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お答えいただけましたら幸いです。
目上の人(など)に、 「お考え(おおもい)になりますか。」は 正しい敬語でしょうか?
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関連質問にお答えにします。 >一つ目: 辞書には、「見える」の一つの意味として 「見ることができる。 例:猫は暗やみでも―・える」 のようにあるのですが、二つ目の質問へのお答えは、このこと自体を否定した訳ではない、ということでしょうか? ⇒はい、そこまで否定しません。辞書は実用のためで、私は文法・構文に即して考えたことに起因したことです。つまり、アプローチの仕方の違いです。 >二つ目: 「見える」も「見えている」も、 「見る」や「見ている」と違い、 意思持ってというか、意識してというか、能動的に対象を視界にいれている、という意味にはならないでしょうか(とお考えになりますか)? ⇒いいえ、そうはなりません。「見る」や「見ている」は、意思を持ち、意識して能動的に対象を視界に捉えるという意味になりますが、「見える」や「見えている」は、そういう意識化の意味合いを内包してはいません。
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- Nakay702
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再三にわたる質問者からのお礼を拝見しました。 >一つ目: 「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないか、ほとんど(あまり)見えていない」というお答えですが、 これでは、 「ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 というのは、 原則的には、「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」であるが、例外というかで、「ほとんど(あまり)見ていないと同時にほとんど(あまり)見えていないとき(こと)もある」がある、という意味を踏襲されていないと思います。 つまり、上記の意味を変えず、「どんな風にであれ」が「ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」の「(ほとんど(あまり))見てはいない」とその後の 「(ほとんど(あまり))見ていないと同時に(ほとんど(あまり))見えてもいない」のそれぞれ三つに「どんな風にであれ」がかかる場合に、どう記せば(言えば)よいのか教えていただけましたら幸いです。 ⇒「どんな風にであれ」が、お尋ねの三つのすべてにかかるような意味を表す表現は、一つの文ではできませんので、二つの文に分けて言うことになります。すなわち、こんな感じです。「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないし、ほとんど(あまり)見えていない。あるいはそのどちらか一方である。」 >二つ目: 「見える」には、 ①目に映る②見ることができる の主に二つがあるようなのですが、 このどちらも意識というか意思みたいなものは働いていない、ということでしょうか(とお考えになりますか)? つまり、 ①は視界に何か入ってはいるが、その対象を意識しておらず、 ②は動作というより、可能かどうかという状態のようなもので、意識して対象を見る(見ている)といった動作のようなものとは違うのでしょうか(とお答えになりますか)? ②はそれとも、例えば、誰かに「あの青い服を着ている人が見える?」などと聞かれ、その方見た(見ている)結果、見えるという、可能っちゃ可能の意味になるが、どちらにせよそれ以前に「見る(見ている)」という意思や意識のようなものが働く動作のようなものが必要であり、そういう意味では前の私の②の解釈と変わらないのでしょうか(とお考えになりますか)? ⇒そもそも、「見える」は対象を主語とした表現ですので、基本的に人の意識については関知しない構文です。ゆえにそれは、「目に映る」という意味を表すだけで、人を主語とする「見ることができる」という意味を表してはいないと思います。
補足
お答えいただきありがとうございます。 今までの質問とお答えに関連しますが、また二つほど質問させていただきます。 一つ目: 辞書には、「見える」の一つの意味として 「見ることができる。 例:猫は暗やみでも―・える」 のようにあるのですが、二つ目の質問へのお答えは、このこと自体を否定した訳ではない、ということでしょうか? 二つ目: 「見える」も「見えている」も、 「見る」や「見ている」と違い、 意思持ってというか、意識してというか、能動的に対象を視界にいれている、という意味にはならないでしょうか(とお考えになりますか)?
- Nakay702
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再々度、質問者からのお礼を拝見しました。 >「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないし、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見えてもいないことさえある」。 は、間違っていたりするのでしょうか? ⇒間違ってはいませんが、「どんな風にであれ」を2回繰り返すというトートロジー(同義反復)による冗長表現は避けたいですね。
お礼
補足の訂正です。 お答えいただきありがとうございます。 今までの質問とお答えに関連しますが、 二つほど、また質問させていただきます。 一つ目: 「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないか、ほとんど(あまり)見えていない」というお答えですが、 これでは、 「ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 というのは、 原則的には、「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」であるが、例外というかで、「ほとんど(あまり)見ていないと同時にほとんど(あまり)見えていないとき(こと)もある」がある、という意味を踏襲されていないと思います。 つまり、上記の意味を変えず、「どんな風にであれ」が「ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」の「(ほとんど(あまり))見てはいない」とその後の 「(ほとんど(あまり))見ていないと同時に(ほとんど(あまり))見えてもいない」のそれぞれ三つに「どんな風にであれ」がかかる場合に、どう記せば(言えば)よいのか教えていただけましたら幸いです。 二つ目: 「見える」には、 ①目に映る②見ることができる の主に二つがあるようなのですが、 このどちらも意識というか意思みたいなものは働いていない、ということでしょうか(とお考えになりますか)? つまり、 ①は視界に何か入ってはいるが、その対象を意識しておらず、 ②は動作というより、可能かどうかという状態のようなもので、意識して対象を見る(見ている)といった動作のようなものとは違うのでしょうか(とお答えになりますか)? ②はそれとも、例えば、誰かに「あの青い服を着ている人が見える?」などと聞かれ、その方見た(見ている)結果、見えるという、可能っちゃ可能の意味になるが、どちらにせよそれ以前に「見る(見ている)」という意思や意識のようなものが働く動作のようなものが必要であり、そういう意味では前の私の②の解釈と変わらないのでしょうか(とお考えになりますか)?
