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江戸時代の性風俗と宗教

 江戸時代は幕府公認の性風俗として遊郭などがありましたが、当時宗教てきには問題なかったのでしょうか。 仏教の考えかたと、キリスト教の考え両方教えてください。それから武家と公家での考えかたはちがわなかったのでしょうか。

みんなの回答

  • junt
  • ベストアンサー率38% (97/254)
回答No.4

 江戸時代の僧侶には、女を抱いたりする、なまぐさ坊主が多かった。ところが、それらのなまぐさ坊主達は、『好色な女』を『お布施』と呼んでいた。『お布施』とは、お寺に寄付するお金。開けて、中身を調べるのが楽しみだ、という意味である。  この時代の僧侶は、不勉強で、戒律を犯す坊主が多かった。16、7世紀までは、文字を自由に読み書きできるのは、公家と僧侶だけであり、僧侶は、最高の知的エリートだった。ところがその後は、僧侶、武士、商人の知的水準が、ほとんど同じになってしまった。それだけ、僧侶が堕落したわけである。特に女性関係で堕落が激しく、寛政八(1796)年には、67人の女犯僧がさらし者にされている。これは、一面では、強大な治外法権を持つ宗教界への幕府の弾圧、民衆へのデモンストレーションでもあったが、僧侶の腐敗ぶりをよく示している。  僧侶達は、酒を『般若湯(はんにゃとう)』と言い換えたように、禁制のものを別名で呼んでいた。ドジョウはよく跳ねるから『踊り子』、男性のシンボルは鐘を突く『撞木(しゅもく)』であり、その撞木を使って、女性を『成仏』させることに励む僧侶が多かった。  吉原について言うと、なぜ遊郭を町の真ン中に置いたかというと、犯罪人摘発のためである。  吉原に来て金を使いすぎるとか挙動不審な者、あるいは無宿者を検索する秘密警察、高等警察の出先機関として、遊郭を利用していたのである。  もちろん、遊郭を幕府が奨励していたわけではない。けれども、江戸には、都市計画を実施するために労働力を結集した。結果として男性が増える。となると洋の東西を問わず、遊郭が自然発生的に出来る。存在を認めるかわり、協力させるわけだ。そこで日本人はそれを、犯罪者摘発の場として利用していく。  遊郭の経営者を行政機関の手先とする。例えば、。怪しい者がいると、役人に通報することを義務ずける。その代わり、遊郭は一切無税で、多少の課役の他冥加金を免除する。これも、江戸時代の治安維持のために発想した、ユニークな智恵といってもいいだろう。

aiaian
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 遊郭と幕府の持ちつ持たれつの関係、とても興味深いですね。 撞木には驚かされました。そのしゃれっけに笑ってしまいます。

  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.3

 江戸という都市は大半が地方からの移住で、男性人口が多かったので、私娼も増えました。それに伴う治安悪化や衛生上の問題に対する対策として、公娼としての「遊郭」がもうけられました。  宗教的・思想的に問題はあったとしても、治安、並びにそれに伴う経済効果などを現実面を見た結果として、遊郭を設けたほうが得策であると幕府は判断したのでしょう。その遊郭を利用するかしないかは、個人の問題です。当然に仏教・儒教・道徳家は遊郭に行くことを批判します。それに従うか、従わないかは別にして。 (まぁ、政治家が思想を重視した政策を行うと、たいてい失敗するように思えますがね。ポル・ポトとか北の将軍様とか)

noname#113260
noname#113260
回答No.2

まず僧侶ですが、出家というのは俗世と縁を断つ行為ですから、家族を作ることに繋がる女性との関係は「女犯」として禁じられておりました。 そこで男遊びというか、男性同士で肉体関係を持つことがあり、これは武士でも戦国時代では一般的なことでした。 武田信玄も男関係に悩み自分の愛人(男性)に浮気はしないと起請文を出したのが後世に残っていたり、織田信長も前田利家や森蘭丸などと肉体関係を持っていたといわれており、江戸期に儒教が入るまでは目くじらを立てる事も無かったようです。(現在で言う「友情」という形を考えていただければ) 話を戻すと江戸時代には「陰間茶屋」という男娼のいるところがあり、僧侶もここで遊んだようです。 因みに男娼は役者の玉子がアルバイトで勤める事もあり、概ね10代の美少年ですから、20歳を過ぎた物は女性相手に転じました。 そうは言っても女性が好きな僧侶もおり、こうした僧侶は医者に変装して(正規の医者も髪を剃っているので)遊んだようですが、勿論これは罪になり寛政8年には70人あまりの僧侶が処罰されました。 ちょっと脱線しますが、江戸時代は夫婦の関係はほぼ同等で、女性も強い権利を持っていました。 よく「三行半」という言葉がありますが、あれは今で言う離婚証明のような物で、夫は妻の持参金を返さないと離婚が出来ませんし、夫も受取書を貰わないと再婚が出来ない場合もあります。 現在でも女性の着物に実家の紋を入れますが、あれは結婚前の財産は自分の物という意思表示で、夫といえど妻の財産を勝手に手を付けることは出来ませんし、武家であれば自分と同等の家から妻を迎え、上司の仲人で結婚しますから、妻も実家の力を背景にあるので、粗略には出来ません。 また離婚した妻(未亡人も)は処女ではありませんから、男性と付き合っても割と大目に見られたようです。 『たそがれ清兵衛』で、宮沢りえが演じる朋江が清兵衛の家に度々遊びに行き、清兵衛とも親しくしますが、武家の未婚の娘ですといささか問題がありますが、朋江は離縁して実家に戻った女性なので、周囲も何も言いません。 さて話を戻すと、武士の女遊びは分を弁える(金銭)分には非難されません。 武家の場合家の存続が第一ですから、複数の女性と関係を持ち、多くの子供を得ないと、子供の死亡率の高い時代ですから、家の存続に関ります。 その延長線上で吉原で遊ぶのも粋という事かと。 公家は元々「妻問婚」で、女性の家に男性が通う結婚ですから、遊女遊びもかなりあったかと。

回答No.1

江戸時代、キリスト教は禁じられていました。 (隠れキリシタンは実際はいましたが) 仏教は、当時本当の宗教というよりは、名目上って感じのところが多く…、僧侶自身も男色にふけったり(女色は禁じられているので、男色に走るわけです。男性が男性に対して色を売る陰間茶屋等の主な顧客は僧侶でした)、また、宗派によっては女色も公然とではありませんが、行われていました(代表的なのは京都の西本願寺辺りでしょうか)。 ただし、女色は本来僧侶は禁じられているので、一般の僧侶で、見つかると刑罰の対象になったりもしました。 武家や公家も含めて、出家していない一般人はいずれにしても、全然問題ないです。何しろ、遊郭以外の姦通(不義密通)は死罪にも値するわけですし、嫁を貰えない男性がゴロゴロしてたので、遊郭でもなければ困ったことになりますから。 ただ、公家の遊行のお話はあまり聞いたことがないので、実際にどうだったのかは詳しくありません。(お金がなくてそんなに行けなかったかも)宗教的な面では全然問題ありませんが。