• ベストアンサー

江戸時代。「男女七歳にして席を同じうせず」の実態

7歳にもなれば男女の別を明らかにし、みだりに交際してはならないという意味だそうで、『礼記』の言葉にあるそうです。 どうでもいいようなことを質問してすみませんが、 年齢の上限は、結婚するまでですか。 数人以上の使用人がいる商家では、食事時、男女別々にしたのですか。 家族では男女一緒に食事したのですか。 大名家ではある年齢に達すると、子どもたちは男女別々に食事していた、と聞きました。 よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • 4017B
  • ベストアンサー率73% (1336/1814)
回答No.1

1845年頃に発行された歌川国芳の浮世絵の連作物である『幼童諸芸教草(ようどうしょげいおしえぐさ)』の中の「膳」の項に描かれた食事風景では、母親と見られる女性が子供に食事を食べさせている様子が描写されています。 - "幼童諸芸教草": https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1301985 これは当時の一種の教育本みたいなモノで、他にも「縫い物」や「読み書き」などの様々な事柄についてのお手本となる様なものを浮世絵に描いたモノで、他にも『和俗童子訓』とか『頭書絵入童子諸礼躾方往来』などの書物が町人階級の間で「子育ての教科書」として読まれていました。 で、リンク先の画像を見て貰えれば一目瞭然ですが、この母子は明らかに裕福な家庭であり(女性が鼈甲の簪を刺しており、食器も黒漆塗りである)、またこの場にはこの母子以外の家族が居ない事も分かります。つまり江戸時代、裕福な商家では父親と息子は一緒に食事をしない事が一般的である事が読み取れます。 また江戸時代の京都の呉服商人であった "水口屋清兵衛の日記:『清兵衛日記 (1838年~1876年)』" の記述によれば、正月元旦だけは男奉公人のみを席に招いて主人家族と一緒に雑煮などの祝い膳を一緒に食べたとあるので、逆に言えばそれ以外の平日は主人と奉公人はキッチリと生活空間を分けていた事が伺いしれます。そしてその様な年に一度の "ハレの日" であっても招かれるのは男奉公人だけであり、女奉公人(子守や女中など)は除外されていた事も分かります。当時の徹底した男尊女卑信仰の一端が伺いしれますね。 ただこの時代の女奉公人らは、盆正月には主人から暇を出されて里帰りする習慣が一般的だったので、正月などの祝祭日には主人の家には女奉公人は誰も居なかったのかもしれません。一方、男奉公人は下働きの下男などを除けば、将来的には独立して「暖簾分け」して貰う事を夢見て奉公に精を出す者が大半だったと思われますので。ハレの宴席などで主人に顔を覚えて貰うのは、双方にとって重要な催事だったのかもしれません。尚、水口屋清兵衛は当時としては中の上くらいのレベルの商人であり、"大店(おおだな)" と呼ばれる様な最上流階級ではありませんでした。 他にも「娘は下女らと一緒に祇園祭へ出かけて赤飯を食べ、自分は親戚の家へ酒を飲みに行った」とあるので、この時代は家族であっても必要以上に男女が近付くのは好ましくなく、男は男同士で~女は女同士で連れ合うのが好ましいと考えられていたみたいですね。 そしてこの様な中産階級以上の富裕層、即ち裕福な商家の生活習慣は主に彼らの上得意先である武家屋敷で行われていた武士階級の生活習慣を模したものなので、江戸時代の武家屋敷やさらにその上の大名家で行われていた生活習慣がどの様なモノであったのかは推して知るべしです。そもそも武家や公家では、男女を問わず子供が生まれたら1週間と待たずに血の繋がらない他人である乳母に預けて、その後は成人するまで一切の面倒を任せて実の両親とは年中行事の時だけ顔合わせするのが普通でしたので、親子で一緒の食卓を囲んで~なんて事は一切ありませんでした。 そもそも日本で "一緒の食卓を囲んで食事" をする様になったのはつい最近の大正14年以降であり、それ以前の江戸時代や明治時代の間はずっと食事は「お膳」を一人一人が個別に持って独りで食事するのが当たり前の習慣でした。こういうのを専門用語で「属人器」と言いますが、これは朝鮮や日本を始めとした東アジアに顕著に見られる食習慣です。現代日本でもこの属人器の習慣を未だ引きずっており、恐らくは質問者も「自分のお箸と茶碗」を持っているかと思いますが、それらを決して妻や子供と共用したりしませんよね?これは一種の「穢れの文化」なのです。 以上の事を踏まえて整理しますと… + 大名家ではそもそも親子であっても生活空間そのものが別々に分かれていた。 + 江戸時代以降の武士階級では何事も前例踏襲が基本であるため、全ての武家階級は主君である大名家の慣習に従う。 + 富裕層である商家では "上級国民(笑)" を夢見て得意先の上流階級である武家の習慣を模倣する。 + 故に江戸時代の一定上の商家では親子の間に "壁" を作って養育するのが好ましいと錯覚していた。 ~みたいな感じになりますでしょうか。また現代とは違い、例え既婚者であっても、いやむしろ既婚者だからこそ厳格に男女が近付くのは極めて不謹慎であると考えられていた訳です。この辺の感覚はイスラム教がかなり近い感じがします。