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坂本龍馬
みなさん! 何か龍馬の真実や面白い、言い伝えなどを知っている方が いましたら教えてください^^ まず私が知っている竜馬の真実は・・・ じつは龍馬は目が悪いわけではなかった! これは小説家が物語りを面白くするために勝手に作られた設定なのです。 じつは龍馬は北辰一刀流の免許皆伝者ではなかった! 龍馬は、北辰一刀流の剣の免許皆伝者だという記録は どこにもないのです。 千葉道場のナギナタの免許皆伝者だという記録は 残っているそうです。
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- thgoo
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免許皆伝でなかった云々・・・とはよく本で見かけます。 「長刀」といった言葉の意味が現在と違うのではないでしょうか? 「長刀」といった言葉は千葉道場の独特の言い方かも知れません。 竜馬がかなりの剣豪・豪傑であった事は、その免許皆伝を見るまでもなく土佐の道場時代の剣豪ぶり、各地での武勇伝を見れば分かります。 剣豪・豪傑でなければ寺田屋で幕吏100人を相手にひるむ事なく三吉と二人だけで堂々と戦う事は出来なかったはずです。 千葉道場一の剣豪ではなかったかも知れませんが、西郷、木戸、大久保、高杉、久坂、山県、井上、伊藤、中岡、後藤、板垣、武市、海舟などといった志士、政治家達と比較すると抜群の剣豪でした。 竜馬が仮に千葉道場で免許皆伝を取得していなくても、竜馬が剣豪でなかったといった事にはならないのです。
- gouhou
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坂本竜馬の先祖といわれるのは明智左馬介秀満です。 秀満は光秀の甥らしいです。 剣術の流派は北進一刀流だと僕の読んだ本には書いてありました。元をたどれば全て伊藤一刀斎影久の一刀流ですからあまり変わらないと思います。 ちなみに竜馬は10代の半ばまでおねしょをしていたらしいです。
- chimney
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山崎の合戦から逃げ延びた太郎五郎は土佐に渡り才谷村(現高知県長岡郡)に住み着き長宗我部氏の家臣となったと言われています。 分家の「坂本」姓は光秀の居城坂本城からとったとも言われています。 坂本竜馬の本名(忌み名)は坂本竜馬直柔(なおなり) 愛用していた銃はスミス&ウェッソン・リヴォルバー第2型、アーミー32口径 しかし、寺田屋で襲われて怪我をして以降、ろくに扱えなかったという。もちろん刀さえも。 >その後、光秀は家康に拾われ徳川家の相談役兼坊主として、仕えたようです。 南光坊天海のことですね。 他にも光秀=天海の根拠とされていることは、 ・天海の戒名が慈眼大師…光秀は慈眼寺に祭られている。 ・松禅院にある石灯籠には「慶長二十年(1615年)二月十七日 奉寄進 願主光秀」とある。 ・唯一の光秀の肖像画がある本徳寺にある光秀の位牌には慶長四年(1599年)にこの寺を開いたとある。 …とまあ、それらしき根拠はあるにはあるのです。 もちろんそれに対する否定的な意見にも根拠はあります。 坂本竜馬からは少しずれてしまいましたね。 しかし、私はこういったいわゆる俗説にこそ歴史の面白さがあるのではないかと思います。 「義経は平泉で死んではいなかった」とか「聖徳太子は後世の創造である」とかいった話は、 真偽はともかくとして興味を駆り立てるものがあります。 竜馬暗殺の真相とかを調べてみるのも面白いかもしれません。
- chimney
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竜馬は辰年生まれでも午年生まれでもない。 …未年生まれ 竜馬は明智光秀の子孫であるという説がある。 …坂本家は才谷家の分家であり、戦国時代までさかのぼると光秀の娘婿明智秀満の庶子太郎五郎の末裔とされている。 竜馬も光秀も「重ね角に桔梗」紋であることもその説の理由とされる。 日本で最初に新婚旅行をしたという記録があるのは竜馬ではない。 …梁川星巌という人物。旅の詩集まで作っている。
- sgi1962
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幼少期 ものすごい小心者で虫も殺せなかったそうです
補足
小心者ってのは知っていましたが、 虫も殺せないってのは初めて知りました! そうだったんですねぇ☆
- kankasouro
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龍馬の近眼については近親者の証言が残っています。 薙刀云々は北辰一刀流長刀兵法目録という伝書の解釈によるものですが、「短刀」に対する「長刀」つまり刀のことであるという説もあります。 両方とも憶説です。
補足
その近親者の証言とは誰ですか??? 北辰一刀流の免許皆伝なのですが、 北辰一刀流の本部 玄武館でお話を 聞いたところ、やはり長刀(ナギナタ)という 術が昔から現代でもあるようです。 剣を使う者が兵法を磨き、術の美を追求するものとして ナギナタを身につけていたようです。 千葉定子の歴史記録を見ても、はっきりと剣、馬術、長刀に優れていた・・・ と書かれてあります。 その近新者の証言というものがとても気になります。 よければ誰か教えてもらえないでしょうか? お願いします。
補足
ふむふむ・・・ 羊年というのは聞いたことがありました。 でも光秀の子孫説というのはすんごくびっくりしました! 重ね角に桔梗・・・ といえば、本能寺で信長を暗殺した男・・・ じつは黒幕は家康だったという説があります。 その後、光秀は家康に拾われ徳川家の相談役兼坊主として、仕えたようです。 (2)代将軍、秀忠によって建てられた日光東照宮。 そこにはなぜか今も堂々と「重ね角の桔梗」光秀の家紋があります。 そして(3)代将軍、家光。 家康の家に光秀の光・・・・?家光!? 新婚旅行も龍馬ではなかったのですね! それもびっくりです! 勉強になりました。ありがとうございます!