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お坊さんが造成した池
兵庫県にある昆陽池は、西暦700年代に行基というお坊さんが造ったらしいんですが、香川県の満濃池も、確か弘法大師が造ったように記憶しております。当然、坊さんだけでは無理であり、地域の住民でも動かしたのではないかと想定されるのですが、むかしの坊さんには、そのような大きな力があったのでしょうか?
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昔のお坊さんが誰でもそうだったわけではありません。行基や空海が特別なカリスマ性をもっていたからできたことです。 奈良・平安時代も大規模な土木事業はふつう国がするものです。 満濃池にしても朝廷主導の工事が十分な人数を動員できず難航したため、地元出身で「百姓の恋慕すること父母の如し」という高い名声をもつ空海を工事責任者に任命してほしいと讃岐国司が朝廷に要請し、朝廷から工事責任者に任命されたものです。空海が独自にやったことではありません。 満濃池 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%BF%83%E6%B1%A0
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- oska2
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>香川県の満濃池も、確か弘法大師が造ったように記憶しております。 一般的に、弘法大師が造った様にいわれていますね。 ただ、現実には「先の担当者(責任者)が行った工事の進捗が悪かったので、弘法大師に依頼して完成」が正しい様です。 >むかしの坊さんには、そのような大きな力があったのでしょうか? その通りです。 空海・弘法大師に関しては、彼は土木建築・医学などのスペシャリストでした。 今の土木建築学でなく、自然と一体化した経験値が基になっています。 この時期は、雨が多い。この時期は、乾季だ・・・。 ※特に、水脈・水銀・鉱山に関する伝承が多い。 この気象状況を元に、工事の計画を立てています。 当時は、雨・風は「風神・雷神など自然の神様の仕業」と考えていました。 雨季・乾季という概念は、ありません。 神様の気分次第で、雨・風が強くなる。 弘法大師は、気象知識を持っていたので、梅雨・台風時期を考慮して工事工程を考えました。 労働者の方も、都で有名な坊さんの指示で動いているので真剣です。 ※労働と信仰の一体化。 全国各地に残っている弘法大師伝説では、庶民と差別なく交流しています。 偉そうな国司が命令しても、労働者は真剣に働きませんよね。 今でも、口先だけで能力のない上司の元では部下は動きません。^^; 余談ですが・・・。 行基・空海など高僧は、宗教学だけでなく土木・医療などの知識も豊富だったのです。
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- nagata2017
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満濃池は、弘仁12年(821年)、弘法大師が築造したと伝えらているが、実際はそれより120年ほど古い大宝年間(701~703年)に、当時の讃岐の国守 道守朝臣(みちもりあそん)によって築かれたといわれている。 空海が作ったのではなく すでにできていたものを修築されたことのようです。
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- FattyBear
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元々、そのお坊さんが属するお寺の役割とは下記参照・・・。 歴史的に、わが国において、地域におけるお寺の果たす役割は檀家に対する宗教的な施設としてだけでなく、「集会所」として様々な地域のことに関する協議の場として存在し、また、境内では「盆踊り」などのイベント開催の場として、人と人の「つながり」がある地域のコミュニケーション形成に対して大きな役割を果たしています。 このお寺の最高責任者はそこの住職のお坊さんです。今だと、先生、 裁判官、人生や生活の相談相手のような皆に信頼、尊敬されている 人物がほとんどでしょう。当然皆のまとめ役的な立場にさせられる 結果、民衆を動かせることができるのだと思います。 また、その宗派に入信した民衆はたやすく行動に参加するでしょう。 ほとんど
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- nanndedanazoda
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西暦700年代において、お坊さんたちは、政治的な権力を持っていたと云う情報があります。日本では、仏教が国家の宗教として認められており、仏教の僧侶たちは、国家において重要な役割を担っていたようです。 ただし、国の正確な情報が残っていない為、正式に認められた情報では無いです。
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