補足
お答えいただきありがとうございます。 今までの質問とお答えに関連しますが、二つほど、また質問させていただきます。 一つ目: 「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないか、ほとんど(あまり)見えていない」というお答えですが、 これでは、 「ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 というのは、 原則的には、「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」であるが、例外というかで、「ほとんど(あまり)見ていないと同時にほとんど(あまり)見えていないとき(こと)もある」がある、という意味を踏襲されていないと思います。 つまり、上記の意味を変えず、「どんな風にであれ」が「ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」の「(ほとんど(あまり))見てはいない」とその後の 「(ほとんど(あまり))見ていないと同時に(ほとんど(あまり))見えてもいない」のそれぞれ三つに「どんな風にであれ」がかかる場合に、どう記せ(言えば)よいのか教えていただけましたら幸いです。 二つ目: 「見える」には、 ①目に映る②見ることができる の主に二つがあるようなのですが、 このどちらも意識というか意思みたいなものは働いていない、ということでしょうか(とお考えになりますか)? つまり、①は視界に何か入ってはいるが、その対象を意識しておらず、 ②は動作というより、可能かどうかという状態のようなもので、意識して対象を見る(見ている)といった動作のようなものとは違うのでしょうか(とお答えになりますか)?
- Nakay702
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再度、質問者からのお礼を拝見しました。 >「ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 ですが、 「見ていない」と「見ていない」に「どんな風にであれ」をかける場合は、どう記せ(言え)ばよいでしょうか(とお考えになりますか)? ⇒「どんな風にであれ」を「ほとんど(あまり)見ていない」と「ほとんど(あまり)見えていない」の両方にかける場合の表現:「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないか、ほとんど(あまり)見えていない」。
お礼
補足の訂正です。 お答えいただきありがとうございます。 「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないし、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見えてもいないことさえある」。 は、間違っていたりするのでしょうか?
補足
お答えいただきありがとうございます。 「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないし、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見えていないことさえある」。 は、間違っていたりするのでしょうか?
- Nakay702
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質問者からのお礼を拝見しました。 >頂いたお答えに関連しますが、 「ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 というのは、 原則的には、「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」であるが、例外というかで、「ほとんど(あまり)見ていないと同時にほとんど(あまり)見えていないとき(こと)もある」がある、ということなのでしょうか? ⇒はい、そのとおりです。 >また、「どんな風にであれ」は、 「ほとんど(あまり)見ていない」と「ほとんど(あまり)見えていない」の両方にかかっているのでしょうか(とお考えになりますか)? ⇒いいえ、この「どんな風にであれ」は、「ほとんど(あまり)見ていない」だけにかかります。
お礼
補足の訂正です。 お答えいただきありがとうございます。 「ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 ですが、 「見ていない」と「見ていない」に「どんな風にであれ」をかける場合は、どう記せ(言え)ばよいでしょうか(とお考えになりますか)?
補足
お答えいただきありがとうございます。 「ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 ですが、 「見ていない」と「見ていない」に「どんな風にであれ」をかける場合は、どう表記(言え)ばよいでしょうか(とお考えになりますか)?
- Nakay702
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質問者からのお礼を拝見しました。 >先程の補足(お礼)に対するお答えに改めて質問させていただいたのですが、その際こちらの補足でさせていただいている質問も質問させていいただいています。 ただ、そこで誤って、三つ質問します、というところを、二つ質問します、のように書いてしまっているので、その点ご了承願います。 ⇒了解しました。 質問者からの補足も拝見しました。 >先程、別の質問に補足(お礼)したものと関連しますが、 「見ている」は「意識して見ている」となり、「見えている」は、視界にうつっても、その対象を意識しているわけではなく、そこで意識した場合は「見ている」となり、 「見ていない」は「意識して見ていない」となり、「見えていない」は、「視界にうつらない」、「見ようとしても見えない」となり、つまり、見ようとしようがしまいが、結果として視界に他人がうつっていない、ということになるでしょうか(とお考えになりますか)? ⇒はい、まさにそう考えます。
お礼
お答えいただきありがとうございます。 頂いたお答えに関連しますが、 「ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 というのは、 原則的には、「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」であるが、例外というかで、「ほとんど(あまり)見ていないと同時にほとんど(あまり)見えていないとき(こと)もある」がある、ということなのでしょうか? また、「どんな風にであれ」は、 「ほとんど(あまり)見ていない」と「ほとんど(あまり)見えていない」の両方にかかっているのでしょうか(とお考えになりますか)?
