以下のとおりお答えします。面白いテーマに誘われて、ちょっと飛躍したり長くなったりするかも知れませんが、どうぞ悪しからず。
>建前を言うことはウソをついたことになりますか?
⇒確かに、建前とウソとは結びつきやすい言葉かも知れませんね。さらに視覚を広げて見ると、それに近いようないろいろな状況が見えてきそうな気がします。例えば…。
A.戦いの敵(敵とは言え、ともに同じ人間だ)
第一次世界大戦の頃の実体験を元にした『西部戦線異常なし』(1928年、レマルク著)の主人公パウルは、自ら倒した敵兵を塹壕内で介抱します。国軍の戦士として己の意思とは関係なく闘いますが、相手が傷ついて倒れると、個としての人間に戻った、と言えるでしょう。これを建前と本音という観点から見ると、「建前としては義務感、本音としては人間的共感を抱いている状況」が痛いほど感じられます。
B.二人の遭難者(建前「ともに助かろう」はうそ!)
「カルネアデスの板」という問題提起があります。永遠に解の出ない問いかも知れませんが、あえて一観点から考えれば、「どんな美名の下でも他者の自己保存の侵害を是認するような大義名分はない」といった感じになるでしょうか。大海中で小さな板にしがみついている遭難者が、それにすがろうとする別の遭難者に対して取る排除の行動について、倫理的側面からどう考えるかという問題です。建前としては「ともに助かろう」(と言いたいのは山々ですが)、しかし、悲しいかな、板は二人分の体重を支え切れません。そこで、本音としては「相手を蹴飛ばしたい」。私が本人なら、きっとそう思うでしょう。恥ずかしながら、生死の分かれ目という危機に遭遇したら(建前も自己犠牲の精神も、何もかも忘れて)板にしがみつくに違いありません。
C.個人と共同体(立場は相対的)
個人は必ず何らかの共同体に属しますが、その関係を表す一様式として本音と建前を考えることができます。ある観点から見れば、本音とは個の自己保存のための心情、すなわち「要・不要」に基づく発想であり、建前とは共同体全体の秩序維持のための規範、すなわち「正・不正」に基づく判断と言えます。ところが、ここでレベルを移してみるとどうなるか。つまり、個と共同体の関係を一つ上の次元へ平行移動して、共同体とそれを含む地域社会や国との関係として考えてみます。そうすると今度は、共同体が個的な心情としての本音を地域社会や国に対して抱くという構図が現われます。つまり共同体は、内に対しては成員に秩序を求め(簡単に図式化すれば、それが成員にとって建前となる)、外に対しては共同体の自己保存や自己増殖(すなわち共同体にとっての本音)を主張する、という格好になります。個や共同体にとって、本音は自己保存や自己増殖の願望から由来し、上位団体や外部に向けられ、建前は秩序維持の願望から由来し、所属の成員に向けられます。なお、個にとっての本音は基本的に自己保存ですが、共同体にとっては、その存在理由などに照らして考えるに、むしろ自己増殖に重心があるでしょう。この意味では、本音と建前は階層構造による錯綜状況がもたらすもので、嘘とか誠の違いを反映するものではなさそうです。
D.行動原理(立場が変ると、言うことも変る)
立場が変ると言うことがコロッと変る人がいます。平社員がいきなりCEOに昇格・就任したり、国会の重鎮が大企業の役職顧問として天下りした場合などはその典型とも言えます。それまで反対したり禁止したりしていたことを、身分が変った途端に今度は正反対のことを主張し始めたりします。そういう場面を見ると、つくづく「人間は立場で言うことが変る」ことを痛感します。そこで思うのですが、我々いかに役割人間とはいえ、基本的には、何より個を中心に据えるべきではないでしょうか。今日の混迷する世界状況などに鑑みるに、このような基本に返る発想が必要ではないでしょうか。そして、時々の立場にとらわれず、外部から求められる役割等に拘束されない「個の普遍化、裸の人間としての行動原理を実践すべきだと思います。つまり、可能な限り「建前」でなく、「本音」で生きたいものです。
お礼
補足
>「建前としては義務感、本音としては人間的共感を抱いている状況」 建て前が共感で、本音が義務感のとき結構ありますね >生死の分かれ目という危機に遭遇したら(建前も自己犠牲の精神も、何もかも忘れて)板にしがみつくに違いありません。 人間いざという時に人間性がわかるもんなんでしょうね C.はちょっと分かったような分からないようなです >可能な限り「建前」でなく、「本音」で生きたいものです。 我ながら自分で自分の本音と建て前が分からなくなるときがあります。