ものが数えられるものと判定される基準について
不定冠詞をつけるのは名詞が数えられるものであることを示すためだと言われます。では、名詞が数えられるものであるかどうかはどのように判定されるのでしょうか。その答えとして、その名詞が表す<もの-同種のもの>が複数存在するという事実によって判定できるとネイティブは答えます。たしかにそうした経験的事実は、その<もの>が数えられるものであることを示してくれます。でも、<同種のもの>が複数存在しているとする判断はどのように行われるのでしょうか。今回の質問では、<同種>であるかどうかの判定は脇にどけて、<複数存在する>ことの判断基準についてご意見を伺いたいと思います。私の考えを提示しますので、それにコメントをお願いします。
<複数存在する>ことは個別のものが別の所にも存在することを意味します。ということは、まず、そのものが個別のものであることがどのように判断されるのかを考察しなければなりません。さて、そのものが個別のものであると認められるためには、そのものが単独で一つのものとして、すなわち一まとまりものとしてとらえられなければならないはずです。
ところで、人間があるものを一まとまりものとしてとらえることがどのように始まったかということですが、おそらく、目の前のぼやっとした(連続体としての)空間の中で、何かに興味を引かれそのものに注目することによって、連続体としての空間に切れ目を入れ、一つのまとまりを見て取ることから始まったのではないかと思います。
少し難しい話になりますが、人間が何かを客観的に認識する時、空間(及び時間)という形式を介して行います(この考え方が正しいかどうかを問題にすることに意味がありません。というのは、この考え方を認めなければ冠詞を含む限定詞の体系を否定することになってしまい、ひいては、英文法全体について論じることができなくなるからです。英語の文法は近代科学と共に発達してきたというのが私の持論です)。
一般に、人間が何かをひとまとまりのものと認識するとき、一番やりやすいのは空間的把握です。というのは、認識の際に使用される感覚器官のうちもっともよく使用されるのが眼だからです。例えば、木や鳥や本は空間的にひとまとまりのものと容易に認められます。→a tree, a bird, a book ---
二番目にやりやすいのは時間的把握です。その時に使用される感覚器官は耳です。例えば、音や声は時間的にひとまとまりのものと認められます。ここで言うひとまとまりとは、聞こえ始めて聞こえ終わりまでの時間的な持続のことです。→a sound, a voice, a yell, a call, ---
こうしたことは、少し詳しめの冠詞解説書に書かれていることもあります。ところが、そうした解説書は、何かが認識される時、空間と時間の両方の形式による認識が可能であることに触れていません。面倒だからというより、空間と時間という認識形式がどのような意味を持つのかよく考えていないのではないかと私には思えます。
例えば、I heard a sound [a voice] coming from nowhere. において、a sound [a voice] は時間的まとまりだけではなく、音の一定の広がり(聞こえる範囲)を空間的まとまりと見なすことができます。また、可聴範囲もメタファー的に空間的まとまりと見なすことができます。おそらく、聞こえ始めて聞こえ終わりまでの期間を表すとする方を優先するのが普通の感覚だと思います。
ところが、a walkの場合、a 5 minutes' walkとかa 2 miles' walkという言い方があるくらいだから
時間的まとまりと空間的まとまりとどちらが優勢か判定しにくいと思われます。判定は文脈だけでなく、おそらく聞き手の考え方やその時の気分にもゆだねられるのではないかと思います。
空間と時間のどちらの形式がよいのか判定しづらいものもあります。例えば、a smell [a scent]
の場合、匂いが立ちこめ始めて消えてしまうまでの期間と、匂いが立ちこめる範囲と、どちらを想定することも我々にはなじみのないことです。原理的にはどちらの考え方も成り立つはずです。
もっと判定しづらいもの(空間的メタファーをうまく用いないと説明できないようなもの)もありますが、今回は質問の対象外とします。
空間と時間の両方の形式による認識が可能であるのに、空間把握による場合が主であるような名詞のケース(例えばbook)を取り上げてみます。空間的にひとまとまりのものと判定することができるのは、あるものが無限に広がる空間(space)の中で有限の空間を占めることによります。spaceの中でa bookはごく一部分の空間を占めます。
