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幕末の海防とは?大砲の調達方法や購入先について
- 幕末の海防とは、寛政5年に幕府が沿岸諸藩に海防を命じ、各地に「台場」が構築されました。関西の諸藩により築かれた台場は86ヶ所で、そのうち1/3強の37ヶ所が和歌山藩のものでした。
- 大砲の調達方法は、国産のものと外国からの購入がありました。外国からの購入の場合、自国の船を砲撃する可能性のある大砲を輸出することになりますが、具体的な国や方法については不明です。幕府や諸藩がどの程度の威力の大砲を購入したかは詳細が不明ですが、南北戦争の残り物を押し付けられた可能性もあります。
- 幕府や諸藩の大砲に関する具体的な知識については不明ですが、幕末の海防は日本国内の沖縄や薩摩などを含む沿岸地域の防衛を目的として構築されたものでした。
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>寛政5年(1793)、幕府は、沿岸諸藩に海防を命じています。 その通りで、私が住んでいる城下(親藩)にも台場(砲台跡)が残っています。 >関西の諸藩により築かれた台場は86ヶ所で、そのうち1/3強の37ヶ所が和歌山藩だ、というネットの記事もあります。 大阪湾に外国船が入港するのを、嫌がった為ですね。 京にも近いですし・・・。 >台場と言うからには砲台だと思いますが、どのようにして大砲を調達したのですか。 先ず、大砲の国産化は「九州の佐賀藩が最初」です。 大砲製造に成功した佐賀藩に対して、幕府は「50門を発注」しています。 この50門は、江戸湾のお台場に設置する為でした。 ※大砲の単位は、「門」です。 各藩も、幕府経由若しくは直接大砲製造可能な藩へ発注しています。 大規模な商人を経由する場合も、ありますがね。 自前で大砲を準備できたのは、佐賀藩・鳥取藩・薩摩藩・福井藩が有名です。 >その外国は、自国の船を砲撃するかもしれぬ大砲を日本へ輸出することになりませんか。 今も昔も、「政治と商売は別物」ですよね。 商人は、儲かれば良いのですから・・・。 >南北戦争の残り物を押し付けられたとすれば 南北戦争での残り物については、海援隊が輸入した小銃だけです。 二束三文で仕入れた銃が、日本では十数倍の高値で売れたのでグラバーも大喜びでした。 大砲については、流石に日本に販売しなかった様です。 討幕派・佐幕派の戦いが始まると、討幕派にイギリスが武器を供給していますがね。 佐幕派にも、フランスが武器を供給しています。 平成までの教科書には「幕府側の武器は、討幕派の最新武器に敵わなかった」とありますよね。 これは、史実に反します。 明治政府が「徳川幕府は遅れていた」と、思想教育を行った結果です。 鳥羽伏見の戦いでは、当初は幕府軍が優勢だったのです。 が、討幕派が偽の「錦の御旗」をたてたので「賊軍になる事を恐れた幕府軍が逃げた」のです。 ※当時は、倒幕軍も幕府軍も「誰も本物の錦の御旗を見者がいない」ので偽物でも効果抜群! 最後は、イギリス側からの最後通告が慶喜に届いたので大政奉還。 慶喜は、「イギリス・倒幕軍」と「フランス・幕府軍」が戦う「内戦を危惧」したのでしようね。 この事を理解していたのは、明治天皇です。 潔い大政奉還を褒めたたえ感謝し、公爵の爵位を授けていますから。 余談ですが・・・。 徳川慶喜家は、数年前に断絶しました。
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- eroero4649
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平和な江戸時代では当然のことながら、大砲などという物騒な兵器の製造は事実上禁じられていました。「凸凹藩は大砲を作っている」なんてことが幕府に知れたら「謀反の疑いあり」で間違いなくお取り潰しです。 黒船来航から先立つこと20年くらい前に、砲術家だった高島秋帆という人が日本の大砲技術が西洋に対してとんでもなく遅れていることを知って衝撃を受け、なんとわざわざ私財を投じてオランダの大砲を個人輸入して西洋式の砲術の研究を始めました。その輸入した大砲を基にして西洋式の大砲も製造しました。 そして高島秋帆はアヘン戦争で清が大敗したことを知って強い危機感を持ち、幕府に強く申し出て大砲と鉄砲で編成された西洋式軍隊による軍事演習を江戸郊外の何もない田舎で行いました。 大砲がズドーンと火を噴き、鉄砲がズバババーンと一斉射撃されるその演習は迫力満点で、江戸じゅうの大変な評判となりました。その演習が行われた場所は「高島様が行った平ら」なので、以降「高島平」と呼ばれるようになりました。 