事実、大名家や将軍家では奥方様は夫である殿様や将軍様が亡くなった場合、再婚などは許されず即座に出家して尼寺入りする事が求められていましたし、実際の歴史上でもほぼ全ての奥方達が尼さんになっています(尼寺入りする事と、その後の人生を貞淑に過ごす事とはまた別の問題です)。 しかし一方で町人階級ではその様な感覚は無く、夫と死別した女性はすぐに再婚しても特に世間から咎めを受ける様な事も無く、むしろ町人階級では死別などに関係無く離婚再婚を繰り返すのはかなり一般的な習慣でした。これは武家だと結婚出産は直ちに「御家の存亡」に直結する大事であるのに対し、町人階級ではその様な心配事が無いというのが大きな理由の1つですね。ですので前述の様に武家階級に憧れでいた富裕層の商家では、武家の様に「店の看板を守る」という意識が強く働いていたので、自身の結婚はもちろん息子娘や番頭などの子弟の結婚に関してもかなりナーバスに考えていました。 逆に言えばそういった事を全く考えていない下層階級?では男女混合に特に忌避感などは無く、有名な所だと「江戸時代の銭湯は男女混浴」ですね。ですが下層階級であっても「年頃の男女が一緒に食事をする」のはかなりダブー視というか、あれ?お前らひょっとして付き合ってんの?~みたいな好奇の目で見られても仕方が無いと思われていました。現代人の感覚だと何というか「ライン」がちょっと分からないですよね(笑)。 ですので下層階級は男女の別け隔てなく何歳になっても一緒に、上流階級や富裕層は貴族階級を模倣して「昔の偉い人が書いた書物に書いてある」という根拠で、一定年齢に達したら男女の生活空間を分ける習慣があったと考えて差し支えないかと。そしてそれは恐らく死ぬまで継続したと思われますが、さすがに50~60過ぎた老人であれば男女が多少近付いたとしても、誰も咎めたりはしなかったと思いますが。しかし老人が過度に若い異性に接触を試みようとしたら、やはりそれは憚られたと思います。 P.S. 質問者が例示された『礼記』の言葉である「男女七歳にして席を同じうせず」ですが、出典より抜粋いたしますと… //----------- 第五二節 子能食食、教以右手。 能言、男唯女俞。 男鞶革、女鞶絲。 六年、教之数与方名。 七年、男女不同席、不共食。 八年、出入門戸及即席飲食、必后長者、始教之讓。 九年、教之数日。 十年、出就外傅、居宿于外、学書計。衣不帛襦袴。礼帥初、朝夕学幼儀、請肄簡、諒。十有三年、学楽誦、舞、成童、象、学射御。 -----------// ~と記されています。該当部分である "七年、男女不同席、不共食" は「七歳にして男女席を同じうせず、共に食せず」となり、意味は改めて解釈せずともご存知かと思いますが…しかしながら!実はこの有名な言葉、大きな落とし穴がありまして。この言葉の中で言われている「席」とは、いわゆる日本語で言う所の "席" とは意味が違うんです…! 実は古代中国語での「席」とは、毛織物や麻繊維で織った敷物の事であり、当時の「お布団(寝具)」の事を指す単語なんですね。これを漢籍として輸入した昔の日本人は、和語の「座席」などと字面が同じである事から「同じ席に座らない」という意味だと勘違いして解釈してしまっている訳ですが。実は出典の『礼記』に記された古典中国語の意味そのままに解釈するならば、"七年男女不同席" とは「七年目になったら、男女はもう同じ布団で寝るべきでは無い」という意味なんですね。 つまり日本語でも非常に親しい間柄を意味する言葉として「寝食を共にする」という言葉がありますが、この "七年男女不同席" とは正にその真逆の「一定の年齢になったら男女は寝食を共にするな」という言葉なのです。しかし逆に言えばそれ以外の場面ならば一緒でも構わない訳で、例えば学校などで机を並べて男女共学にする事などは否定していないのです。あれあれ、何だかおかしな事になっている事にお気付きでしょうか…? この「七歳にして男女席を同じうせず」は日本に置いて相当に長い間、女子教育を阻む基本理念として立ち塞がって来た歴史は周知ですが。それが実は本来の意味とは違う誤解釈から生じていたとは、何ともお粗末というか情けないというか…同じ様に誤解釈によって誤用されている海外出典の言葉に「働かるざるもの食うべからず」や「代表なくして課税なし」などがあり、今も昔も外国語教育と世界史教育の重要性を感じさせる話だと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しいご回答誠にありがとうございます。 よく分かりました。 『幼童諸芸教草』は参考になりました。 「おやおやのしつけ、心がけによるなればきびしく」とありますから、小さいころから食事の作法を教えていたことが分かります。 それにしても、この子は、4,5歳だと思いますが、食べさせてもらっています。 箸は扱いにくいから、ご飯をこぼしてはいけないとでも解釈するのでしょう。 "七年男女不同席"の「席」とは、毛織物や麻繊維で織った敷物の事で、当時の「お布団(寝具)」の事を指すのですか・・。 質問すると、いろんなことを教えてもらえる楽しみがあります。 今回も「目からうろこ」の話でした。 また、『礼記』第五二節は、大変参考になりました。 ご教示に感謝申し上げます。

関連するQ&A