一方、時間的にひとまとまりのものと判定することができるのは、あるものが無限に広がる時間(time)の中で有限の時間を占めることによります。この場合、有限の時間は期間と言いかえる方が適切だろうと思います。a sound やa warは一部分の時間を占めます。
では、a bookは時間的にどのように時間を占めているのでしょうか。a warの場合、始まりと終わりがあって、その間そのものが持続(存続する)ということは、一回の戦争が行われることを示します。だったら、例えば a personの場合、通常は空間的な把握(頭のてっぺんから足の先まで)によってまとまりがみてとれるけど、時間的な把握(誕生から死まで)によってもまとまりがみてとれるのではないかと思います。それどころか、生き物と製作物(製造物)すべてにこのことがあてはまるように思えます。
a bookの場合、執筆・編集・印刷・製本の過程を経て出版されます。その後、販売され、人々に読まれます。いつか読まれなくなって廃棄されます。これがa bookのlife historyです。一つの時間的なまとまりです。この考えでいいのでしょうか。
生き物と製作物(製造物)以外の普通名詞の場合はどうなのでしょうか。何度も繰り返される現象あるいは出来事の場合は、そのものの一生(life history)を想定しづらいように思います。その場合は、反復可能性のある現象、出来事あるいは行為が一回だけ行われたと見なすしかないように思われます。war, conflict, walk, call, meeting, action, discussion ---など。
ただし、空間と時間のどちらかを測定するための単位として使われるものの場合は、その特性上(もともとどちらかの測定のために一意的に作られたもので)、どちらかの制約(まとまり)を持ちます。例えば、a meterは空間的まとまりを持ち、a weekは時間的まとまりを持ちます。
では、物質名詞はどうなのでしょうか。物質は空間的には一定のまとまりを持つものと見なされません。一定のまとまりを持つと普通名詞と見なされます。例えばstone →a stoneのように。物質は時間的には、この世が終わるまで(言語共同体が終わるまで-すなわち人類が滅亡するまで)存在し続けるものと想定できます。よって、それまでは終わりのないものとされます。ということは数えられないということです。
同じことは抽象名詞にも言えます。抽象観念は人の心の中にあって漠然としてとらえどころのないものです。時間的には言語共同体が終わるまで人の心の中で生き続けます。数えることはできません。
ただし、個別のケースが想定される場合があります。例えば、a love for musicは個人または集団が心の中に抱くものですが、無冠詞のloveと違って具体的なものなので、その個人または集団が消滅すると同時に自らも消滅します。その後、別の個人または集団が、another kind of love for musicを抱くようになります。
固有名の場合は少し複雑です。普通名詞用法のa John Smithの場合は、a personの場合と全く同じです。身体の空間的伸び広がり(身長等の測定が可能)と生まれてから(名づけられてから)死ぬまでの時間的伸び広がり(誕生から死まで)を持ちます。
固有名詞用法の場合、外延-実物としてのJohn Smith (This is John Smith.)であれば空間的限定も見て取れる(身長等の測定が可能)し、時間的限定(誕生から死まで)も記録に残ります。ただし、外延-実物は一つしかないものなので数えることができません。
では、内包用法におけるJohn Smith (My uncle is John Smith.)であればどうなるのでしょうか。この場合のJohn Smithにはもちろん空間的限定はありません。一般に空間的限定がなくて時間的限定だけがあるといったことはありえませんから、この時点でaがつかないことがわかります。
では、時間的限定が存在しないことはどういうふうに確認できるのでしょうか。
外延-実物としてのJohn Smithはいつか死んでしまいますが、内包としてのJohn Smithは消滅することはありません。歴史に名を刻んで参照されたり言及されたりすることがありえます。戸籍簿から抹消されたとしても、人の記憶に残ります。又、伝説や伝統の中に残ることもあります。最終的には言語共同体の消滅と共になくなることになると思います。よって、aはつきません。
いかがでしょうか。