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関ヶ原の戦いの論功行賞
関ヶ原の論功行賞で 毛利が30万石に減らされ、 長宗我部はお家取り潰し など 西軍にこの上ない厳しい態度で家康は実行していると思うのですが なぜ、島津だけは領地の減俸がなかったのでしょうか? ・地理的に遠いから? ・「退き口」のインパクトに屈したから? ・まだ豊臣方が力をもっていたから? 是非、教えて下さい。
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- dora7075
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ウィキペディアで解説していることが回答になると思います。 簡単に言えば, ・朝鮮の役で島津兵の強さが証明されていた。 ・島津は関が原に1000名しか参加しておらず,薩摩本体には戦力が残っていた。 ・地理的に遠く,徳川本体も戦うには時間がかかりすぎる。もし,徳川本体が島津まで出向いていれば,他大名が反旗を翻す恐れがあったため。 ということだと思います。
- teccrt
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島津家の粘り勝ちです。 本来、家康としては東軍諸将への加増と、島津家の体力削減のために領土を削りたかったのですが、島津家は、 (1)西軍についたのは本意でなかった。 (確かに、関ヶ原前は東軍につく約束を家康としていたが、京都伏見城で徳川軍の鳥居元忠が島津義弘の入城を拒否したために、仕方なく西軍につかざるをえなかった。) (2)しかも、現地指揮官は島津義弘で、当主義久の意向が完全に伝わっていなかった(義弘はこのため謹慎)。 (3)家康と戦う意思がなかったので、関ヶ原でも戦いの最中は西軍に味方せず、撤退だけした。 という理由で領土削減をつっぱねつづけ、確かその交渉は4年の長きに渡ったと記憶しています。 家康も、4年間かけたということは、それだけ簡単に折れるつもりはなかったようですが、島津家の不退転の決意を見たうえ、関ヶ原以降豊臣家をないがしろにする姿勢に東軍だった豊臣恩顧の大名(加藤清正、福島正成ら)が不満を持ち始めたことから、最終的には島津家の言い分を丸のみして妥協することにしたそうです。 確かに、薩摩の島津が徹底抗戦を決意して、肥後の加藤清正、安芸の福島正成、土佐の長宗我部、長州の毛利、大阪の豊臣家が応えれば、西日本は一気に反徳川勢力になってしまうおそれがあったでしょう。
- jamiru
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熊本:加藤清正や福岡:黒田如水に佐賀:鍋島直茂の当代の名将というこわーい人が沢山居るのに、ここで島津義弘を排除しちゃうと大変な事になると思いますよ。 彼らの存在が取り潰しにならなかったのかもしれませんね。 毛利と長宗我部はお坊ちゃん育ちなので当代の徳川家康からしてみれば赤子をひねるようなものでしょう。 それに島津は豊臣派ではありませんし、熊本では薩摩・大隈をがら空きにすれば豊臣派の加藤清正を利するだけでしょうし。 実力者が居ない中国・四国とは事情が違ったのでは?