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歴史の勉強って・・何?

歴史学って嘘っぱちですよね。 超情報化社会の現代の疑獄事件ですら真相が迷宮入りする昨今、怪しい文献やら伝聞しかない中世近世以前の歴史なんて全く信用に足らないと思うのですが、そんなウソ物語を勉強する意味ってあるんですか? 因みに私は歴史が大好きです。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.7

ウソっぱちっていったって、第二次世界大戦がなかったわけじゃないし、新撰組が存在しなかったわけでもありません。質問者さんもあと20年くらい経ってから若い人に「東日本大震災ってウソっぱちですよね」っていわれても困っちゃうと思います。いや俺、リアルタイムで経験しているんだけどって。 時間が経って分からなくなることもあるし、時間が経って事実が判明することもあります。 例えば、二二六事件では長いこと裁判の資料は存在しないといわれていました。しかし検察官の匂坂春平氏が丁寧な記録を残して保管してあり、氏が亡くなった後にそれが公開されて様々な事実が判明しました。 歴史ってのはこういうお楽しみがあるのが面白いところです。 「物語としての歴史」と「事実としての歴史」は切り分けて考えるべきだと思いますよ。物語としての歴史に事実とは異なる点があるからといって、事実そのものを否定するのは「本質を見ていない」といわれても仕方がないと思います。 今から約千年前の貞観11年に東北地方で巨大な地震が起きたと記録に残っています。世にいう「貞観地震」です。 しかし千年前の資料だったので「どこまで信用していいのか分からない。伝聞を記録に残したものだから話がオーバーになっているのではないか」と軽視されていました。 で、東日本大震災が起きたわけです。それで「貞観地震は決してオーバーな話じゃなかった」ということが判明しました。 また東日本大震災の津波の被災地の各地には、石碑が残っているところがありました。「ここまで津波が来たから気をつけろ」というようなことが書いてあったのです。そして東日本大震災が起きてみると、ちょうどそのあたりまで津波が来ていたというところがしばしばあったそうです。それまでは「いやいくらなんでもこんな遠いところまで津波は来ないでしょ」とか「来たとしてもそんなのは何千年、何万年に一度のことでしょう。あまりに衝撃的だったからこういう記録を残したのではないか」といわれていたのです。 「昔のことなんて信用するに値しないから、耳を傾ける必要はない」の教訓はそれだと思いますよ。 コロナ禍は、百年前のスペイン風邪インフルエンザのパンデミックと同じような過程を経ました。そして日本におけるコロナ禍の日本政府の右往左往は、太平洋戦争での日本の敗北をまんまトレースしていました。 過去に教訓は沢山あるんですよ。それを生かすか生かさないかは、我々次第。

hamuhaiiko
質問者

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その他の回答 (6)

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.6

中世や近世以前でも「○○年に□□が起きた」と文字で書かれた記録(史料)が残されている場合はあります。この文字による記録は、紙に書かれたものだけでなく、木や竹の薄板に書かれた木簡・竹簡、石に文字が刻まれた石碑、金属器に刻まれたり、刀剣に象嵌で記されたりしたものなど多種多様です。現代でも新たな発見がありますので、大昔に関する歴史学はすべて嘘っぱちだと考えるのは極論に過ぎます。 例えば奈良時代に古事記の撰者として教科書にも載っている太 安万侶(おおのやすまろ・安萬侶、安麻呂とも書く)という人がいます。「続日本紀」という歴史書にはこの人が「養老7年7月7日に死去した」(秋七月庚午民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒)と書かれています。 ところが昭和54年(1979年)になって奈良市の茶畑からこの人のお墓が発見されました。そう判明したのは人骨とともに銅製の墓誌が見つかり、「太安萬侶が養老7年7月6日に死去した」(左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 以下省略)と書かれていたからです。 続日本紀と墓誌とでは、死去の日が1日違っていて、これにはいくつか説明する説があるようですが、ともあれ「養老7年7月6日(または7日)に太 安万侶という人物が死去した」ということは、1300年近く昔の歴史的な事実(史実)として認めるべきでしょう。 歴史を研究するということは、過去になればなるほど失われたピースが多い巨大なジクソーパズルについて、何が描かれた絵なのかを、限られたピースを組み合わせて何とか復元しようと試みるようなものです。ピースが全部揃っていなければパズルはできないと考えたのでは、そもそも歴史の研究など不可能です。 史料の数は今から過去に遡るほど少なくなりますので、歴史家は史料が限定されていることは承知の上で、その史料の性質を熟知して「この史料から確実にいえることは何か」を考える必要があります。そうすれば、「○○年(場合によっては月日まで)に□□が起きた」と確実に言えるレベルのことから、「○○年に□□が起きたと想定される」程度には言えること、さらには「○○年ころ(場合によってはもっと広く△△世紀)に□□が起きた可能性もある」位にとどめるべきことの区別もできるかと思います。 良心的な歴史に関する著作ではこのあたりはきちんと書き分けています。

