江戸時代の僧侶には、女を抱いたりする、なまぐさ坊主が多かった。ところが、それらのなまぐさ坊主達は、『好色な女』を『お布施』と呼んでいた。『お布施』とは、お寺に寄付するお金。開けて、中身を調べるのが楽しみだ、という意味である。
この時代の僧侶は、不勉強で、戒律を犯す坊主が多かった。16、7世紀までは、文字を自由に読み書きできるのは、公家と僧侶だけであり、僧侶は、最高の知的エリートだった。ところがその後は、僧侶、武士、商人の知的水準が、ほとんど同じになってしまった。それだけ、僧侶が堕落したわけである。特に女性関係で堕落が激しく、寛政八(1796)年には、67人の女犯僧がさらし者にされている。これは、一面では、強大な治外法権を持つ宗教界への幕府の弾圧、民衆へのデモンストレーションでもあったが、僧侶の腐敗ぶりをよく示している。
僧侶達は、酒を『般若湯(はんにゃとう)』と言い換えたように、禁制のものを別名で呼んでいた。ドジョウはよく跳ねるから『踊り子』、男性のシンボルは鐘を突く『撞木(しゅもく)』であり、その撞木を使って、女性を『成仏』させることに励む僧侶が多かった。
吉原について言うと、なぜ遊郭を町の真ン中に置いたかというと、犯罪人摘発のためである。
吉原に来て金を使いすぎるとか挙動不審な者、あるいは無宿者を検索する秘密警察、高等警察の出先機関として、遊郭を利用していたのである。
もちろん、遊郭を幕府が奨励していたわけではない。けれども、江戸には、都市計画を実施するために労働力を結集した。結果として男性が増える。となると洋の東西を問わず、遊郭が自然発生的に出来る。存在を認めるかわり、協力させるわけだ。そこで日本人はそれを、犯罪者摘発の場として利用していく。
遊郭の経営者を行政機関の手先とする。例えば、。怪しい者がいると、役人に通報することを義務ずける。その代わり、遊郭は一切無税で、多少の課役の他冥加金を免除する。これも、江戸時代の治安維持のために発想した、ユニークな智恵といってもいいだろう。
お礼
回答ありがとうございました。 遊郭と幕府の持ちつ持たれつの関係、とても興味深いですね。 撞木には驚かされました。そのしゃれっけに笑ってしまいます。