アメリカに36年住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。
これは、英語にIかmeしかないのはなぜかと考えるよりもなぜ日本語にはそのようにたくさんあるのか、と考えた方が、英語のように自分を示す物が少ない言葉に理由を見つけるより分かり易いのではないかと思います。
言葉とはフィーリングを伝える道具だとこのカテで私は言いつづけています。 フィーリングを上手く伝える事ができるということは表現すると言う事だけでなく相手にそのフィーリングを分かってもらいたいからこの表現をするんだと考えることができると思います。
さて、上に私は「私なりに書かせてくださいね。」と書きました。 これを、「俺なりに書かせてくださいね」と書いたら、それを読んだ人は私のことをどう思うでしょうか。 「俺」とかいてそれが持つネガティブなフィーリングを持って欲しくないから無難な「私」を使う、と言う考えがありますね。 また、「拙者は」なんていったら「昔の言い方だな」と感じるよりも「この人ちょっとおかしんじゃないの」と感じてしまいますよね。
つまり、これらはこれらなりに相手に伝えようとする意味あいがあると言う事です。 でも自分のことを言っていると言う事自体は同じです。 そう考えると、これらは単なる「違う意味合いを持った」単語であってnice,good,inexpensive,fast等の形容詞が全て「いいね」という意味あいで使われるにもかかわらずこれらの単語持つ意味あいの範囲が変わってくるのと大変良く似ていることがわかります。
しかし、日本語は他の言葉と同じようにその言葉が話されている文化を表現している物、言い換えれば文化が表現方法を変えていると考えると日本では言葉の使い方によってその人の性格・人格またイメージなども一緒に表現「しなくてはならない」言葉だと言う事ができると思います。
これは自分を示す表現だけでなく相手を表現するのも同じですね。 さらに、「丁寧な単語」だけでなく、文章の終りの表現も非常に大切な「文化的要素が高い」表現力のひとつとなると思います。(なると思うぜ、なると思いますわ、などと変化させる事で「自分」のイメージ・雰囲気を変えることができますね)
つまり、外人さんがこの変換を上手く使うと結局「日本語が上手いな」と評価されるわけですね。 つまり、TPOにあった日本語を使い分ける表現力を持っていると判断されるわけです。
では英語の場合はどうかと言うと、性別による違い、地位による違い、年齢による違いがそのまま社会的立場の判断には使われない、と言う根本的な文化的違いが非常に日本より少ないので言葉による変化を持たせる必要がそれほどない、と言うことになるわけですね。
しかし、「人間としての基本的感情」というものはどの言葉でもありますね。 つまり、自分の身近な社会にいる人とその外側にいる人に対しての対応の違いを持たせたり相手の気持ちを思う気持ちなどはあるわけです。 ですから、他の言葉でも英語でもこの違いをだす「丁寧な表現」というものは存在するわけです。
ですから、日本語の「各自分」が持つフィーリングを出す必要があると感じた場合はA girl like me, とかthough still young, とかAs an old guy,と言うような表現をしなくてはならなくなるわけです。 道具なわけですから使い慣れる・使いこなせるようになるまでは大変かもしれないけどそうなれば非常に便利な物だと言う事にもなるわけですね。 ですから、言葉は道具である、と言う表現がこの意味合いも持っているということが分かると思います。
と言う事で、フィーリングを伝える道具としての言葉と言う視点から全くの自己主張ですが書かせてもらいました。
これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。
お礼
ありがとうございました。他者依存的,状況依存的なものである・・・なるほど。説得力があります。