補足
補足の訂正です。 お答えいただきありがとうございます。 以前頂いたお答えに関連しますが、 「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないし、見えてもいないことさえある、」 というのは、 原則的には、「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないが見えてはいる(かもしれない)(頻度や程度はそのときによって違うだろうが)」であるが、 例外というかで、「どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていないと同時にほとんど(あまり)見えていないとき(こと)もある」がある、ということなのでしょうか? また、「どんな風にであれ」は、 「ほとんど(あまり)見ていない」と「ほとんど(あまり)見えていない」の両方にかかっているのでしょうか(とお考えになりますか)?
- Nakay702
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質問者からのお礼を拝見しました。 お答えいただきありがとうございます。 また、 「人は他人をほぼ見ていない(。、)」は おかしくない日本語であるとお考えになりますか? ⇒「人は他人をほぼ見ていない(。、)」は、それほどおかしくないと思いますが、ほんのかすかな不自然さを感じる面があります。「人は他人をほとんど/あまり見ていない(。、)」と言えば、より自然な感じがありますし、意味も大して(たいして)変わりません。
お礼
先程の補足(お礼)に対するお答えに改めて質問させていただいたのですが、その際こちらの補足でさせていただいている質問も質問させていいただいています。 ただ、そこで誤って、三つ質問します、というところを、二つ質問します、のように書いてしまっているので、その点ご了承願います。
補足
お答えいただきありがとうございます。 先程、別の質問に補足(お礼)したものと関連しますが、 「見ている」は「意識して見ている」となり、「見えている」は、視界にうつっても、その対象を意識しているわけではなく、そこで意識した場合は「見ている」となり、 「見ていない」は「意識して見ていない」となり、「見えていない」は、「視界にうつらない」、「見ようとしても見えない」となり、つまり、見ようとしようがしまいが、結果として視界に他人がうつっていない、ということになるでしょうか(とお考えになりますか)?
- rica_3
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言葉としては問題ありません。 この場合は敬語としてどうということではなく、マナーの問題になると思います。 時と場合による、ということです。 その場の誰も適切な考えを持っておらず、目上の方が意見するべきときならば、待ってましたとなります。 が、その問いかけが非常に不適切で失礼になることもあります。 常識的すぎて人に聞く前に自分で頭を使って考えなさいよ、ということだと、とても叱られます。
- 5mm2
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ハイ良いと思います。 「お考えですか?」「思われますか?」でも良いと思います。
- Nakay702
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>目上の人(など)に、「お考え(おおもい)になりますか。」は 正しい敬語でしょうか? ⇒はい、そう思います。 「お考えになりますか。」 お思いになりますか。」 は、いずれも正しい敬語です。 つまり、「お…になりますか」という言い回しはすべて正しい敬語法です。 ですから、例えば、 「お出かけになりますか」、「お召しあがりになりますか」、「お買いになりますか」などもすべて正しい敬語と言えます。
お礼
お答えいただきありがとうございます。 また、 「人は他人をほぼ見ていない(。、)」は おかしくない日本語であるとお考えになりますか?
- suugakudaisuki3
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こんにちは。 おかんがえになりますか、なら適切な尊敬語です。 しかし、おおもいでは、適切とは言えないでしょう。 お思いなどかんがえを聞くときには、お考えやご意見を賜りますなどとした方がよいでしょう。 ご参考までに。
お礼
補足の訂正です。 今までの質問とお答えに関連しますが、 では、 ①「大抵の人は、本人だけではなく、他人もいる場所や状況で(は)、その他人のほとんどを、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 ②「大抵の人は、本人だけではなく、他人もいる場所や状況で(は)、その他人のほとんどを、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見えていない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 ③「大抵の人は、本人だけではなく、他人もいる場所や状況で(は)、その他人のほとんどを、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見えない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 などのように書く(言う)場合、 「見ていない」、「見えていない」、「見えない」の意味も含め、それぞれどういう意味になるでしょうか?
補足
お答えいただきありがとうございます。 今までの質問とお答えに関連しますが、 では、 ①「大抵の人は、本人だけではなく、他人もいる場所や状況で(は)、その他人のほとんどを、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見ていない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 ②「大抵の人は、本人だけではなく、他人もいる場所や状況で(は)、その他人のほとんどを、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見えていない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 ③「大抵の人は、本人だけではなく、他人もいる場所や状況で(は)、その他人のほとんどを、どんな風にであれ、ほとんど(あまり)見えない、と○○さんはお考え(おおもい)になりますか(、。)」 などのように書く(言う)場合、 「見ていない」、「見えていない」、「見えない」の意味も含め、どういう意味になるでしょうか?