hamuhaiiko
質問者

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ご回答ありがとうございました。

  • ishi_saya
  • ベストアンサー率27% (84/310)
回答No.5

そのとおりなのです。 「歴史」として勉強しているものって、 1)「誰かにとって都合の良いこと」だけが記録されている 2)又聞のような不確かな情報を基に書かれている 3)世の中で起きていることの中でほんの一部しか記録されていない 4)そもそも「ホント」なの? そんなことばかりなのです。 しかし、そんなことばかりなのですけれども、歴史を勉強する意義は「過去の事例からものごとの因果関係を知り、今(あるいは未来)に役立てる」ことにあります。逆に、それ無しには歴史を勉強する意味は無いということです。 しかし同時に、「中世ヨーロッパって本当に暗黒の時代だったの?」とか、「戦国時代から江戸幕府が開かれて人々は安堵したの?」とか、歴史の表面には出てこない「一般の人々がどういう生活をしていたのか」とか「人々がどういう意識で生きていたのか」とかを知ることが出来たら良いな、とおもうのです。なぜならば、世の中も歴史も「人間の生の営み」だからです。人間を無視して「出来事」だけがあったみたいな捉え方はおかしいですよね? 「いい国作ろう鎌倉幕府」って丸暗記しても、その当時の「人々」は見えて来ないですよね。 つまり、不確かな文献を頼りにした歴史ではなく、タイムマシンで過去の様子を見るようなことが出来たら、ずっと面白いのに、ということです。(もしかしたらば面白がるどころではないかもしれませんが。)

hamuhaiiko
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ご回答ありがとうございました。

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6877/20339)
回答No.4

確かに 意図された嘘 意図しない嘘 たくさんあると思います。 そこを研究して 正しい歴史をあぶりだすのが歴史学なのでしょう。 人がどんな道を歩んで現在に至ったのか。 人によってはとても面白い学問だと思います。

hamuhaiiko
質問者

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ご回答ありがとうございました。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.3

>歴史学って嘘っぱちですよね。 日本は、韓国と違って「(為政者が決めた)正しい歴史」が存在しません。 誰もが自由に歴史を認識すればいいのです。 確かに、1945年までは日本書紀・古事記を基本に「天皇中心の歴史」が国史でした。 が、敗戦後は国史は存在しません。 それでも、昭和天皇存命時には「日本書紀と異なる歴史・天皇制に合わない介錯」は「虚偽」として学会から攻撃されました。 平成になって、やっと自由な研究・解釈が発表出来るようになったのです。 まぁ、邪馬台国にしても「魏志倭人伝」を絶対視して各地の神社古文書を無視する学者・評論家が多いのが現実です。 魏滅亡前の混乱期に書かれた魏志が、正しいとは限りませんよね? 仁徳天皇陵も、実際は誰が葬られているか100%分かっていません。 戦国時代には砦が築かれ、秀吉時代以降は「堺奉行所の接待所」が築かれていました。 地元の実力者・有力者も、奉行の招きで宴会を行っています。 この事実でも「天皇陵?」となりますよね。 令和になってから、大山古墳若しくは伝仁徳天皇陵となっています。 ※某有名私立中学の入試問題。 古代史は、未だに日本書紀に反すれば「偽書扱い」なのも事実です。 >そんなウソ物語を勉強する意味ってあるんですか? 先に書いた通り、日本には「正しい歴史」は存在しません。 ですから、多数の方が学んでいる意見・考えとして理解が必要なのです。 全体的な歴史の流れは、同じですよね。 大多数が学んでいる教科書は〇〇だが、こういう別の資料・解釈もある。 全体の流れが分からないと、対比が出来ません。 ベースとなる知識がないと、別の説を唱える事が出来ないのです。

hamuhaiiko
質問者

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ご回答ありがとうございました。

  • toka
  • ベストアンサー率51% (1167/2278)
回答No.2

 史学家が歴史マニアと違うのは、 ・史跡に出向き(フィールドワーク)資料にあたること ・その資料の正しさを検証すること ・その判断に基づいて研究論文を発表すること  この作業を大学で教わった研究ルールに則って行う点です。  この作業を経ずして発表された記事の要約しか見ていないと、歴史なんて信用できないという感想を抱くのも無理はありません。

hamuhaiiko
質問者

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ご回答ありがとうございました。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.1

「私は歴史が大好きです」とのこと、それを学ぶ意味と考えてもいいのでは? もっとも、歴史学と哲学の大家オルテガはこう言ったそうです。「我々は、人類の未来を想うがゆえに過去という倉庫を訪ねる」、「歴史は我々に《こうせよ》という積極的教訓(指針)は与えてくれないが、《こうするな》という消極的教訓(警告)は与えてくれる」、と。れっきとした、必要にして十分な、多い迷宮入りの欠を補って余りある、歴史学習の理由になりませんか?

hamuhaiiko
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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