しかし当たり前ですけれど実弾演習ではなく大砲も鉄砲も空砲ですから、花火みたいなものです。時代劇お約束の悪役である鳥居耀蔵は「児戯に等しい」と酷評しています。ちなみに鳥居耀蔵は失脚して四国の丸亀で幽閉され、明治維新で罪が解かれて明治5年に明治維新によってすっかり変わった東京(江戸)に戻るのですが、鉄道も敷かれてすっかり変わった東京を見て「俺のいうとおりにしなかったから、こんなことになった」と嘆いたといったという有名なエピソードがあります。 高島秋帆は西洋式砲術である高島流砲術を創始し、大砲も製造することで軍備の近代化、西洋化をすすめますが、はい、この一連の行動が鳥居耀蔵の逆鱗に触れまくりでございまして、後に鳥居の讒言によって逮捕、幽閉されてしまいます。 しかし門下生などによる研究は進んでおり、西洋の軍事本を翻訳することで大砲の研究が進みます。ただ、当時の日本には質の良い青銅を作る技術がありませんでした。現代でいうなら中国がベンツの設計図を手に入れてコピーを作るようなものです。 日本製の大砲が馬関戦争や薩摩戦争で使われましたが、そもそも射程距離が全く勝負にならず(同じことはずーっと後にノモンハン事件でも味わうことになります)、おまけに強度不足で壊れる大砲も出てくる状態だったようです。 >外国から購入したとすれば、その外国は、自国の船を砲撃するかもしれぬ大砲を日本へ輸出することになりませんか。 武器の輸入というのはそういうもので、現代だって外国に輸出する兵器はデチューンするのがお約束です。 航空自衛隊が保有するF-15もF-35も、アメリカ空軍が使ってるF-15やF-35に比べれば性能は落とされています。ロシアだってソ連の頃から海外に輸出する戦車はロシア軍で使っているものより質の悪いものでした。イラク軍に輸出したT-72はソ連軍で使っていたT-72とは似て非なる質の悪いもので、それが湾岸戦争で多国籍軍に一方的にやられたものだから「ソ連製の兵器ってダサいね」と評判を落として売れなくなってしまったほどでした。 火縄銃から突然兵器ルネッサンスがやってきた幕末日本は、質問者さんが指摘するようにアメリカの南北戦争終結で大量に出てきたひと世代前の中古兵器をありがたがってボッタクリ価格で競うように買いましたが、それゆえに西洋諸国の植民地にされるのを避けられた面もあったかもしれません。それでひと儲けできたからです。 そうしている間に日本は頑張って国家から社会から文化に至るまで凄まじい勢いで近代化したのですからね。大政奉還は幕末エピソードですが、それからたったの5年後に鉄道を作ってるんですよ。お金ないのに。今から5年前って、トランプ大統領が誕生した年ですよ。ついこないだみたいなもんじゃないですか。 >幕府や諸藩の大砲に関する知識はその程度であったと言うことですか。 今、世界はものすごい勢いで変わろうとしています。リモートワークとかキャッシュレス決済とか環境問題とか急速なIT化とか自動運転技術、EV車へのシフト、ビットコインの普及などです。 さてそういった「世界の潮流」に対して、私たちはいったいどれだけ関心を持ちかつ追いつこうとしているでしょうか。「大砲に関する知識」を「ビットコインに関する知識」に置き換えてみたらどうですか。 現代の我々が当時の幕府や諸藩、あるいは鳥居耀蔵を笑うことはできるでしょうか。変化を頑なに拒否し、現状を維持することに汲々とする「現代のプチ鳥居耀蔵」は、そこらじゅうにいるのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 最新技術を理解できて、そして冷静に先を見通せる「高島秋帆」という人がいたのですね。 調べてみますと長崎の町年寄の家に生まれていますから「町人」ですね。 町人だからこそ町人の感覚で、自由に物事を判断できたのかもしれません。 自費で大砲を購入するなんて物凄い度胸です。 >現代だって外国に輸出する兵器はデチューンするのがお約束です。 当時の大砲のような物でも当然そうしていたということですね。 よく分かりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 薩英戦争で日本製大砲が役立たなかったので、全て輸入したのかと思って質問しましたが、大間違いでした。 佐賀藩はすごいですね。 調べてみますと、佐賀藩は、鉄製の大砲を国産化して、幕府に納入しています。 「安政2(1855)年までに26門(うち8門は運送中に沈没)、安政6(1859)年までに32門納品し、50門のうち42門が品川台場に配備。」と。 一方、外国製大砲も入ってきていますが、おっしゃる通り「政治と商売は別物」ですね。 >徳川慶喜家は、数年前に断絶しました。 そうですか・・感無量です。