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1920−30年生まれの人に満州生まれの人が多い

1920−30年生まれの人で良く、満州生まれの人がいらっしゃいますが、なぜなんでしょうか?満洲事変と関係あるんでしょうか?何か疎開的なことをしてそこで生まれたんでしょうか?

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  • eroero4649
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回答No.4

日露戦争やその後のロシア革命などのなんやかやがありまして、中国東北部、当時の言い方をすれば満州地方が日本の実質的な植民地となってゆきました。 当時、南満州鉄道という半官半民の会社がありまして、主に満州における鉄道事業をやっていたのですが、場所が場所だけにそれだけではなく、鉄道が敷設されている地域の行政を行っていたり、製鉄業などもやっていたりのなんというのかな、鉄道会社と製造業と不動産業と商社と市役所を全部やっていたようなところでした。 この会社の社員の給与は、日本本土でのサラリーマンの給与がだいたい60円だったという時代に100円もらえていたそうなので、今でいうなら平社員でも年収600万円以上というところでしょうか。 しかも高給取りだっただけではなく、当時の満州は内戦で中国各地から逃げてきた人や、ロシア革命で逃げてきたロシア人(この人たちを白系ロシア人といいます)がいて、満州の中心地であった大連にはその逃げてきた中国人の中華料理屋や白系ロシア人のロシア料理の店などが立ち並び、石炭が産出しますから石炭の値段も安いので豊富な石炭を使ったセントラルヒーティングのビルが立ち並んでおり、農業も日本本土では不可能なトラクターを使った大規模農業が行われていました。 つまり、ぶっちゃけ日本の東北地方より満州のほうがよっぽど豊かだったのです。なので当然「満蒙開拓団」というのが結成されて移住する人たちがいたんですね。国もなんというか、本土の人減らしとして移民を奨励していたのです。なにしろ当時の大日本帝国は、食糧輸入国だったのです。当時も食料は時給できていなかったんですね。 だから当時の日本人はハワイやブラジルや満州にせっせと移民したのです。 で、そんな満州に生まれた人たちが敗戦に伴って今度は敗戦国の国民ですから財産も当然奪われますし、今まで散々虐げていた中国人から仕返しもされることになるわけで、みんな日本に逃げてきたのです。 だけどソ連軍や中国人の野盗から略奪されたりして、命を失うのがあまりに当たり前にある逃避行でした。そのときに発生したのが「中国残留孤児」です。 当時は中国では子供は(将来の労働力という期待も込めて)宝物でしたが、日本に逃げ帰る人たちにとっては乳幼児は単なる足手まといです。 例えばソ連軍から逃げてみんなが隠れているときに、赤ちゃんが泣きだした。その鳴き声が聞こえてソ連兵に見つかるかもしれなくて、見つかれば殺されることを覚悟しないといけない。だから「早く、赤ん坊を泣き止ませろ」といわれるわけです。若いお母さんは必死で赤ちゃんをあやすけど、そういうときに限って泣き止まない。みんな赤ん坊の声で見つかるんじゃないかと段々パニックになってくるんですね。「静かにさせろ!」「見つかったらどうするんだ!」とみんな怒る。自分も死ぬかもしれないんだから、みんな必死です。 なのでお母さんは泣きながら、赤ちゃんの口と鼻を押さえたのです。やがて赤ちゃんは静かになりました。こんな悲劇が、そこらじゅうにあったのです。栄養不足で死んでしまう子も続出しました。 だからそんな状況だったので「死なせるより中国人に預けたほうがいい」となったのも当然ですよね。引き取った中国人も何かお返しはしてあげたいけれど、お金が実質的に紙切れになっていますからお金を渡しても意味がない。みんなお腹をすかせていてロクに食べてもいないけれど、かといって引き取る中国人もそんなに食べられるわけでもない。じゃあせめて今ここにある肉まんを2個持っていきなさいとかになったわけです。 特に成人男性がソ連軍に捕まると殺されるかシベリア送りにされたので、女性と子供ばかりで逃げるしかありませんでした。敗戦国の女たちですから、別に乱暴をいくら働いても構いません。なんだったら殺してもいいくらいですから。そういうことを日本軍が中国でやってきたのですが、満州でソ連軍にやられたのです。 私が満州からの引揚者の人から直接聞いた話でもそういうのがありました。ソ連軍から「看護婦をよこしてくれ」といわれて、逆らうことができないので女性何人かを説得して行ってもらうことになったが、そのまま消息が分からなくなってしまったそうです。 そうやって命からがら満州から逃げ帰った人も、日本は安住の地ではありませんでした。なにしろ日本も敗戦でボロボロになっていて食えなかったからです。それでなくても食えないところに難民がやってこられても「来ないでくれ」となるじゃないですか。 ですので引揚者の人たちは塗炭の苦しみを味わうことになりました。

noname#248885
質問者

お礼

長文に渡りありがとうございます。 ただ、著名人や著名な教授、もとをたどせば満州国生まれが少し居たりしてなぜなのか疑問に思った次第です そういった日本の敗戦だけでも辛いのに、満州に渡った人たちを思えばなんとも言えない気持ちになりますね。

その他の回答 (3)

noname#252332
noname#252332
回答No.3

 満州国の存在が1932~1945年ですから、それ以前とそれ以後に満州国生まれの子を産むことは困難です。また1945年8月に乳幼児だった人は、敗戦から引き上げまでの飢餓で死んだ人が多かった。鹿児島県の与論島出身だった私の両親も徴兵されて技術士官だったため夫婦で満州の砲兵大隊にいましたが、父は捕虜、母は引き揚げの際に長男、長女も残留孤児にならず餓死しました。軍人でなくても開拓や商売で移住した人がこの時期に多いのです。出光興産も満州で軍とつながり基礎を築きました。

noname#248885
質問者

お礼

xitianさんはそんななかでも、よく生き延びられてすごいです。貴重な証言となりますありがとうございます。

  • tzd78886
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回答No.2

「多い」といったって、実際にはごく一部です。愛新覚羅溥儀を皇帝とする「傀儡国家」として実質日本の領土のような扱いで若い開拓民を募集していたため(実際には地元民の土地を取り上げて与えていた)そういうれいもありました。ちなみに、傀儡国家であっても国として承認していた国は多かったのですが、「国民は誰一人存在しない」奇妙な国でもありました。日本から移住した日本人は日本人としての誇りを持っていたからであり、日本国籍を捨てるなんて考えられなかったからです。元々いた人たちも「満州国籍を取得したい」などと考えたりする人は存在しませんでした。

noname#248885
質問者

お礼

ありがとうございます。なんというか、悲しい歴史ですね

回答No.1

日本の傀儡国家です、満州国は。そこに北海道みたいに入植させたから満州生まれが多い。当時の日本は東北なんかは子供が身売りに出される様な時代背景でした。世界恐慌の煽りを受けてたんです。基本的に貧しい日本国民を満州国に送り出してたんです。満蒙開拓団とか調べてみて下さい。結局、敗戦でソ連が攻めてきて沢山死にました。命からがら祖国へ帰ってきた人が日本で今度は貧しい暮らしです。当時の日本は焼け野原でしたから。しかし、本土では空襲で沢山の死者が出たので人口が今の様に多いのは彼らが命懸けで今日の繁栄を築いたからでもあります。

noname#248885
質問者

お礼

すごいことを聞けてよかったです。 社会や歴史ではそこまで知ることができませんでしたから

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