたは明日死ぬと言っても死ぬとは限りません。その人が今まで何十年も予知を外さなかったとしても今回外すことが本当の運命かもしれませんから。 何が言いたいのかといいますと、運命を知ることは絶対にありません。何があっても運命を知るすることはできません。だからあってもなくても私たちには一切、影響はありません。 未来は間違いなく自分で創るものです^^

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうございます。 たしかに、運命があってもなくても、これから生きていく上では、なんでもない問題かもしれません…けど、 哲学ってそういうものですよね。よく知りませんけど。 運命を変えたい→変えた。これもまた運命ならば、運命はやっぱり普遍じゃないでしょうか。 って、なんでさっきから回答者みたいなことやっているのでしょうか。 未来を創りだしているようでいて…カッコよく言えば、因果律に囚われている気がしてなりません。

回答No.11

運命とは変えられないものと考えて回答させていただきます 何しろずっと前からそういう解釈をしてきたもので・・・・ 信じません 否、信じたくないのです なぜかというと何もかも自分の行く先が決まっているなんて嫌だからです 例えばあと数分後に自分は死ぬということになっても絶対防げない・・・ もともと決まった人生ならなぜ時間をかけて生きるのでしょう こんな嫌なことがあるだろうか 僕は信じたくありません 少し話し外れますが運命の存在を証明するのには100%未来を予知できるようにならないとだめでしょう どんな状況においてもいくら遠い未来でも予知できるのです 運命がないのならば未来は変わることがありうるので 100%の未来予知はどんなことがあっても不可能です 100%的中する未来予知能力を持った人間が現れれば僕も運命を信じます

adaypajimy
質問者

お礼

ありがとうございます。 でも、数分後に死ぬことが分かった時点事も運命ですから、それが回避できたら、それも運命だから…もともと、数分後に死ぬ運命は存在しなかったことにはなりませんか。 >少し話し外れますが運命の存在を証明するのには100%未来を予知できるようにならないとだめでしょう そんなことはないと思います。ミクロ世界で法則にのっとっていて、人間(物質)の人生を当てはめた運命も、決まった法則で流れていると分かるのではないでしょうか。 運命がない=運命は変わる事がある。 は、成り立たないと思います。 人間が土星とどれだけ離れているのか知ったのは、モノサシで実際に計ったのではなく、自分たちの立っている地球の"現象"から求めたわけですよね。科学の事はよくわかりませんけど…。 それならば、完全に予知する人間がいない、なおかつ、まだ未来が読めない状況だとしても、運命の有無を確かめる方法は下記のお礼にも書きましたが、1つあるのではないでしょうか。

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